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2014.07.12
パラダイムとかクーン『科学革命の構造』を5分間で説明する+オマケ
思うところあって、誰もが知っているような書物を紹介することをはじめます。
読むのがあまり得意でない人にも読んでもらおうと思ったので、なるべく分かりやすく書くことに加えて、簡単なことを最初にひととおり済ませて、難しいことは後でやり直す方法を採用しました。
繰り返しが生じる欠点があるけれど、途中で読むのをやめてしまってもいくらか得るものがあるだろうと思ったのです。
第1回めはトーマス・クーン『科学革命の構造』。
次回は、いつになるか分からないけど、ベネディクト・アンダーソン『想像の共同体』をやります。
1 『科学革命の構造』に書いてあること
この本は科学が科学革命をへて発展すると主張しています。
革命だから、それまでの科学は一度壊されて新しく再建されるので、科学の発展は切れ切れに続いてきたもの、ということになります。
言い換えれば、新しく発見・発明された科学知識が積み重なることで科学が発展してきたという、これまでの科学発展の考え方はウソだと言うのです。
この本の著者クーンが考える科学発展のステップを図に書くと以下のようになります。
『科学革命の構造』は全部で13の章でできていますが、序論「第一章 序論・歴史の役割」とまとめ「第十三章 革命を通じての進歩」をのぞくと、科学発展の順番に各章を割り当てて、それぞれを説明しています。これも一緒に図に入れてみました。

(クリックで拡大)
この図にも、これからの説明にも、繰り返し出てくるので、「パラダイム」という言葉を簡単に紹介しておきます。
パラダイムとは、科学者たちが研究をするお手本となるような具体的な業績のことです(「考え方の枠組み」みたいなものだとよく勘違いされますが)。
たとえばニュートンの『プリンキピア』がそうです。
もう少し詳しい説明は、後でもう一度出てきます。
ではクーンが考える科学の発展について、図に沿って説明します。
(1)前パラダイム期から通常科学へ

自然の研究は、パラダイムができることで(より正確に言えば、あるパラダイムを科学者共同体が受け入れることで)自然科学となります。
パラダイムがないと、学術コミュニケーションは論争が中心になります。
こうした場合、学者の仕事は(典型的には)ライバルを名指ししその学説を批判する形で発表されました。
相手を論破するために、相手の説では解けない問題や説明がつかない事例が示され、相手が前提とする土台や、時には学問とは関係ないところまで互いに攻撃することになりました。
このやり方は今までの前提を疑ったり、学問の基礎を掘り下げるには良いのですが、前に進みません。
比喩で言うとこれは、将棋の駒の種類や盤の大きさをあーでもないこーでもないと議論しているようなものです。ゲームのルールがぐらぐらしていては、知見が蓄積されず(違うルールのものでの記録は役に立ちません)、定石だって生まれません。
(2)通常科学

問題が限定されるから、解けたかどうか分かるから、集中できる
パラダイムができると(少なくとも同じパラダイムをシェアする科学者共同体では)研究は論争からパズル解きに変わります。通常科学のはじまりです。
パラダイム(となる具体的な業績)から科学者は、解くべき問題と解き方の指針を引き出すからです。
もはや「そもそも論」や互いの研究の前提を攻撃しあうことで互いに消耗することはありません。
つまり何が解くべき問題か、どうやって解くのがアリか/ナシか、そしてどうなれば解決なのか、基準なり指針ができるので、科学者は安心して研究に打ち込むことができます。
また社会的には重要だがどう取り組んだらいいか分からないような問題に煩わされることもありません(パラダイムには科学者を科学者共同体の外から守る機能もあるのです)。科学者はパラダイムの元で解ける見込みがありそうな問題に集中することができます。
これらのことは研究の効率を高めます。他の知的生産に対して、科学が優位を保ち続けている一因です。
(3)変則事例(アノマリー)

通常科学が進むほど、変則事例は出現する
しかし通常科学は確かに効率がよいのですが、あくまでパラダイムが引いた線路の上を行く営みです。
それまでとは一線を画する画期的といえる業績、古いパラダイムにとって変わる新しいパラダイムはどうやって生まれてくるのでしょうか?
通常科学が進むことによって、逆に通常科学の内では(つまり今のパラダイムの内では)解決できないような変則事例(アノマリー)が生まれてくるのだ、とクーンはいいます。
通常科学が進むと、理論と測定の精度があがります。こんな場合はこうなるはずだ、という予測がより精密にできるようになります。
そして予測が精密になればなるほど、科学者は予測から外れた事象に気づきやすくなるのです。
ゆるゆるの予想しかできなかった頃には「理論どおりじゃないけど、まあこれくらい誤差って事もあるよな」とスルーされていた現象も、予測が精密になれば「こんなはずがない!(今の理論からすればこんなこと起こるはずがない!)」ということになります。
しかし既存の理論で説明つかない変則事例が出てきても、すぐに既存理論が捨てられたり、「よっしゃ新しいパラダイムでいこう!」となるわけではありません。
変則事例が出てきても最初はスルーされます。
現行のパラダイムがいよいよ持たなくなって、盛んに次の手が模索される頃に「そういえば、この説明できない現象って、随分前から言われてはいたんだよな」と思い起こされるくらいです。
このあたりの事情を、クーンは「黒いハートや赤いスペードという変則カードを混ぜたトランプ実験」を例に説明しています。

私たちはハートは赤いもの、スペードは黒いもの、と思い込んでいるので、黒いハートや赤いスペードのカードと出会っても、ほとんど気に留めずスルーします。「今のカードは?」と聞いても「ハートです」と答えるだけで「何色でした?」と尋ねても「赤です(ハートだから当たり前でしょ、へんなこと聞くなあ)」と答えるのです。
混ぜる黒いハートや赤いスペードの数を増やしていくと、そのうち「ん?何か変なカードが混ざってる」と気付く人が出てきます。
一度気付いてしまった人は、さっきまでのようにはスルーできず、いちいち黒いハートや赤いスペードに気づくようになります。
(4)パラダイムの危機

変則事例の出現が科学者に認知されても、そのままパラダイムの危機に直結する訳ではありません。
「理論とあわない現象によって反証されるからこそ科学なんだ(反証されないものは科学じゃない)」とポパーは主張しましたが、クーンは「いや、理論に合わない現象が出てくることなんて日常茶飯事で、それこそ通常科学のうちで解くべき問題として科学者の飯のタネなんだ」と考えました。
たとえばニュートンの『プリンキピア』は、天体や地上の運動を統一的に扱える画期的な仕事でしたが、問題を解決するだけでなく、多くの問題を生みました。つまりニュートンの理論に合わないことがたくさん見つかり、科学者はそれを通常科学の中でパズルとして解く(ニュートン力学のパラダイムの内で解決する)仕事を何世紀も続けることになります。
しかし変則事例が無視できないばかりか、現行のパラダイムでの問題解決ではにっちもさっちもいかなくなるとパラダイムの危機が訪れます。ここでの科学者の対応は3通りあります。
ア.理論にいろいろ追加したりして現行のパラダイム内でなんとか解決する
イ.棚上げして次世代に期待する
ウ.新しいパラダイム候補を探す
危機に至っても、新しい方へ行くよりも、何とか変わらずにいようとする力が強く働きます。
しかしこの変わらずにいようとする志向、言い換えれば「現行のパラダイムの内で解くべき問題はすべて解けるのだ」という確信こそが、わき目も振らず通常科学に科学者を打ち込ませるのです。これこそが通常科学の知的生産の効率性を支え、さらには精緻化・精密化から変則事例を科学者の目に触れやすくし、結局のところ科学革命を準備するのです。
クーンの科学革命論のキモは、科学研究におけるこうした革新的な志向と保守的な志向との本質的緊張が科学を発展させる、と考えるところです。
(5)科学革命

研究のやり方を変えるのは非常にコストがかかることでできれば避けたいのですが、危機が深まるとそうとも言ってられません。
いよいよ現行のパラダイムがやばそうになると、科学者を制限していたパラダイムのたががゆるみます。
これまでのやり方とは外れたアプローチがいろいろ試されます。例えばそれまでまともな科学者なら避けるべきだった哲学的議論なんかも交わされたりもします。
この状態は、パラダイムができる(=あるパラダイムを科学者共同体に受け入れられる)以前の状態、すなわち前パラダイム期に似ています。
目下解けない問題=変則事例のすべてを解くものではないけれど、そのいくつかには解答(つまり部分解)を与えるやり方が提案され始めます。
しかし解けない問題もたくさんあるので、すぐには誰もが採用するという風にはなりません。
しかし目下解けない問題=変則事例の多くを解くやり方が現れ、どうにかして支持を集め、多くの科学者がその元に集まると、これを新しいパラダイム=以降の研究のお手本となる業績として、新しいステージの通常科学がはじまります。
こうした繰り返しを経て、科学は発展していくとクーンは言うのです。
せっかくなので、この繰り返しが分かるようにフロー図でも書いてみました。

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読むのがあまり得意でない人にも読んでもらおうと思ったので、なるべく分かりやすく書くことに加えて、簡単なことを最初にひととおり済ませて、難しいことは後でやり直す方法を採用しました。
繰り返しが生じる欠点があるけれど、途中で読むのをやめてしまってもいくらか得るものがあるだろうと思ったのです。
第1回めはトーマス・クーン『科学革命の構造』。
次回は、いつになるか分からないけど、ベネディクト・アンダーソン『想像の共同体』をやります。
1 『科学革命の構造』に書いてあること
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革命だから、それまでの科学は一度壊されて新しく再建されるので、科学の発展は切れ切れに続いてきたもの、ということになります。
言い換えれば、新しく発見・発明された科学知識が積み重なることで科学が発展してきたという、これまでの科学発展の考え方はウソだと言うのです。

『科学革命の構造』は全部で13の章でできていますが、序論「第一章 序論・歴史の役割」とまとめ「第十三章 革命を通じての進歩」をのぞくと、科学発展の順番に各章を割り当てて、それぞれを説明しています。これも一緒に図に入れてみました。

(クリックで拡大)
この図にも、これからの説明にも、繰り返し出てくるので、「パラダイム」という言葉を簡単に紹介しておきます。

たとえばニュートンの『プリンキピア』がそうです。
もう少し詳しい説明は、後でもう一度出てきます。
ではクーンが考える科学の発展について、図に沿って説明します。
(1)前パラダイム期から通常科学へ

自然の研究は、パラダイムができることで(より正確に言えば、あるパラダイムを科学者共同体が受け入れることで)自然科学となります。
パラダイムがないと、学術コミュニケーションは論争が中心になります。
こうした場合、学者の仕事は(典型的には)ライバルを名指ししその学説を批判する形で発表されました。
相手を論破するために、相手の説では解けない問題や説明がつかない事例が示され、相手が前提とする土台や、時には学問とは関係ないところまで互いに攻撃することになりました。
このやり方は今までの前提を疑ったり、学問の基礎を掘り下げるには良いのですが、前に進みません。
比喩で言うとこれは、将棋の駒の種類や盤の大きさをあーでもないこーでもないと議論しているようなものです。ゲームのルールがぐらぐらしていては、知見が蓄積されず(違うルールのものでの記録は役に立ちません)、定石だって生まれません。
(2)通常科学

問題が限定されるから、解けたかどうか分かるから、集中できる
パラダイムができると(少なくとも同じパラダイムをシェアする科学者共同体では)研究は論争からパズル解きに変わります。通常科学のはじまりです。
パラダイム(となる具体的な業績)から科学者は、解くべき問題と解き方の指針を引き出すからです。
もはや「そもそも論」や互いの研究の前提を攻撃しあうことで互いに消耗することはありません。
つまり何が解くべき問題か、どうやって解くのがアリか/ナシか、そしてどうなれば解決なのか、基準なり指針ができるので、科学者は安心して研究に打ち込むことができます。
また社会的には重要だがどう取り組んだらいいか分からないような問題に煩わされることもありません(パラダイムには科学者を科学者共同体の外から守る機能もあるのです)。科学者はパラダイムの元で解ける見込みがありそうな問題に集中することができます。
これらのことは研究の効率を高めます。他の知的生産に対して、科学が優位を保ち続けている一因です。
(3)変則事例(アノマリー)

通常科学が進むほど、変則事例は出現する
しかし通常科学は確かに効率がよいのですが、あくまでパラダイムが引いた線路の上を行く営みです。
それまでとは一線を画する画期的といえる業績、古いパラダイムにとって変わる新しいパラダイムはどうやって生まれてくるのでしょうか?
通常科学が進むことによって、逆に通常科学の内では(つまり今のパラダイムの内では)解決できないような変則事例(アノマリー)が生まれてくるのだ、とクーンはいいます。
通常科学が進むと、理論と測定の精度があがります。こんな場合はこうなるはずだ、という予測がより精密にできるようになります。
そして予測が精密になればなるほど、科学者は予測から外れた事象に気づきやすくなるのです。
ゆるゆるの予想しかできなかった頃には「理論どおりじゃないけど、まあこれくらい誤差って事もあるよな」とスルーされていた現象も、予測が精密になれば「こんなはずがない!(今の理論からすればこんなこと起こるはずがない!)」ということになります。
しかし既存の理論で説明つかない変則事例が出てきても、すぐに既存理論が捨てられたり、「よっしゃ新しいパラダイムでいこう!」となるわけではありません。
変則事例が出てきても最初はスルーされます。
現行のパラダイムがいよいよ持たなくなって、盛んに次の手が模索される頃に「そういえば、この説明できない現象って、随分前から言われてはいたんだよな」と思い起こされるくらいです。
このあたりの事情を、クーンは「黒いハートや赤いスペードという変則カードを混ぜたトランプ実験」を例に説明しています。


私たちはハートは赤いもの、スペードは黒いもの、と思い込んでいるので、黒いハートや赤いスペードのカードと出会っても、ほとんど気に留めずスルーします。「今のカードは?」と聞いても「ハートです」と答えるだけで「何色でした?」と尋ねても「赤です(ハートだから当たり前でしょ、へんなこと聞くなあ)」と答えるのです。
混ぜる黒いハートや赤いスペードの数を増やしていくと、そのうち「ん?何か変なカードが混ざってる」と気付く人が出てきます。
一度気付いてしまった人は、さっきまでのようにはスルーできず、いちいち黒いハートや赤いスペードに気づくようになります。
(4)パラダイムの危機

変則事例の出現が科学者に認知されても、そのままパラダイムの危機に直結する訳ではありません。
「理論とあわない現象によって反証されるからこそ科学なんだ(反証されないものは科学じゃない)」とポパーは主張しましたが、クーンは「いや、理論に合わない現象が出てくることなんて日常茶飯事で、それこそ通常科学のうちで解くべき問題として科学者の飯のタネなんだ」と考えました。
たとえばニュートンの『プリンキピア』は、天体や地上の運動を統一的に扱える画期的な仕事でしたが、問題を解決するだけでなく、多くの問題を生みました。つまりニュートンの理論に合わないことがたくさん見つかり、科学者はそれを通常科学の中でパズルとして解く(ニュートン力学のパラダイムの内で解決する)仕事を何世紀も続けることになります。
しかし変則事例が無視できないばかりか、現行のパラダイムでの問題解決ではにっちもさっちもいかなくなるとパラダイムの危機が訪れます。ここでの科学者の対応は3通りあります。
ア.理論にいろいろ追加したりして現行のパラダイム内でなんとか解決する
イ.棚上げして次世代に期待する
ウ.新しいパラダイム候補を探す
危機に至っても、新しい方へ行くよりも、何とか変わらずにいようとする力が強く働きます。
しかしこの変わらずにいようとする志向、言い換えれば「現行のパラダイムの内で解くべき問題はすべて解けるのだ」という確信こそが、わき目も振らず通常科学に科学者を打ち込ませるのです。これこそが通常科学の知的生産の効率性を支え、さらには精緻化・精密化から変則事例を科学者の目に触れやすくし、結局のところ科学革命を準備するのです。
クーンの科学革命論のキモは、科学研究におけるこうした革新的な志向と保守的な志向との本質的緊張が科学を発展させる、と考えるところです。
(5)科学革命

研究のやり方を変えるのは非常にコストがかかることでできれば避けたいのですが、危機が深まるとそうとも言ってられません。
いよいよ現行のパラダイムがやばそうになると、科学者を制限していたパラダイムのたががゆるみます。
これまでのやり方とは外れたアプローチがいろいろ試されます。例えばそれまでまともな科学者なら避けるべきだった哲学的議論なんかも交わされたりもします。
この状態は、パラダイムができる(=あるパラダイムを科学者共同体に受け入れられる)以前の状態、すなわち前パラダイム期に似ています。
目下解けない問題=変則事例のすべてを解くものではないけれど、そのいくつかには解答(つまり部分解)を与えるやり方が提案され始めます。
しかし解けない問題もたくさんあるので、すぐには誰もが採用するという風にはなりません。
しかし目下解けない問題=変則事例の多くを解くやり方が現れ、どうにかして支持を集め、多くの科学者がその元に集まると、これを新しいパラダイム=以降の研究のお手本となる業績として、新しいステージの通常科学がはじまります。
こうした繰り返しを経て、科学は発展していくとクーンは言うのです。


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2011.08.19
ホッブズ『リヴァイアサン』を3分間で説明する
ホッブズは『リヴァイアサン』という本の中で、国家(やその権力や社会秩序)がどこから生まれるかという謎にひとつの答えを出した。
それも「神様のような人間以上のものがうまく設計したのだ」というご都合主義ではないやり方でだ。
原子論が「自然は運動する原子の集まりだ」と考えるように、ホッブスは社会を人間のあつまりだと考えた。
そして人間の性質からはじめて、人間の集まりで何が起こるか、人間と人間が関わりあうことから何が生まれるかを考えた。
どんな人間にもあてはまる性質は、「死にたくない」という欲望と、「おれが、おれの方が」という欲望を持っていることだ。
「おれが、おれの方が」という欲望は、死ぬまで無くならない。
だから、このままだと、いろんなものを取り合って、人間は死ぬまで争い、どんどん死んでいくことになるだろう。
だが人間には「死にたくない」という欲もあり、そして多少はものがわかる能力もある。
ここから最低限のルールが生まれる。
というより「死にたくない」という欲望が能力を働かせて、死にものぐるいで最低限のルールを「発見」することになる。
〈約束は守る〉とか〈自分がされたくないことは人にもしない〉とか、そういうのだ。
こうした最低限のルールが生まれて、ようやく〈契約〉ができるようになる。
そうして、互いに死ぬまで争わぬために、ある特別の〈契約〉をする。
元になるのは〈代理〉という契約だ。
〈代理〉というのは、本当なら自分がすることを、誰かに代わってやってもらうことだ。
この契約を結ぶと〈代理人〉がやったことは、自分がやったことになる。
さて、「おれが、おれの方が」という欲望は、他人を支配しようという欲望になる。
そして誰もがこの欲望を持っているので、支配されたくないという欲望もある。
誰もが支配したいし、支配されたくない。ある人がこの欲望を満たすと、他の人はその欲望を満たすことができない。
つまりこの欲望は、全員が満たす訳にはいかない。
一度、負けたものも、またこの欲望を満たすために争いを起こすだろう。
世の中の大多数はこの欲望が満たされないままなので、争いの火種は絶えることがないだろう。
では、どうするか?
ある一人の者を、社会の全員が〈代理人〉に指名して、他人を支配することを代わってやってもらうのだ。
この〈代理人〉は社会全員の代理であり、社会全員を支配する。
〈代理人〉がやったことは自分がやったことになる、というのを思い出そう。
このリクツでいけば誰もが〈代理人〉を通して、全員を支配するという欲望を満たすことになる。
だが実際は、全員が支配されている。
国家とその権力とは、こうしたヘンテコな契約によって成立する。
もちろん契約なのだから破棄することだってできる。
人々がそうしないのは、破棄した途端、あの死ぬまでの続く争いに逆戻りするからだ。
そして今や国家が成立している。
国家ができる以前ならせいぜい、人間は他の人間と争うだけだった。
今や契約を破棄すれば(全員が一斉に契約を破棄しない限り)、破棄した者は国家と争う羽目になる。
あるいは国家越しに、束になった自分以外の社会全員と争うことになる。
もう勝ち目はない。
この呪いのような契約のせいで、まともに計算できる者は契約を破棄しないとの予測が立ち、その予測にたってみんなが契約を続けることで、予測した通りのことが実現し続ける。
際限のない人間同士の争いは、国家というみんなが参加する〈契約〉がある限り、止められる。
こうして国家は存続していく。
もちろん、こうしたホッブズのリクツは、いろいろ飛躍があるし欠陥もある。
しかし重要なのは、人間の性質を前提条件にして、国家がどうやって成立するか、そのメカニズムを考えたところだ。
それも「神様のような人間以上のものがうまく設計したのだ」というご都合主義ではないやり方でだ。
原子論が「自然は運動する原子の集まりだ」と考えるように、ホッブスは社会を人間のあつまりだと考えた。
そして人間の性質からはじめて、人間の集まりで何が起こるか、人間と人間が関わりあうことから何が生まれるかを考えた。
どんな人間にもあてはまる性質は、「死にたくない」という欲望と、「おれが、おれの方が」という欲望を持っていることだ。
「おれが、おれの方が」という欲望は、死ぬまで無くならない。
だから、このままだと、いろんなものを取り合って、人間は死ぬまで争い、どんどん死んでいくことになるだろう。
だが人間には「死にたくない」という欲もあり、そして多少はものがわかる能力もある。
ここから最低限のルールが生まれる。
というより「死にたくない」という欲望が能力を働かせて、死にものぐるいで最低限のルールを「発見」することになる。
〈約束は守る〉とか〈自分がされたくないことは人にもしない〉とか、そういうのだ。
こうした最低限のルールが生まれて、ようやく〈契約〉ができるようになる。
そうして、互いに死ぬまで争わぬために、ある特別の〈契約〉をする。
元になるのは〈代理〉という契約だ。
〈代理〉というのは、本当なら自分がすることを、誰かに代わってやってもらうことだ。
この契約を結ぶと〈代理人〉がやったことは、自分がやったことになる。
さて、「おれが、おれの方が」という欲望は、他人を支配しようという欲望になる。
そして誰もがこの欲望を持っているので、支配されたくないという欲望もある。
誰もが支配したいし、支配されたくない。ある人がこの欲望を満たすと、他の人はその欲望を満たすことができない。
つまりこの欲望は、全員が満たす訳にはいかない。
一度、負けたものも、またこの欲望を満たすために争いを起こすだろう。
世の中の大多数はこの欲望が満たされないままなので、争いの火種は絶えることがないだろう。
では、どうするか?
ある一人の者を、社会の全員が〈代理人〉に指名して、他人を支配することを代わってやってもらうのだ。
この〈代理人〉は社会全員の代理であり、社会全員を支配する。
〈代理人〉がやったことは自分がやったことになる、というのを思い出そう。
このリクツでいけば誰もが〈代理人〉を通して、全員を支配するという欲望を満たすことになる。
だが実際は、全員が支配されている。
国家とその権力とは、こうしたヘンテコな契約によって成立する。
もちろん契約なのだから破棄することだってできる。
人々がそうしないのは、破棄した途端、あの死ぬまでの続く争いに逆戻りするからだ。
そして今や国家が成立している。
国家ができる以前ならせいぜい、人間は他の人間と争うだけだった。
今や契約を破棄すれば(全員が一斉に契約を破棄しない限り)、破棄した者は国家と争う羽目になる。
あるいは国家越しに、束になった自分以外の社会全員と争うことになる。
もう勝ち目はない。
この呪いのような契約のせいで、まともに計算できる者は契約を破棄しないとの予測が立ち、その予測にたってみんなが契約を続けることで、予測した通りのことが実現し続ける。
際限のない人間同士の争いは、国家というみんなが参加する〈契約〉がある限り、止められる。
こうして国家は存続していく。
もちろん、こうしたホッブズのリクツは、いろいろ飛躍があるし欠陥もある。
しかし重要なのは、人間の性質を前提条件にして、国家がどうやって成立するか、そのメカニズムを考えたところだ。
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『詩学』第2節で、アリストテレスは、それが描写している対象によって、文学作品を分類することを提案している。文学作品に登場する人物は、「優れているa higher type」か「劣っているa lower type」のいずれかであり、それによって区別することができるだろう、と。ところで英語ではgoodnessとbadnessと訳され、道徳的文学観による価値判断を表すかに見える語は、アリストテレスが使った語ではσπουδαιοsとφαλωsであるが、これは元々単に「重い」と「軽い」を意味する語だった。(「重い」→「忙しい」→「重要な」→「卓越した」/「軽い」→「つまらない」→「劣った」)。
ノースロップ・フライはこれを取り上げて、今でも文学の分類に使えないかと考えた。「重文学」と「軽文学」といった分類ではない(そんなのは、明示的でないだけで、今でもよく使われている)。フライが提案するのはもっと単刀直入で、かつ「強力」なものだ。フライは、ここで「ドラゴンボール」的裁定によって------あと10年も経てば「ドラえもんが心の救いでした」なんていう人間は駆逐され、『ドラゴンボール』によって思考する人間が席巻するだろう------、文学作品のプロットを分類することを思い付く。
つまり彼は、作品の主人公たちに「おめえ、強ええか?」と尋ねるのだ。
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ノースロップ・フライはこれを取り上げて、今でも文学の分類に使えないかと考えた。「重文学」と「軽文学」といった分類ではない(そんなのは、明示的でないだけで、今でもよく使われている)。フライが提案するのはもっと単刀直入で、かつ「強力」なものだ。フライは、ここで「ドラゴンボール」的裁定によって------あと10年も経てば「ドラえもんが心の救いでした」なんていう人間は駆逐され、『ドラゴンボール』によって思考する人間が席巻するだろう------、文学作品のプロットを分類することを思い付く。
つまり彼は、作品の主人公たちに「おめえ、強ええか?」と尋ねるのだ。
カテゴリー | 主人公 | ジャンル | 説明 |
---|---|---|---|
1 | 神様 | 神話 | 自然的諸条件(制約)からも、当然人間的諸条件(制約)からも、卓越している |
2 | 英雄 | ロマンス・伝説 | 自然的諸条件(制約)は一部凍結されている(魔法や奇跡的な能力など)が、物語が始まれば、彼も制約に従う。我々には信じがたいが、彼も物語では人間ということになっている。 |
3 | 優れた人間 | 悲劇・叙事詩 | 自然的諸条件(制約)にも、人間的諸条件(制約)にも拘束される。彼が普通より優れた人間ではあるが、自然の秩序に従うし、社会の批判も被る。 |
4 | 普通の人間 | リアリズム | 彼はどこからみても、我々と同じ普通の人間である。外的 条件(制約)においても、内的条件(心理)においても、 平凡な人間らしさの内に置かれている。正義を知っていて も全うできなかったり、感情に流されたりする普通の人間である。 |
5 | 劣った人間 | アイロニー | 知性においても、どんな力においても、我々に劣る存在であり、彼を見ていると、あたかも挫折、屈辱、不条理な人生を見おろしているかのように思う。 |
フライの分類(カテゴリー)は、おおむね歴史順になっている(1→5)。ときどき、昔のカテゴリーが復活することがあるけど(フライはそれを「感傷的」という。たとえばロマン主義は、カテゴリー2の感傷的形態である)、おおむねは歴史順になっているという。
つまりフライが主張するのは、文学史とは「主人公がどんどん弱くなってきた」歴史である、ということだ。
これだけだとしかたないので、フライはもうひとつ座標軸を導入する。つまり「悲劇的」「喜劇的」である。
フライはこれらの伝統的用語も、定義し直す(つまり劇の形式でなく、プロットの形態について、用いることができるように)。いわく、
つまりフライが主張するのは、文学史とは「主人公がどんどん弱くなってきた」歴史である、ということだ。
これだけだとしかたないので、フライはもうひとつ座標軸を導入する。つまり「悲劇的」「喜劇的」である。
フライはこれらの伝統的用語も、定義し直す(つまり劇の形式でなく、プロットの形態について、用いることができるように)。いわく、
- 「悲劇的」とは、主人公が自分の属する社会から孤立させられるプロットについて言われ
- 「喜劇的」とは、主人公が自分の属する社会に包摂されるプロットについて言われる。
(これは桂朱雀の落語の「オチの分類」そのままである)。
カテゴリー | 主人公 | 悲劇的 | 喜劇的 |
---|---|---|---|
1 | 神様 | [神話悲劇] 神々が死を迎える、追放される。 ・毒の下着をつけて燃える薪の山を登るヘラクレス ・ロキの裏切りによって殺されるバルダー ・十字架にかけられるキリスト |
[神話喜劇]主人公が神々の仲間として迎えられる。 ・オリンポスへのぼるヘラクレス ・ダンテ『神聖喜劇』 ・試練を果たす神々 ・救済、あるいは昇天の物語 |
2 | 英雄 | [哀歌(エレジー)、ロマンス悲劇] 英雄が死を迎える、孤立する。 ・メソポタミアのギルガメッシュ ・古英語詩のペオウルフ ・日本神話のヤマトタケル |
[田園詩(アイデアル)、ロマンス喜劇、牧歌] 哀歌が自然の一部と結びつくように、ロマンス喜劇は羊の群や気持ちの良い草地と結びつく。 現在では西部劇として復活し、牛の群や囲い柵と結びつく。 |
3 | 優れた人間 | [悲劇(パセティック)] 指導者の没落の物語である。主人公は優れた人間であるが、たとえば運命の力によって打ち倒される。 神的ヒロイズム(願望充足とつながっている)と人間的アイロニー(これは日常的な苦痛、手厳しい現実とつながっている)との、中間に位置し、そこで均衡をとっている。 ・ギリシャ悲劇 ・ラシーヌなどの悲劇 |
[旧喜劇(アリストパネス)] アリストパネスの中心人物は、周囲の強い反対を押し切って、自己の社会を打ち立てる。邪魔者や搾取者をつぎつぎ取り除き、英雄的勝利を手にする。 願望充足につながるヒロイズムと喜劇アイロニー(風刺、現実批判)が均衡をとっている。 |
4 | 普通の人間 | [家庭悲劇(等身大の、ニュースのような、悲劇)] 主人公自身がある弱点をもっていて、そのために孤立している。 主人公は我々と同じ水準にあるので、その弱点は我々の共感を呼ぶ。 女性や子供、それから動物が主人公として登場する。 弱点はしばしば知性の乏しさや表現力のなさ。そのことがより我々の哀感(ペーソス)を増す。 ・メロドラマ ・扇情的(センセーショナル)な物語 ・お涙頂戴もの |
[家庭喜劇(等身大の、ニュースのような、喜劇)] 普通は、若い男女のたくらみを描く。 ちょっとした困難が彼らが「うまくいくこと」(結ばれること、結婚、など)を妨げているが、最後にその困難は取り除かれる。 主人公達は、あまり魅力的ではなく、むしろ読者の共感をひき、身代わりをつとめる。自分たちそっくりの「あまり魅力のない」登場人物が幸せになることが、読者の喜びを生む。 ・シチュエーション・コメディ ・ハッピーエンドもの ・向田邦子 ・新喜劇(メナンドロス) ・ハーレムアニメ |
5 | 劣った人間 | [悲劇的アイロニー] 主人公の悲劇的孤立そのものをただ単に描く。 その孤立は(かつての悲劇のような)理由・原因がない。 主人公の悲惨は、彼の責任ではない。その意味で不当である。 主人公の悲惨は、彼の存在そのものがその理由である。その意味で不回避である。 ・カフカ ・ヘンリー・ジェイムス ・ヨブ記 |
[喜劇的アイロニー] 主人公はパルマコン(生け贄)として追放される。その結果、社会は平和と安定を取り戻す。読者は安堵を得る、鬱憤晴らしする。 ミステリーの主人公は、探偵でなく、最終的に罪が明らかにされ、退場する犯人である。悪人が純粋に「悪」であるほど、アイロニーとしては純粋に(物語は単純に)なる。そこでは推理は極度に人為的で恣意的ですらある。 スポーツ(これも現代の大衆的文芸の一形態である)における、審判にも、パルマコンの機能が見られる。 |
そして歴史は繰り返す。
我々は、詩人(作家)であるにせよ、聴衆(読者)であるにせよ、あまり強くはない。
歴史を経るに従い、物語の登場人物が「強さ」を失っていくかわりに、物語は我々により近いものになる(つまり「もっともらしさ」を獲得する)。
歴史が経るに従い、主人公は「強さ」の階段を駆け下りていく。そして勢いあまって、我々からまた離れていく。
極度のアイロニー(すごく劣った人間の物語)は、再び神話(神の物語)に近づいていく。
旧約聖書のヨブは、ボコボコにされながら、ほとんど神々しさを身に纏う。彼は最後に神に受け入れられる。悲劇的アイロニーが神話喜劇に結びつく。
また「近代科学」「啓蒙主義」という物語は、神自体をパルマコン(生け贄)として追放する、それが人類の進歩、無知蒙昧の状態に閉じ込められてきた人類の、暗黒時代の解放だとする。
喜劇的アイロニーが「神の死」をうたう神話悲劇と結びつく。
我々は、詩人(作家)であるにせよ、聴衆(読者)であるにせよ、あまり強くはない。
歴史を経るに従い、物語の登場人物が「強さ」を失っていくかわりに、物語は我々により近いものになる(つまり「もっともらしさ」を獲得する)。
歴史が経るに従い、主人公は「強さ」の階段を駆け下りていく。そして勢いあまって、我々からまた離れていく。
極度のアイロニー(すごく劣った人間の物語)は、再び神話(神の物語)に近づいていく。
旧約聖書のヨブは、ボコボコにされながら、ほとんど神々しさを身に纏う。彼は最後に神に受け入れられる。悲劇的アイロニーが神話喜劇に結びつく。
また「近代科学」「啓蒙主義」という物語は、神自体をパルマコン(生け贄)として追放する、それが人類の進歩、無知蒙昧の状態に閉じ込められてきた人類の、暗黒時代の解放だとする。
喜劇的アイロニーが「神の死」をうたう神話悲劇と結びつく。
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