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     好事家(スケベ)で知られるその客人は、かの『チャタレイ夫人の恋人』なる本を「もういらないから」とテーブルの上に置いていってしまった。

     カタブツで知られる父親はこう考えた。
    「こんな本は誰にも読ませたくないから焼いて捨てるべきだ。しかし、アイツ(客人)にどうだった?と聞かれると困るから、読んでおいてもいいかもしれない。だが、息子が読むことだけはまかりならぬ」

     ところでサバケタ息子の方は『チャタレイ夫人』程度では、なんとも思わない(いや、ほんとのところそんなにエッチではない)。むしろ、こう考えた。
    「あのカタブツ親父こそこの程度のものは読んでおくべきだと殊勝なことを考えた。親父が読まないなら、ひまつぶしに読んでみるのもいい。だがしかし、焼き捨てるなんていうのは論外だ」

     まとめると、次の3つについて
      《捨》:この本は焼き捨てる
      《親》:この本は親父が読む
      《息》:この本は息子が読む

    2人はそれぞれこう考えているのである。(>不等号は、右の選択よりも左の選択の方がよい、という意味)

     カタブツ親父の考え: 《捨》>《親》>《息》
       息子が読むよりは、親父が読むのがまし(よい)。
       親父が読むよりは、焼き捨てるのがよい(まし)。
      
     サバケタ息子の考え: 《親》>《息》>《捨》
       捨てるよりは、息子が読むのがまし(よい)。
       息子が読むよりは、親父が読むのがよい(まし)。

     さて、カタブツ親父とサバケタ息子が暮らす社会は、いわゆる自由主義が尊重されている。
     難しい話は抜きにしても、他人に関与しないかぎり(たとえば誰かに迷惑をかけない限り)、個人が何をしようと、どんな行動を選ぼうと自由である。
     
     ないこともない、この事態は、しかし丁寧に見ていくと、ちょっとヘンテコな結論にたどりつく。

    1:この社会では、「《息》:この本は息子が読む」か「《捨》:この本は焼き捨てる」か、そのどちらを選ぶかについては、まったくサバケタ息子の自由である。

     なんとなれば、この選択は、他人に関与していないからである。
     まったく個人の責任の範囲で、個人の行動を選択するだけで足りるのである。
     したがって今、サバケタ息子の頭の中は「《親》>《息》>《捨》」となっているのであるから、彼は《捨》よりか《息》の方を選ぶだろう。
     
    2:同じように、この社会では、「《親》:この本は親父が読む」か「《捨》:この本は焼き捨てる」か、そのどちらを選ぶかについては、まったくカタブツ親父の自由である。

     なんとなれば、この選択は、他人に関与していないからである。
     まったく個人の責任の範囲で、個人の行動を選択するだけで足りるのである。
     したがって今、カタブツ親父の頭の中は「《捨》>《親》>《息》」となっているのであるから、彼は《親》よりか《捨》の方を選ぶだろう。
     
    3:二人の自由な選択の結果(《息》>《捨》と《捨》>《親》)からすると、最終的に「《息》:この本は息子が読む」が勝ち抜いてしまう。

     しかし、ちょっとまってほしい。カタブツ親父はおろか、サバケタ息子ですら、《親》>《息》(息子が読むよりも、親父が読んだ方がいい)と思っていたのではなかったか。

     ふたりの選択を合わせると、どうしたわけか、ふたりの選択からすると「もっとましな選択があったはずなのに」というイマイチな選択に到達してしまうのだ。

    《どのように権利体系を定めても、それが最小限の自由を保障するものであれば、その権利の枠内でのひとびとの選択の結果がだれも望まないものになる(その結果よりも,他のある実現可能な状態をみんなが一致して望む)場合が、かならずある》

     この定理は,Amartya Senが示した〈自由主義のパラドックス〉として知られており,個人の自由と全員一致の条件を両立させることはできないことを主張している。

     なお『チャタレイ夫人の恋人』の比喩の原案もセンによる。


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     絵画についてのおしゃべりは、もちろん絵画にならない。

     しかし画家だって、他人の絵を見て良いはずだし、それを見てブツクサ言ったって良い訳だ。

     この本は、画家が他人の(時々自分の)絵についてブツクサ言ったそんなコトバが、当の絵とブツクサ言ってる画家のイラストその他のイラストとまざりあって出来ている。
     絵解きコトバ解きの絵画史だ。
     これ見たら、いままでの美術史なんか、抹香臭くて読めない。

     「ベラスケスに比べれば、ティッティアーノの肖像なんて、材木に見える」といったマネは、そのベラスケスから構図や背景の処理(無背景にしてしまう)だけでなく、その黒の使い方も学んだ(比べると歴然である)。

     「フェルメールにはベラスケスでさえ遠く及ばない。フェルメールには、すでに完璧なものを、なお完璧にしようとする熱狂と苦悩があった。極限を極めるために彼は何度でも書き直し、コトバがまったく無力になる奇跡に達したのだ」といったダリは(彼がここまで手放しに誉めるなんて珍しい!)、このコトバとおりにフェルメールにぞっこんで、自分の絵になんどもフェルメール(「絵画芸術の寓意」という作品の中で絵を描いているフェルメール自身の姿)を登場させている。時には、フェルメールをテーブルにして登場させている(ダリ「テーブルとして使われるフェルメールの亡霊」←しょうがないヤツ)。

     耳を切ったんで狂人扱いされたゴッホだが、図抜けた才能の絵描きであったばかりでなく、すごぶる的確な絵読みであったことも知られている。

    「ゴッホはすべてが乱雑と混沌の中にあるくせに、キャンバスの上ではすべてが輝いている。また、彼の芸術についてのコトバも同様だ」(ゴーギャン)。

     シャガールもこう言ってる。
    「スーティンは大した絵描きだが、ゴッホには到底およばない。デッサンをやらないからだ。ゴッホの絵はどれも卓越した画法に支えられている。二人の違いはそれだけだが、何という違いか」。

     このゴッホとダリはともに、土に生き働く農民の姿を描いたミレーの絵を自作に引用している。当然、絵についてもブツクサ言っている。
    「「彼の百姓は種まきしているそこの土で描かれているようだ」という言葉はミレーの絵を的確に言い当ててる。彼はすべての基礎のなるような色彩をパレット上でどうつくるかを知っている」(ゴッホ)。

     なるほど的確だ。

    「「晩鐘」の男は自分の勃起を帽子で不自然に隠している。その結果、よけいにそれをはっきりさせてしまっている。まったく、ミレーはユニークな主題を書いたものだ」(ダリ)。

     出たな、偏執狂的批判的方法(ほとんど言いがかり)。


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     図書館映画とは、図書館が出てくる映画のことをいう。


     『ベルリン天使の詩』のベルリン市立図書館や、『ティファニーで朝食を』 のニューヨーク公共図書館(NYPL)など、実在の図書館が登場する事は多い。

     一方で『ソフィーの選択』では、その機械的・官僚的応対でソフィーを卒倒させる黒縁メガネの司書が登場し、
    邦画特撮で『ガス人間第1号』では、生体実験でガス人間(透明人間) になり、日本舞踊の女師匠に恋慕を募らせつつ悪事を働くのはやっぱり図書館員(しかも主人公)である。

     『love letter』の中山美穂は図書館勤務、一方、『ハンニバル』のレクター博士は図書館司書になりそこねる。

     ステレオタイプ化された本の番人は、それが高じて、世捨て人だったり鬱屈が高い圧力となってすごいことしでかしそうだったり、何だか得体の知れない人物として造形される。もっとも「図書委員」の女子は、昨今とあるジャンルでは大変人気が高いらしい。

     図書館情報学という学問には、世間一般の図書館に対するイメージを考える一環として、映画や小説やテレビドラマなどで、図書館もしくは図書館員がどのように描かれているか、ということを論じた研究分野がある。図書館映画はその中で研究されているのである。

    図書館映画の深さと広がり、研究の意義などについては下記のサイト・文献を参考。

    図書館映画データベース http://www.libcinema.com/

    図書館映画やテレビ番組wiki
    http://itasan.mydns.jp/wiki.cgi/Movie?page=FrontPage



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