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     テキストに注をつけていく精読法とその効用について、それから本に大きなマージンをつけてそこに注を書き込んでいくやり方について、以前に書いた。

    本居宣長に学ぶ精読の極み/注釈をするは、すべて大に学問のためになること也 読書猿Classic: between / beyond readers 本居宣長に学ぶ精読の極み/注釈をするは、すべて大に学問のためになること也 読書猿Classic: between / beyond readers このエントリーをはてなブックマークに追加


     他人の書いたものに適用できることを、自分の書いているものに使っても何の支障もない。
     効果的だし、方法に磨きをかけることにもなる。


     マージンとして使うスペースをあらかじめ(物理的に)設けておくノートの取り方は多い。
     
     やり方はどうあれ、ノートの本体部分(ボディ)に対して、メタ・ノートの部分には、
    (a)本体部分(ボディ)をフォローする[順行]
    (b)本体部分(ボディ)のアゲインストにまわる[逆行]
    の、いずれもを書くことができる。


     大雑把にだが、
    (1)インプット(習得)を主目的とするノートには、(a)順行コメント(リマインダーになるキーワードを抜きだしたものや内容をまとめた見出しなど)が、
    (2)アウトプットの準備に案を練るノートには、(b)逆行コメント(ツッコミ、反論、論駁、不足・矛盾の指摘など)が、
    多くなるだろう。

     メタ・ノートの精髄は、(紙その他の補助記憶の上での)自己対話にある。
     頭の中でやればいいようなものだが(そして、現に我々はそうしているのだが)、自分の外に「外化」すると、かなり違う。
     
    ・外部の補助記憶手段を用いることで、《注意》という貴重な認知資源を、異なるポイントに対して、異なる角度でアプローチすることができる。しかも繰り返しだ。

    ・自然言語の範囲で要求される、論理的(ロジカル)である水準は、つまるところ対話的(ダイアロジカル)であることだ。できるかぎり欠陥や欠落や飛躍を拾い出し、考えられ得る反論に対し再反論しておくことが、思考の錬度を高め、武装度を上げる。





    (おまけ)
     あまり参考にならないが、
     シャルル・フーリエ『四運動の理論』(現代思潮社)について取ったノートと
     それに対するメタ・ノートを例示する
    (ほとんど「対話」してなくて、むしろ一緒になってはしゃいでるので、悪い例)。



    [上 巻]        
            |
            |//序文//
            |
            |p11
            | ……私は文明人にとってまったく新しい一つの真理に注意を
            |喚起する。すなわち、社会的、動物的、有機的、物質的という
            |[四運動の理論]こそは、理性の企てるべき唯一の研究であっ
            |たということである。
            |        
     その通りだ! | ……諸天体の住民はこの問題を解決してからでなければ幸福
            |に行きつくことができない。
            |        
            |p12
            | ……今後はただひとつの議論のみが文明人の関心を奪うはず
            |だ……
            | ……その議論とは、私が本当に[四運動の理論]を発見した
            |のかどうかをたしかめようとするものである。
            |        
            | ……というのは、それが確かである場合、……この地球はお
            |ろかあらゆる天体の上に起こりうるもっとも驚くべき、また
            |もっとも[幸運な出来事]の準備をせねばならないからであ
            |る。
            |         、、、、、、、、、、、、、、、、、、
     突然の移行! |その出来事とは、[社会的混沌から普遍調和への突然の移行]。
            |
             
            |//予説//
            |        
            |
            |p13 
            | 文明諸国民の軽率さについて。
            | 彼らは運命の理論への前進に役立つ二部門の研究を忘却ない
            |しは軽視してきた。
            |        
     運命と    |        、、、、     、、、、 
     農業組合   |その二部門は、[農業組合]および[情念引力]の研究である。
            |        
            |p14
     フーリエと  | 人々は、いままでに得た知識が今後残されている知識の4分
     分数     |の1そこそこにすぎないことを、思い知ろうとしている。
            |
             
            |//予告される発見の導きとなった指標および方法//
            |        
            |p20
    どんな訳なのだ?| ……そんなわけだから、いかにも運命と関係がないように見
            |えるはずの主題について、私は論をすすめてゆきたい。すなわ
            |ち[農業組合]である。
            |

            |//農業組合//
            |
            |p24
    注意!!    | ……要するに、いまや人類の境遇を変えようとしているこの
    情念は変化しない|農業組合の理論は、万人共通の諸情念にとり入って、利益と逸
            |楽とを餌にそれを誘いこむものである。
            |        
            |p25
            | いそいでこの新秩序のことを知らせるにはあたらないが、私
            |はこれに[累進セクト]または[集団系列]、[情念系列]と
            |いう名を与えよう。
            |        
            | ……これらのセクトの配置はあらゆる点で幾何数列のそれに
     ノートAを  |似ている。それらは幾何数列の特性をすべてそなえており、た
     参照せよ   |とえば、系列に属する極限の集合と中間の集団とのあいだの対
            |抗の均衡がそれである。
            |        
            |p27
            | 今日の所帯においては、子供達は騒いだり、物を壊したり、
            |喧嘩したり、勉強をいやがったり、そんなことばかりに熱心で
            |あるが、そのおなじ子供達を[累進セクト]または[集団系
     すばらしい! |列]に入れてやった場合、うるさくいわないでも競って仕事に
            |精を出すようになり、よろこんで耕作や製造、学問や芸術を学
            |ぶようになる。
            |        
     はっはっ!  | ……父親たちがこの新秩序を見たら、自分の子供達がセクト
            |の中では感心だが、不統一所帯のなかでは憎らしいと知るであ
            |ろう。
            | 
     

     
     英語の構文を何故覚えるか? 何故、英文法を学び、それによって英文を分析・分解する練習を行うのか?

     英語を日本語にしたり、日本語に英語にしたりする力が身につく、というのが表面的な答だ。
     

     本当の目的を話そう。

     英語の構文は、思考のパターン(形)をまとまって提供される、いまの日本だと、最初の、そしてほとんど唯一の、機会に他ならない。
     そして英文法は、ある種の「人工言語」として英語を扱うためのプロトコルであり、そのトレーニング手段である。

     つまり、構文というパターンを蓄え、英文法に基づき、与えられた文を分解したり組み換えたりすることを通じて、考えることと書くことの初歩トレーニングを行っているのである。

     したがって、この段階をスルーすると、自分で自覚的に機会を設けないかぎり、考える作法、書く作法を知らないまま、一生を終える事になる。

     卑近な例を出せば、そのままだと、いくら論文の書き方を教えられても、「感想文に毛が生えたもの」しか書けない。

     思考のブロックを手にしないまま、ブロックを扱うことを知らないままでは、さらさらと流れる砂を積むしかない。
     いくらかの高さの砂山は作れても、これでは構造物をつくることはできない。

     また、一定以上の長さの文章を書く事ができない。
     積み上げることができなければ、砂山の高さは限られたものとなるからだ。

     トレーニングの手段や機会は、何も英語でなくてもよさそうだが(無論、思考のブロックを手にする機会は、他にもある)、母語/日本語の場合だと意識せずにできることが強く意識化しないとできない/自由に使えない第2言語は、学習機会として適している。

     言い換えれば、人工言語のように外国語を学ぶ事は、他の人工言語を取り扱うのに役立つ経験となる。

     そして、実のところ、世の中で書かれているほとんどの文章は、何らかの意味で「人工言語」なのだ。

     たとえば、その業界のルールないししきたりにそって、「~であるかのように」書くことが、「文章を書くこと」そして「考えること」なのである。

     「思った通り書く」ことは、書く事の中ではごく私的な領域に限定された、マイナーな位置付けしか与えられない。
     はっきりいえば、それはわざわざ書くまでもないことだ、という扱いを受ける。

     他人に開かれた/他人が読む事が予定された文章は、一定のプロトコルに沿って書かれる。

     そして、どのようなプロトコルにしたがって書くにしろ、取り扱っている言葉に対する自覚的なアプローチが、「考えること」の基盤となるのである。




     抜書きはスキルと言うより、習慣に属すべき事柄だ。

     その意味では、とりかかるのは早い方(今、今日から)がいい。10歳から始めていれば、20歳で10年分の蓄積がある訳だから。

     やることは極めてシンプルだ。
     目にとまったフレーズ、耳に残ったコトバを、書き溜めて行く。ただそれだけ。
     紙のノートでも、Evernoteでも、なんでもいい。
     というのも、検索は、あまり必要ない、すくなくとも最も大事な目的にとってはさほど重要ではないからだ。

     抜書きされるものの中には、すぐに実用に供されるものもあるが、目的の中心はそこにはない。
     例えば、忘れ果てた後に、どこかで同じコトバに再会することがあっていい。
     書きとめなければ、その再会はなかったのであり、あとでまた触れることになるが、それこそが重要なところだ。

     書いておくのは、抜き出したコトバの他には、日付と出典。
     あと、できれば、コメントや感想、その他思いついたものならなんでもよいが、自分のコトバを添え書きをしておきたい。無論、抜書きしたコトバと、はっきり区別がつくように書く。
     
     添え書きの効用は、ひとつは記憶/想起の手がかりになることだ。
     もうひとつは、抜書きしたコトバを核にしてある種の「結晶」が成長していくことがある。添え書きから「作品」が生まれるのだ。たとえば、モンテーニュの『エセー』は、そうした抜書きと、それに添えられたコトバから生まれた。

     しかし、こうしたものも、言わば「副産物」に過ぎない。

     100や200ほど書き溜めてから読み返すと、いずれもあなたの眼鏡にかなったコトバたちだ、おもしろく楽しく読むことだできるだろう。
     しかし年の単位で続けていくと、抜書きの効用がそれだけではないことに、自然と目が向く。 
     書き溜めていくほどに、自分のやっていることは、単にどこかで使いたいコトバを収集しているだけではないことに気付くだろう。

     もともと、古典古代を再発見していったユマニストたちだけでなく、抜書きは、コトバを取り扱う者にとって、伝統的な基礎トレーニングであるのは勿論のこと、重要な自己陶冶(self-cultivation)の方法だった。

     つまり、抜書きされたコトバたちによって、あなたの「一部分」が形成されていることに、ある日気付くのだ。
     もちろん、抜書きしたコトバだけから成る、と言うわけではない。あなたが摂取した経験やコトバは、それよりずっと(そして記憶しているよりもさらに)広大なものだ。
     けれど、自分の血肉となっているものと「再会」するには、こうして別立てで書き抜いておいたこと/ものが役に立つ。
     
     それを書き抜いた日のあなたと、今日のあなたは違っている。
     
     けれど、違えようもなく、書き抜いた日のあなたは、現在のあなたの一部なのだ。

     どんなコトバを書き抜いていくかによって、どのような人間になるかが(無論、部分的にだが)決まっていくと知れば、いやそのことを実感すれば、何を書き抜いていくかも、自然と異なったものになる。