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     生物の代謝産物は大きく「一次代謝物(primary metabolite)」と「二次代謝物(secondary metabolite)」に分けることができる。

     一次代謝物とは、生体を維持するのに必須の物質群であり、生物に共通に存在するものである。
     例えば、DNA、RNA、蛋白質、炭水化物、脂質など高分子化合物およびその構成単位である核酸、アミノ酸、単糖類、脂肪酸はほとんどの生物にとって欠くことのできないものである。
     その他、高等植物に含まれる繊維質であるリグニン、セルロースも機械的組織の基本的要素であるので、一次代謝物とされる。

     一次代謝物は多く の生物にとって共通の化学成分であるから、ヒトを含む動物は、植物を食べて、その中に含まれる一次代謝物を栄養素として摂取している。

     これに対して、一次代謝系から派生してできたもので、生物にとって必ずしも必須とは目されないものが二次代謝物と称されるものである。

     長い間、植物がそれだけのエネルギーを割いて(コストを支払って)、二次代謝物を作り出すのは何故かが、よくわからなかった。
     よくわからなかった理由は、ヒトは食べて栄養になる一次代謝物を「有益なもの」と決めつけ、そうではない(「人=生物にとって必要でない)二次代謝物を「ムダなもの」と思い込んでいたからである。
     二次代謝物には「ムダ」どころか、植物を食べようとするものにとっては「有害」なものも多かった。
     有害物を含むおかげで、栄養分のある植物がまるごと、「食えない=有用でない」植物とされることすらあった。
     植物の細胞は固い細胞壁に囲まれているから、代謝の際に出てしまう「有害なゴミ」を「排泄」することができず、しかたなく、細胞内の液胞に水分と一緒に溜め込むしか無いのだ、と傲慢にも思ってきた。
     しかし、それは植物を食う側のリクツだった。

     食われる方のリクツからすれば、細胞内に「毒」を溜め込めば、それを食べる動物は死んだり苦しんだりするだろう。
     そのことを学習した動物たちは、その植物を食べなくなる確率が増すだろう。つまり食べられにくくなるだろう。
     そうすれば、その植物の遺伝子は生き残る可能性が高まり、(進化という)長い時間の間には、細胞内に「毒」を溜め込む植物が増えていくと、考えられる。
     「毒」つくり溜め込むコストを支払っても、割が合うことになる。

     先に言った通り、一次代謝物は多くの生物にとって共通の化学成分であるのだが(だから食べて栄養になる)、これに対して、二次代謝物は基本的にそれぞれの種に独自の成分である(だから、選択的にその種を「食べない」という結果を生む)。

     ヒトという種は、しかし、かなりどん欲だった。
     一次代謝物を栄養素として摂取する一方で、二次代謝物を薬用として利用したのである。
     そのために植物を細かく観察し、それぞれの種を同定し、その植物のどの部分にどんな「毒」があり、それは何にどんな効果を及ぼすかについて、知識を積み重ねた。
     ある「毒」は、動物を狩る際の矢じりの先に塗られ、ある毒はヒトの体内に入った異生物を殺して、ヒトの病いを癒す薬として用いられた。

     多くの植物が、二次代謝物として、それぞれの「毒」を蓄えていった中で、それに乗り遅れた植物たちは、ヒトに栽培されることで、世界中に繁殖する道を辿ることになった。
     栽培植物は、「毒」の量が少ない、あるいは、簡単な処理で無毒化しやすい(すり潰して水にさらすだけで食べられる、熱を加えると無毒化する)などの理由から、ヒトに選ばれ、より食べやすい=毒の少ない/毒の御しやすい品種が繁殖していった。
     もっともヒトに食べられやすいということは、他の虫や動物にも食べられやすいということ、たとえば害虫の被害にあいやすい、ということでもあった。
     栽培植物はヒトに、より多くの手間をかけさせることを強いた。
     ヒトは自然に実った実をとって食べることより、はるかに多くの労働をすることになった。

     生物が遺伝子の「乗り物」に過ぎないのなら、ヒトは、栽培植物の遺伝子複製のための「奴隷」である。


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     冬眠図書館は冬の間だけ営業する。

     春から夏の間の忙しい間(まったく本なんか読めない!)に、みんなはせっせと「読みたい本」を図書館に持っていって貯めておく。
     読み終えた本を置いていく人もいる。
     ほんとは1冊100円の有料なのだけれど、置いていった冊数だけ無料で借りられる特典がある。
     みんなこれを利用している。
     もちろん本を持っていってなくても本は読めるし借りられる。

     冬になると本が読みたくてしょうがない。
     仕事なんかしたくない。
     ただ本に囲まれてゆっくり夜通し本を読みたい。
     そういう人が集まって、インターネットでも声をかけたら100人くらいの人が集まって、4人の中心メンバーが司書をやることになって、冬眠図書館は始まった。

     冬眠図書館は深夜に営業する。
     夜の8時から朝8時までの開館。
     深夜だから当然お腹が空く。
     お腹が空くので、冬眠図書館ではシチューが食べることができる。
     しかもブランケット付き。
     4人の司書さんは、それぞれコーヒー当番、ブランケット当番、コッペパン当番、そしてシチュー当番を担当してる。
     コーヒーやコッペパンにはファンのためのチケットがある。
     もちろんシチュー・チケットも。

     図書館にはテラスもある。
     図書館は毛布と読書用スタンドを貸してくれる。
     だから夜のテラスに出て、好きな本を読むこともできる。少し寒いけれど。

     あまりにもシチューが(それにコッペパンも!)好評なので、司書さんは忙しそうだ。

     いつ貰ったのか、雑誌の切り抜きのようなものが手元にある。
     そこに出ていた冬眠図書館。

     これ、どこにあるの?




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     リチェルカトーレ(Ricercatore)。

     英語ならResearcherにあたるイタリア語だが、その意味の幅はより広く、キノコ探しの職人から、図書館Bibliotecaにすくう「本の虫」に至るまで、イタリアではそう呼ぶ。

     フランス語には rat a bibliotheque「図書館のネズミ」という表現があるが、サルトルは『嘔吐』で、そうした人物に悲惨な結末を与えている。図書館の本を片っ端からアルファベット順に読んでいくという独学者は、図書館内で忌まわしい行為を犯し、追放されてしまう。

     南方熊楠も大英博物館図書室に入室が許されていた頃、人を殴って追放されてしまうのだが、我々が知る熊楠は、むしろそこからはじまる。

     では、リチェルカトーレについて紹介している若桑みどり氏の図書館論を引こう。

    「イタリアには図書館で生涯を送る人々がいる。それをリチェルカトーレ(探求者)という。大学の教授か、退職した教師か、素人学者か、市民か、それは問題ではない。図書館の原点である修道院、信心会図書館には「瞑想・沈思」の空間的環境がある。疲労した研究者には花の咲き乱れる中庭と噴水,ベンチがある。
     ヴァティカン図書館(ビブリオテーカ・アポストリカ)には目覚めるためのカフェ、喫煙所が設けられている。但し図書を破壊しないためにそれは屋根の上の開放的空間におかれる。図書館が機能的利用機関ではなく瞑想的生(Vita Contemplativa)の空間であることは人々のなかで定着した観念である。」

    http://web.archive.org/web/20010514173426/http://www.ulis.ac.jp/library/Choken/2000/6_2.html