叱ることは「麻薬」になる。
まず叱る側の事情。相手(子供)の問題行動は、叱れば、その時はやめてくれる。
相手の問題行動のせい(だと自分では思う)で生じていた自分のイライラも,その時は消える。
イライラが消えることで、叱るという行動は「強化」される。つまり
(子供の問題行動→)イライラ→叱る→イライラ消える
となれば、イライラが生じた場合、叱る行動が増えてしまう。ボタンを押すとえさがもらえるネズミが,ボタンを押す行動を繰り返すように、あるいはバーを押すと水が飲めるハトが、バーを押す行動を増やすように。
次に叱られる側の事情。しかし叱ることは、相手(子供)の問題行動を、別のよい行動に置き換えたり、問題行動のそもそもの原因を取り除いたり、してくれる訳ではない。
そうした訳で、問題行動は,繰り返される恐れがある。
叱ることに相手(子供)が慣れていくと、叱ることの強さや量を増やさないと、相手(子供)は問題行動をやめなくなるかもしれない。
もっと悪い場合、相手(子供)は、叱られることを求めて問題行動を増やす可能性がある。
相手からの注目が不足している場合、叱られることだけが,相手から得られる唯一の注目される機会の場合など、「叱る」ことが相手(子供)にとってはムチではなく、アメとして受け取られるのだ。
注目されず→問題行動→叱られる(=という注目が得られる)
となれば、注目が不足している場合、問題行動が増えてしまう。ボタンを押すとえさがもらえるネズミが,ボタンを押す行動を繰り返すように、あるいはバーを押すと水が飲めるハトが、バーを押す行動を増やすように。
この両者の事情は、悪い風に組み合わされることが容易に想像できる。叱る行動が問題行動を増やし、問題行動の増加は叱る行動の回数と強度をますます増やすだろう。なぜこの悪循環は抜けがたいのか。
ジョン・プラットという人はソーシャル・トラップという概念を提示した(Platt, John, "Social Traps",American Psychologist(Aug. 1973), pp.641-651.)。
短期的に「好ましい結果」が、長期的には「好ましくない結果」につながっているのは一種のトラップである。
ほんとはやめた方がいい行動が、短期的に「好ましい結果」のせいで、ますます増えてしまうのだから(そこからなかなか抜け出せない)。
アルコール依存者は、結局はアルコールは悲惨な結果を引き起こすことを知らないのではない、いまここの短期的な「好ましい結果」(いまここの不安やイライラを消すこと)を求めて、アルコールを飲むのである。
叱る者は、これと同種のトラップにはまっている。あるいは叱ることにアディクト(依存)している。
それと向き合う相手(子供)も、問題行動によって,自らの体や心が傷つくという結末があることを知りながらも、普段は得られない(叱るという形ではあるが)注目を得られることを求めて,問題行動を繰り返す。
叱ることは、叱るものー叱られるものの間で悪循環を形成して、しばしば「麻薬」のようなものになる。叱ることと問題行動のともに拍車がかかり、エスカレートした『叱り」は、やがて「虐待」の域に達する可能性だってある。
そういえば、チビの経済学者ミルトン・フリードマンは、むかし(プレイボーイ誌のインタビューで)こんなことを言っていた。
「インフレーションをなくすのは実に容易いことだが、人類は永遠にそれを手放さないでしょう。
インフレは、酒を飲むことのように、よい面が悪い面よりも先にきてしまう。好景気、賃金アップ。しかし結局はすべてはご破算になり、さらに悪い結果になる。二日酔のひどい頭痛を抱えて、人はもう金輪際酒なんか飲むもんかと思うでしょう。けれど心地好い酔いのために、決して彼は酒をやめようとはしないのです」
まず叱る側の事情。相手(子供)の問題行動は、叱れば、その時はやめてくれる。
相手の問題行動のせい(だと自分では思う)で生じていた自分のイライラも,その時は消える。
イライラが消えることで、叱るという行動は「強化」される。つまり
(子供の問題行動→)イライラ→叱る→イライラ消える
となれば、イライラが生じた場合、叱る行動が増えてしまう。ボタンを押すとえさがもらえるネズミが,ボタンを押す行動を繰り返すように、あるいはバーを押すと水が飲めるハトが、バーを押す行動を増やすように。
次に叱られる側の事情。しかし叱ることは、相手(子供)の問題行動を、別のよい行動に置き換えたり、問題行動のそもそもの原因を取り除いたり、してくれる訳ではない。
そうした訳で、問題行動は,繰り返される恐れがある。
叱ることに相手(子供)が慣れていくと、叱ることの強さや量を増やさないと、相手(子供)は問題行動をやめなくなるかもしれない。
もっと悪い場合、相手(子供)は、叱られることを求めて問題行動を増やす可能性がある。
相手からの注目が不足している場合、叱られることだけが,相手から得られる唯一の注目される機会の場合など、「叱る」ことが相手(子供)にとってはムチではなく、アメとして受け取られるのだ。
注目されず→問題行動→叱られる(=という注目が得られる)
となれば、注目が不足している場合、問題行動が増えてしまう。ボタンを押すとえさがもらえるネズミが,ボタンを押す行動を繰り返すように、あるいはバーを押すと水が飲めるハトが、バーを押す行動を増やすように。
この両者の事情は、悪い風に組み合わされることが容易に想像できる。叱る行動が問題行動を増やし、問題行動の増加は叱る行動の回数と強度をますます増やすだろう。なぜこの悪循環は抜けがたいのか。
ジョン・プラットという人はソーシャル・トラップという概念を提示した(Platt, John, "Social Traps",American Psychologist(Aug. 1973), pp.641-651.)。
短期的に「好ましい結果」が、長期的には「好ましくない結果」につながっているのは一種のトラップである。
ほんとはやめた方がいい行動が、短期的に「好ましい結果」のせいで、ますます増えてしまうのだから(そこからなかなか抜け出せない)。
アルコール依存者は、結局はアルコールは悲惨な結果を引き起こすことを知らないのではない、いまここの短期的な「好ましい結果」(いまここの不安やイライラを消すこと)を求めて、アルコールを飲むのである。
叱る者は、これと同種のトラップにはまっている。あるいは叱ることにアディクト(依存)している。
それと向き合う相手(子供)も、問題行動によって,自らの体や心が傷つくという結末があることを知りながらも、普段は得られない(叱るという形ではあるが)注目を得られることを求めて,問題行動を繰り返す。
叱ることは、叱るものー叱られるものの間で悪循環を形成して、しばしば「麻薬」のようなものになる。叱ることと問題行動のともに拍車がかかり、エスカレートした『叱り」は、やがて「虐待」の域に達する可能性だってある。
そういえば、チビの経済学者ミルトン・フリードマンは、むかし(プレイボーイ誌のインタビューで)こんなことを言っていた。
「インフレーションをなくすのは実に容易いことだが、人類は永遠にそれを手放さないでしょう。
インフレは、酒を飲むことのように、よい面が悪い面よりも先にきてしまう。好景気、賃金アップ。しかし結局はすべてはご破算になり、さらに悪い結果になる。二日酔のひどい頭痛を抱えて、人はもう金輪際酒なんか飲むもんかと思うでしょう。けれど心地好い酔いのために、決して彼は酒をやめようとはしないのです」
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2009.11.30
おそろしや石垣壊す猫の恋/高浜虚子編『子規句集』
猫は年4回発情する(交尾期がある)が、寒明けのが一番盛んである。なので、「猫の恋」は春の季語。ついでに言うと、鹿は秋に交尾し、妊娠期間は8カ月。したがって「孕鹿はらみしか」は、春の季語。
恋過ぎて盗みの猫と叩かるる 石塚友二
ちょっと面白い。「猫」も恋するが、「人」も恋する、ちょっと面白い。
恋猫の恋する猫で押し通す 永田耕衣
「恋猫」は、「浮かれ猫」で、春先に、にゃーにゃーうるさいやつがそれである(これも当たり前)。「恋する猫」は、人(他人)にゃ迷惑なもんだ、でも「押し通す」のは、いっそいい。
おそろしや石垣壊す猫の恋 子規
これなどは「押し通す」どころの騒ぎでない。何が「写実」だ、パワー俳句。
露伴が言ってるけど、「俳句の写実は、フィックスで撮るというのでなきゃいけねえ。写真機のおきどころを、ひとつの句で変えるのは関心しねえ」のだそうだ。
俳句は、「写真」というより「活動写真」なのである。エイゼンシュタインもモンタージュ論の中でそう言ってた、と思った。あるいは映画に触れた、寺田寅彦だったか。
なお、この句集には
今年はと 思ふことなきにしもあらず
というものまである。こんな気の抜けるような句を、元旦早々詠んでどうするんだ(もはやカメラがどこにあるか、なんて話ではない)。
しかもこの句には、「三十而立と古の人もいはれけん」との但し書がある。何が「いはれけん」だ(笑)。
しかし、なんといっても一番は、
日蓮の 骨の辛さよ 唐辛子
である。まいりました。
恋過ぎて盗みの猫と叩かるる 石塚友二
ちょっと面白い。「猫」も恋するが、「人」も恋する、ちょっと面白い。
恋猫の恋する猫で押し通す 永田耕衣
「恋猫」は、「浮かれ猫」で、春先に、にゃーにゃーうるさいやつがそれである(これも当たり前)。「恋する猫」は、人(他人)にゃ迷惑なもんだ、でも「押し通す」のは、いっそいい。
おそろしや石垣壊す猫の恋 子規
これなどは「押し通す」どころの騒ぎでない。何が「写実」だ、パワー俳句。
露伴が言ってるけど、「俳句の写実は、フィックスで撮るというのでなきゃいけねえ。写真機のおきどころを、ひとつの句で変えるのは関心しねえ」のだそうだ。
俳句は、「写真」というより「活動写真」なのである。エイゼンシュタインもモンタージュ論の中でそう言ってた、と思った。あるいは映画に触れた、寺田寅彦だったか。
なお、この句集には
今年はと 思ふことなきにしもあらず
というものまである。こんな気の抜けるような句を、元旦早々詠んでどうするんだ(もはやカメラがどこにあるか、なんて話ではない)。
しかもこの句には、「三十而立と古の人もいはれけん」との但し書がある。何が「いはれけん」だ(笑)。
しかし、なんといっても一番は、
日蓮の 骨の辛さよ 唐辛子
である。まいりました。
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![]() | 寺田寅彦随筆集 (第1巻) (岩波文庫) (1963/01) 寺田 寅彦小宮 豊隆 商品詳細を見る |
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2009.11.29
国書の持つ歴史の厚みと「活字本」の歴史の薄っぺらさ/『国書総目録』
「活字好き」なんて言葉があるが、昨今電子版組が増えて、ページをなでると文字ごとに膨らみがある「本当の活字本」は、実はほぼ絶滅の危機に瀕している。
「活字好き」と「本好き」とは、そのうちイコールで結べなくなるにちがいない。
そもそもが、活字=本というのは行き過ぎた話である。
『書物』という書物の中で、森銃三は、「活字本ばかり読んでると、人間に深みがでない」という説を紹介している。今では「活字本以外に本があるんですか?」と聞き返されそうな意見である。
日本で活字印刷が普及するには、欧米に比べれば遥かに遅く、明治に入ってからである。活字印刷の技術を知らなかった訳ではないし、日本人は本を読まなかった訳ではない。それどころか驚くべき識字率と書籍販売量を誇っていたのである。
それが活字導入については逆に仇になった。江戸時代の出版の主流を占めたのは、いうまでもなく版本(木版刷りの本)である。一文字づつ活字を拾ったりせず、1ページ分を1枚の版木に刻むのだ。
販売数の大部分をしめた書籍は、庶民向けの平仮名でかかれたものだった。
筆しか筆記具がない時代が長いから、仮名などは版本でも続けて書かれる。
しかもその多くが絵入りの草双子本だったから、絵を組み込んだレイアウトに草書のつづけ字が流れ込む格好になって、もっともポピュラーな本は、活字印刷なんかでは間に合わないものになってしまっていた。
明治末期、政府からの通達で、変体がなの使用が禁止される。
人が一度身につけたものは容易に失われないけれど、身につける必要のなくなったことは、時間差で(つまり次の世代やその次の世代にいたって)効いてくる。
とにかく人は草書を、つまり写本も版本も読めなくなっていった。
加えて新興の活字本は、新興の教育で育った人々にも読める書物を大量に提供していった。
本といえば、何の疑問もなく「活字」を指すような時代がほどなくやってきた。
『国書総目録』には、国初から慶応年間までの間にこの国で著された本が50万冊以上載っていて、そのうち写本なり、版本なりがあるものには記号がついている(しかも、どこの誰が、どの版を持っているかまで明記されている。これなしには、近代以前の情報にアクセスできない、というのも分かるだろう)。
もちろん稀には「活字復刻」されたものもないではないが、まず第一の印象は、いかに「活字になっていない本」がいかに多いか、ということだ。
「国書というものの厚み」を示すこの活字本自体の厚みと、活字本の歴史の薄っぺらさとの、どうしようもないほどのギャップ。
「写本、版本なんて必要ない」「第一活字本だけでも手に余る」という声を予想しないではない。
けれどそれは、紙の本がまもなく迎える話かもしれない。
電子テキストで十分用が足りる、それから新刊書が電子テキストでしか読めない時代は、ほんのすぐそこにあるらしい。
まだまだ自分が読んできた活字が消えるはずがないと信じる書き手や読み手はたくさんいるが、その当否はともかくとしても、活字本そのものだって、人の寿命に比べてもたかだか1、2世代程度の歴史の厚みしか(少なくともこの国では)持たないのだ。
あと1世代ばかり後には、まだまだ「電子化されてない活字本」がどれほどたくさんあろうと、こんな調子では、そこで人が言うセリフはもう決まっているではないか。
[追記]
現在、『国書総目録』+『古典籍総合目録』(『国書総目録』の続編といえる、全3巻の総合目録)に加えて、国文学研究資料館所蔵の和古書目録データ・マイクロ資料目録データを収録しした強力なデータベース「日本古典籍総合目録」が、(研究・教育等を目的とする非営利利用に限られるが)誰でも検索可能である。
http://base1.nijl.ac.jp/~tkoten/about.html
「活字好き」と「本好き」とは、そのうちイコールで結べなくなるにちがいない。
そもそもが、活字=本というのは行き過ぎた話である。
『書物』という書物の中で、森銃三は、「活字本ばかり読んでると、人間に深みがでない」という説を紹介している。今では「活字本以外に本があるんですか?」と聞き返されそうな意見である。
日本で活字印刷が普及するには、欧米に比べれば遥かに遅く、明治に入ってからである。活字印刷の技術を知らなかった訳ではないし、日本人は本を読まなかった訳ではない。それどころか驚くべき識字率と書籍販売量を誇っていたのである。
それが活字導入については逆に仇になった。江戸時代の出版の主流を占めたのは、いうまでもなく版本(木版刷りの本)である。一文字づつ活字を拾ったりせず、1ページ分を1枚の版木に刻むのだ。
販売数の大部分をしめた書籍は、庶民向けの平仮名でかかれたものだった。
筆しか筆記具がない時代が長いから、仮名などは版本でも続けて書かれる。
しかもその多くが絵入りの草双子本だったから、絵を組み込んだレイアウトに草書のつづけ字が流れ込む格好になって、もっともポピュラーな本は、活字印刷なんかでは間に合わないものになってしまっていた。
明治末期、政府からの通達で、変体がなの使用が禁止される。
人が一度身につけたものは容易に失われないけれど、身につける必要のなくなったことは、時間差で(つまり次の世代やその次の世代にいたって)効いてくる。
とにかく人は草書を、つまり写本も版本も読めなくなっていった。
加えて新興の活字本は、新興の教育で育った人々にも読める書物を大量に提供していった。
本といえば、何の疑問もなく「活字」を指すような時代がほどなくやってきた。
『国書総目録』には、国初から慶応年間までの間にこの国で著された本が50万冊以上載っていて、そのうち写本なり、版本なりがあるものには記号がついている(しかも、どこの誰が、どの版を持っているかまで明記されている。これなしには、近代以前の情報にアクセスできない、というのも分かるだろう)。
もちろん稀には「活字復刻」されたものもないではないが、まず第一の印象は、いかに「活字になっていない本」がいかに多いか、ということだ。
「国書というものの厚み」を示すこの活字本自体の厚みと、活字本の歴史の薄っぺらさとの、どうしようもないほどのギャップ。
「写本、版本なんて必要ない」「第一活字本だけでも手に余る」という声を予想しないではない。
けれどそれは、紙の本がまもなく迎える話かもしれない。
電子テキストで十分用が足りる、それから新刊書が電子テキストでしか読めない時代は、ほんのすぐそこにあるらしい。
まだまだ自分が読んできた活字が消えるはずがないと信じる書き手や読み手はたくさんいるが、その当否はともかくとしても、活字本そのものだって、人の寿命に比べてもたかだか1、2世代程度の歴史の厚みしか(少なくともこの国では)持たないのだ。
あと1世代ばかり後には、まだまだ「電子化されてない活字本」がどれほどたくさんあろうと、こんな調子では、そこで人が言うセリフはもう決まっているではないか。
[追記]
現在、『国書総目録』+『古典籍総合目録』(『国書総目録』の続編といえる、全3巻の総合目録)に加えて、国文学研究資料館所蔵の和古書目録データ・マイクロ資料目録データを収録しした強力なデータベース「日本古典籍総合目録」が、(研究・教育等を目的とする非営利利用に限られるが)誰でも検索可能である。
http://base1.nijl.ac.jp/~tkoten/about.html
![]() | 三大編纂物 群書類従・古事類苑・国書総目録 の出版文化史 (2009/02/16) 熊田 淳美 商品詳細を見る |
![]() | 書物 (岩波文庫) (1997/10) 森 銑三柴田 宵曲 商品詳細を見る |