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    日本の弓術 (岩波文庫)日本の弓術 (岩波文庫)
    (1982/10)
    オイゲン ヘリゲル

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    「哲学者という人種の悩み事を,健全に生きられる人が一緒に悩んでやる必要など,どこにもない」(池田晶子『考える人』)←バカ

    オイゲン・ヘリゲル『日本の弓術』、日本の神秘にあこがれ仙台の帝国大学に赴任した新カント派の哲学者が、禅に基づいた愛国心やら武士道を無批判に至高のものと称揚するこの書にも、感動的な部分が二箇所ある。

     ひとつは、的に当てることへの執着を、何度師に諭されてもぬぐい去ることのできないヘリゲルに、師がこう言って、「あなたの悩みは不信のせいだ。的を狙わず射当てることができるということを、あなたは承服しようとしない。それならばあなたを助けて先へ進ませるには、最後の手段があるだけである。それはあまり使いたくない手であるが」、夜もう一度、来るようにと告げる。

     弟子は夜になって師を訪問する。師は無言で立ち上がり、弓と二本の矢をもって着いてくるようにと歩き出す。針のように細い線香に火を灯させた師は、先ほどから一言も発せずに、やがて矢をつがう。もとより、線香の火以外の光はない。闇に向かって第一の矢が射られる。発止(はっし)という音で火が消え、弟子は矢が命中したことを知る。そして漆黒の中、第二の矢が射られる。師は促して、二本の矢を弟子に改めさせる。第一の矢はみごと的となった線香の真ん中をたち、そして第二の矢は、第一の矢に当たりそれを二つに割いていた。

    「私はこの道場で30年も稽古をしていて暗い中でも的がどの辺りにあるかわかっているはずだから、一本目の矢が当たったのはさほど見事な出来映えでもない、とあなたは考えられるであろう。それだけならばいかにももっともかも知れない。しかし二本目の矢はどう見られるか。これは私から出たものでもなければ、私があてたものでもない、この暗さで一体狙うことができるものか、よく考えてごらんなさい。それでもまだあなたは、狙わずにはあてられぬと言い張られるか。まあ、私たちは、的の前ではブッダの前にあたまを下げるときと同じ気持ちになろうではありませんか」

     この逸話は、のちにドイツに帰った弟子がこのことを『日本の弓術』という講演で語るまで、(師とこの弟子にしか)知られなかった。かつてドイツ人の弟子と、弓道の師との間を通訳した日本人は、講演の速記録を読み、さっそく師にこのことを尋ねた。
    「不思議なことがあるものです。「偶然」にも、ああいうことが起こったのです」
    師は笑って答えた。

     もうひとつはそのずっと以前、異国の弟子が、まだそんな域にも達していなかったときの話だ。何事も理屈で納得しようとする頑迷な弟子を持った師は、このうるさい質問者を満足させるものが見つかるかもしれないとの希望を持って、日本語で書かれた哲学の教科書を何冊か手に入れた(!)。その後、しばらく経って、師は首を振りながらそれらの本を投げ出し、こんなものを職業として読まなければならない弟子から、精神的にはろくなことは期待できないわけがだいぶん分かってきた、と親しいものに漏らした。

     「偶然」が起こるのは、その数年後である。



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    森の生活―ウォールデン (講談社学術文庫)森の生活―ウォールデン (講談社学術文庫)
    (1991/03)
    ヘンリー・D. ソロー

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    「こうして私は幾日かを過ごし、小さな斧で材木を切ったり、刻んだり、さらに間柱や垂木を伐りだしていたのだ。人に何かを語り伝えるようなものなく、また学者のようなさまざまな思考にふけるでもなく、ひたすら自分のために歌をうたっていたのだ。

     人々はあまたの事を知るという
     されど見るがよい! 悉く消え去ってしまったよ----
     芸術作品も、科学の知識も
     また、あまたの生活用品も。
     吹きやまざる風だけが
     誰もが知っていることのすべて。」
                    (ソロー『森の生活』佐渡谷重信訳)


    こんな歌、歌えない。

    これは好みの問題じゃなくて(それを出すとめんどくさいが)、技術的な問題である。ぜったいに斧振り回しながら、歌える歌じゃない(賭けてもいい)。


    訳者は、前書きでこう言っている。
    「明治期以降ソローは日本に紹介され、神吉三郎訳をはじめすでに数点の翻訳が出版されているが、惜しむらくは満足のゆく内容ではなく、日本の読者はいままでソローを本当に味読することができなかった。私がここに新訳を世に贈る所以である。浪費社会と自然破壊によって地球が破局を迎えようとしている今日の時代に、われわれがソローに耳を傾け、その知恵と人生哲学を真に学ぶべき時であると信じ、私は賢明なる読者諸氏に本書を捧げたいと思う。……活字(漢字)は思想の眼である。そして、言葉は一語一語の中に魂を宿し、読者の肺腑をえぐるのである。それ故に、私はなによりも訳語を慎重に選び、明晰な文章の完成に力を注いだつもりである」(1991年1月1日)

     善意を持って受け取れば(私にだって「善意」くらいある)、この訳者は、この本を「シソウショ」として翻訳しようというのだろう(「その知恵と人生哲学」ってなくらいだから)。したがって、その「シソウ」を伝えることが第一で、そのために「訳語を慎重に選び、明晰な文章の完成に力を注いだ」のだろう。90年代にもなって、しかも正月に何言ってんだい。

     つまり、あの歌にも、「ソローの思想」が込められているのだ。だから「ひたすら自分のために歌をうたっていた」りするのだろう。斧で木を切ってる最中の人間が、そんな脳味噌だけに汗かくようなことすると思ってるのだろうか(いやするかも)。

     もっとも、「歌えない」のはこれに限ったことではない。日頃眼にする「訳詞」といえば、「歌えない」方が圧倒的に多い(用途に限っても、それでいい場合が多いってことでもあるのだ)。上の訳のひどさは、もちろん「歌えない」以上のもので、たぶん人間性からいっても問題がある。

     フェアじゃないから、ソローがどう書いてたかを載せる。

    So I went on for some days cutting and hewing timber, and also studs and rafters, all with my narrow axe, not having many communicable or scholar-like thoughts, singing to myself,

    Men say they know many things;
    But lo! they have taken wings-
    The arts and sciences,
    And a thousand appliances;
    The wind that blows
    Is all that anybody knows.


     蛇足で、「歌」に入るまでを訳してみた。

    「そんなふうにして、ぼくは、何日か木材を切ったり削ったりした。間柱や垂木もやった。鼻歌まじりに、みんな自分の小さい斧でやった。誰かに話せるようなことや、学者みたいな「立派な考え」なんかちっとも浮かばなかった。」

     「歌える」訳、募集。



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    馬鹿について―人間-この愚かなるもの馬鹿について―人間-この愚かなるもの
    (1958/12)
    ホルスト・ガイヤー

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    これはもう、紹介するだけで勘弁して欲しい。

    まず裏表紙には、こんなことが書いてある。

    人間は愚鈍という実り豊かなひざに抱かれて、永遠に変わらぬ夢を見続けているのであり、そのおかげで初めて生きて行こうという気になれるのである-----愚鈍が、ただ愚鈍だけが
    この人生の守り神であって、これによって初めて錯覚のヴェールが織られ、仕合わせな誤謬が知能のヤリ玉に上がらずに済み、人生が辛抱できるようになるのである。


    つぎに初版の序には、こう書いてある。


     馬鹿のことを書くよりも、天才のことを書く方が、よほど割りのいい仕事にちがいない。
     伝記作家というものはありがたいもので、天才を描いてみせる学者は、そこに描かれていた天才の栄光のおすそ分けにあずかるものだが、本書の著者にはこういう余得はありそうにもない。
     しかし馬鹿と天才の数を比べてみただけでも、心の貧しいもの(これは聖職の言い方ではなく、俗人流に、つまりニイチェ的に言って)の問題の方が、ずっと切実深刻だ、とすぐ判ろう。天国はいざ知らず、この地上の最大多数は馬鹿が占めているのだから。だが一口に人間は馬鹿だと言っても本当はどうなのだろう?
     そこで、あてもなしに無駄口をたたくのはやめにして、ではこの問題について確かなことだけを書いていくことにしよう----「人はその能力以上のことを為す義務を持たず」(人事尽くして天命を待つ、あるいはこれを本書のテーマに当てはめて「馬鹿は分不相応のことをやる」と言い直してもよい)という格言を忘れないようにしよう。



    いちいち正しい。この名著は何度も版を重ねた。第三版の序。


     ザルツフレンのK.マイヤー・ロテルムント氏のご懇篤なご教示によると、修正耐えざる愛情を持って、馬鹿の問題と取り組んでいた一人のフランス文豪があった。それは利口で軽はずみなボヴァリー夫人と、忠実で愚鈍なその猟人医師シャルルを組み合わせた小説家であるグスタフ・フローベル(1821-1880)である。エミール・ゾラがフローベルについて語ったところによると、「彼には馬鹿は一種の刺激ともなった。彼は酷い馬鹿の実例を発見すると、心から夢中になって何週間もそのことを話し続けていた。……彼がその作品の中で適切に表現した人間の痛ましい無意味さよりも、彼の心を動かしたもの、それは誰しもが免れ得ない凡愚、凡俗であった」
     引き続き、このような馬鹿の実例をお知らせいただければ誠に幸いである。

              オルテンブルグ 1955.3.1
                             ホルスト・ガイヤー



    第六版の序は、偉大なるスペインの思想家に捧げられている。

     ホセ・オルテガ・イ・ガセットは1955年1月5日、本書の第一版刊行に際し、私に書簡を寄せ、優美なドイツ語で「熟読吟味させていただこう」と言ってくれた。
     その年の10月18日、スペインの生んだこの偉人は永眠した。生前に変わらぬ畏敬の念を個人の霊前に捧愚べく、巻頭に彼の座右の銘を原文のままあげさせていただく。

              オルテンブルグ 1956.6.1
                             ホルスト・ガイヤー



    そしてこれが、その巻頭語である。

    私はよく考えあぐねたものである。誰もが馬鹿とかかり合い、馬鹿を相手にして、深刻極まる迷惑をこうむっているというのに、(私だけが知らぬのかもしれぬが)なぜ馬鹿の研究とか、「馬鹿についてのエッセイ」という本がないのか、と。

            ホセ・オルテガ・イ・ガセット



    (「読書猿 0号」より)



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