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     ためになる読書はどのようなものかと問われれば、平凡で誰もが当たり前に思っている答を言うしかない。

     Cover to cover(カバーからカバーまで)、つまり表紙からはじめて最期の一文字までくまなく読み通すこと。

     言うまでもなく通読である。


     通読を自分に課すと、嫌でも気付かざるを得ないことがある。
     読むに値するような本の多くが、今の自分では読み飛ばすしかない部分を持っているという事実だ。
     すべてを読もうとすることで、「読めない」という事実にはじめて向かい合うことができる。
     
     通読は、したがって、多くの場合、再読を伴う。
     
     読み通したと言えるまでに、何度読まなければならないか、定かではない。
     言えるのは、2度目に読むときにはもう、1度目と同じには読むことはできない、ということだ。これは何度目の読みについてもあてはまる。

     そして再読の、源に遡れば本を読むことの、意義や意味はここに存する。

     読んだ後のあなたは、読む前とはいくらか違っている。

     そうした自己の変化や組換えを(否応なく)伴う体験を、我々は読書と呼んでいるのだ。


     読書は、自分が既に知っている知識を、わざわざ本のなかに探して見つけることではない。
     実を言えば、拾い読みは、これ(既に知っている知識を見つけること)にかなり近い本の読み方である。
     我々は理解の届かない箇所を、わざわざ/なかなか、すくい上げたりしないのだ。

     そして、もしその本が読むに値するとすれば、読み飛ばした部分/拾い損なった部分にこそ、読むに足る何かが書いてある。

     1915年、上海商務印書館より刊行された『學生字典』という漢字字典がある。
     辞典でなく字典であるところがミソである。
     熟語を数並べりゃいいと思っているどこかの漢和辞典と違って、漢字の原義に焦点をあて、これを的確に解説することで、コンパクトにしてとても有用なジテンとなった。中国語文(文言(いわゆる漢文)、それに白話)を読む上でとても有用である。
     これについては、電脳瓦崗寨主が私費を投じて電子テキスト化した『學生字典』全文データを公開しておられる。
    http://wagang.econ.hc.keio.ac.jp/xszd/wiki.cgi?FrontPage


     さて、とても有用なので、これには邦訳が出版されている。
     1940年に発行されて以来、これまた未だに愛用されている『支那文を讀む爲の漢字典』がそれである。
     これについては、青蛙亭漢語塾のサイトで、WEB上で引けるようにしたもの「WEB支那漢」が公開されている。

    http://www.seiwatei.net/chinakan/chinakan.cgi
    (口上と解説)http://www.seiwatei.net/chinakan/chinabhp.cgi?super=0
    (原著例言)http://www.seiwatei.net/chinakan/chinabre.htm

     書籍版では部首と画数の2つの引き方しかできないが、web版は日本語音訓、中国語発音、総画、四角号碼などの索引が用意されている。

     漢文にも中国語も区別なくオールマイティに使えるすぐれものだが、「わかったつもり」になっている漢字を引いてみるとよい。
     「なるほど、こういう意味だったのか」と雲が晴れる心地を味わえること、請け合いである。

     中国語に触れる機会がなくても、ちょっと古い文献を読もうとすれば、漢字識字率がある程度ないと、途端に壁にぶち当たる。
     逆に漢字識字率を上げておくと、例えば『古事類苑』や『広文庫』(いずれも明治以前のあらゆる文献からの引用で編まれた一種の百科事典。前者は明治政府のぶちあげた国家事業だが、後者は物集親子の個人事業である。この親子については、マッド・ヒューマニスト列伝でとりあげたいと思う)などが使えて、近代以前の事項についても、一気に探しものがはかどる。
     『古事類苑』は、電子化が少しずつだが進んでいる(たとえば古事類苑全文データベース http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/)。全文が引けるので、書籍版の索引よりもたくさんの箇所がヒットする。『古事類苑』のポテンシャルが解かれる日は、そう遠くはない。
     その日に備えて、漢字の装備を上げておこう。


    支那文を読む為の漢字典支那文を読む為の漢字典
    (1999/07)
    陸 爾奎方 毅

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     トレーニングの後で、脱皮=皮を脱ぎ捨てたかのような体験を味わいたいなら、「暗写法」に勝るものはない。

     アルファベットもおぼつかない子供が、英語の教科書を写して教室に持って来るが、あれとはまるで違う。

     覚えているくらい親しんだテキストを使おう。
     すでに、引けるだけ線を引き、思い付く限りの書き込みをし、「血肉になった」と自分では思っているテキストほどいい。

     やり終えた後、愕然とすること、請け合いだ。


     方法は言うまでもない。
    テキストを見て、覚えて、ノートに書き写す。
    これだけだ。

     注意点がいくつかある。

    (1)見ながら写さないこと
      一度、テキストを読んで頭に蓄えてから、テキストは見ずに頭にあるものを紙に向かって書き出すこと。
      「暗写法」とは「暗唱+書写」のことだ。
      最初は1センテンスでいい。慣れると1~数パラグラフずつ、やれるようになる。
      見ながら写す作業は、慣れて来ると(とくに「ひたすら」やっていると)、アタマを介さずにできるようになる。いわば自動書記状態になると、折角の内容がアタマをスルーしていくので、これを避けるためである。

    (2)間違えたところを消さないこと
      アタマがつまずいたところは、必ず痕跡を残すこと。
      間違いは消さずに、棒線を引いて、書き直す。
      写し間違いは、ただ注意不足から生じるだけではない。
      テキストの言葉と、自分の言葉との間に起こる軋轢からも生じる。
      スムーズに読み進めているときほど、テキストを自分の言葉に変換して(ねじ曲げて)読んでいる。
      書き写しの間違いは、それをあからさまにする。
      十分に理解していると思っている箇所で、テキストの言葉がねじ曲げられまいと身悶えするのを発見するだろう。
      普通なら素通りするような言葉が、信じられないほどの重みを持ち、思っても見なかった意味と機能を担っていることに気付くのは、こうした箇所においてである。
      著者の息づかいを聴き、断定の果ての逡巡を感じることができるのは、この時をおいてない。

    (3)すべてを写すこと
      1冊でも、1編でもよいが、ひとまとまりのテキストの最初から最後までを写すこと。


     あるテキストを正確に書き写すことは、思うほど容易なものではない。
     正確にテキストを「観察」できているか、どれほど「理解」できているか、そしてどのように「誤解」しているかまで、書写は「映し出す」だろう。
     知性を鍛え上げるハード・トレーニングのうち最強のもののひとつだが、なんとか1冊の古典を写し終えたなら、見違えるほどに変わっている自分に気付くはずだ。