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    ランスロット・ホグベン『百万人の数学』


    百万人の数学〈上〉 (1969年) (筑摩叢書)百万人の数学〈上〉 (筑摩叢書)
    (1969)
    L.ボグベン

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    百万人の数学〈下〉 (1971年) (筑摩叢書)百万人の数学〈下〉 (筑摩叢書)
    (1971)
    L.ホグベン

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     「数学は何の役に立つのか?」みたいな質問とは逆に、また「すごい」「ふしぎ」を連発して結局は数学を神秘や魔術に追いやる自称啓蒙書(ほんとは誘蒙書)とは正反対に、人間の活動や出会いや認識や挑戦や知恵が、いかにして数学になっていったのかを追うことで構成された数学入門書。

    「普通の数学書の書き方は、一歩一歩がいかにしてその前の一歩から論理的に導かれるかを示し、その一歩一歩が何の役に立つかを知らせない。この本は各一歩がそれに先立つ一歩からいかにして歴史的に導かれ、またその一歩を踏み出すことがわれわれにとって何の役に立つかを示すために書かれた。」

     その記述は必然的に、先史時代/数学以前から語り起こされ、一歩一歩ゆっくりじっくり進んでいく。

     たとえばユークリッド原論に流れ込んだ3つの系譜、土地を長方形で画していった測量家の系譜と、地面に落ちた影で崖や建造物を測った影計測者の系譜と、そして地球が球であることを知っていた航海者の系譜とに、幾何学の公理が腑分けされ、そのルーツからやり直しする。

     著者が数学者でないこと、徹底したアンチ・プラトニストであることも相まって、数学を地べたに引きずり下ろす不躾なやり口は、数学の美を愛で天上の音楽に耳を澄ますことのできる数学愛好者とはそりが合わない気がするのだが(そんな人は「数学文化」でも読んでいればいいのだ)、神々から火を盗み取ってきた越境的英雄の真剣さとそそっかしさを思い出させる(そしてボグベンはきっとこのことを自覚している)。

     昔ついてた副題が「数学上の発明の社会史的背景に立脚せる数学入門書」。


     併読書に、60の数学のトピックについて100の職業の人にインタビューし「誰が、どんな数学を、どのように使っているか」(たとえばピタゴラスの定理を使っている職業は32あった)を集めた、Hal Sandersの「When Are We Ever Going to Use This?」。


    When Are We Ever Gonna Have to Use This?When Are We Ever Gonna Have to Use This?
    (1996/01)
    Hal Saunders

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    ポスター版もある。
    when_math_poster.jpg








    安藤洋美『高校数学史演習』


    高校数学史演習高校数学史演習
    (1999/12)
    安藤 洋美

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     『とめはねっ!』という書道マンガで、登場人物の一人(京女の毒舌の大槻さん)がいうセリフに「書はタイムカプセル」という趣旨のものがある。


    とめはねっ! 鈴里高校書道部 10 (ヤングサンデーコミックス)とめはねっ! 鈴里高校書道部 10 (ヤングサンデーコミックス)
    (2012/08/30)
    河合 克敏

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    「連綿の筆跡を極限まで本物そっくりに書こう思たら…1000年前のこの「書」を書いた作者と、まったく同じ動きをせんと書けへんの。そう考えたら、「かな」の古筆は、和歌だけを記録してるんやない。1000年前の平安びとの動きも記録してんのよ。」(第10巻 p.54-55)

     さて、学問の歴史はどれも面白いが、数学史がとりわけ魅力的なのは、数学者が悩み解いた問題を、当時と同じ道具立てで自分も解いてみることで、数学者の思考をいま・ここで(多くは紙とペンだけで)追体験できることである。
     当時にはなかった道具立てをつかって、当時の難問をあっさり解決してつかの間の優越感に浸ることだってできるのだ、いと小さき者よ。

     ところが一般向けの数学史は、多くが数学者のおもしろエピソードに終始していて、解くべき問題も、当時の道具立ての解説もほとんどなかったりする。
     数式が出てくると発行部数が半減するというフォークロアが出版界ではあるそうで、数式抜きのベル『数学を作った人びと』スタイルが優勢になるものやむを得ないかもしれないけれど、本格ぶっているくせに数学関係の情報が恐ろしく貧しいものも散見する。

     ここで紹介するのは、その正反対のもの。「BASIC数学」という雑誌で「高校生のための数学史」として連載されていたのをまとめたものだが、高校生が習う数学に照らして、高校生にも解ける問題をたっぷりと、それら解くために必要十分な数学(史)的情報を盛り込んで、200頁以内にまとめてある。
     もちろんヨーロッパだけでなく、アラビアもインドも中国もある。
     2000年分たっぷり楽しめる。

     惜しいとしたら、紙面の都合でニュートンとライプニッツまでの事項に限られていることぐらい。
     彼ら以前の、やがて微分積分に流れこむことになるニコル・オレームの、カヴァリエリの、デカルトの、パスカルの、フェルマーの、ウォリスの、バロウの、取り組んだ問題と解決のアプローチをフォローすれば、音を立てて微分積分が立ち上がっていく過程が追体験できる。


     併読書は、解析学に関して、ニュートンとライプニッツ以降もフォローしたE.ハイラー,G.ワナー(ヴァンナー)『解析教程』、原題 Analysis by history. こちらもめちゃくちゃ面白い。

    解析教程・上 新装版解析教程・上 新装版
    (2012/04/20)
    蟹江 幸博

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    解析教程・下 新装版解析教程・下 新装版
    (2012/04/20)
    蟹江 幸博

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     フェリックス・クラインをして「理論と応用とを兼備した多面的な天才、真に独創的な研究家、科学上の革命家」と呼ばしめたアルキメデスについて、世に最も知られた逸話は、シラクサの王ヒエロン2世の王冠の金の純度を見分けた、この話だろう。
     
    Hiero_small.gif


    「ヒエロン王が職人に純金の塊を与えて王冠をつくらせたところ、その王冠には金をいくらか抜き取って銀が混ぜてあるという告発があった。この問題の解決を頼まれたアルキメデスは、ある日、湯がいっぱい入った浴槽につかったとき、浴槽につかった自分の身体と同体積の湯があふれ出し、体重も軽くなることを発見して、喜びのあまり「ヘライカ、ヘライカ(みつけた、みつけた)」と叫びながら裸で街を走ったという。これは、王冠と同じ重さの純金、純銀、それに金と銀を混ぜたという王冠を、水を張った同じ容器にそれぞれ入れて、あふれ出る水の量で王冠の不正を見破ったわけで、「アルキメデスの原理」として知られ、彼の著作『浮体』第1巻の説明に当てはまる。」
    (平田寛 執筆「アルキメデス」『日本大百科全書』 →yahoo百科事典; 下線による強調は引用者による)


     
     例によって、この黄金の冠の話は、現存するアルキメデスの著作には見つけられない。

     この話の最も古い出典は、紀元前1世紀のローマの建築技術者ウィトルウィウスの著作『建築書(建築十書 De Architetura libri decem )』である。



    9.アルキメデスはまことに種々さまざまの驚くべきことをたくさん発見したが、私がいま説明しようとしていることは、それらすべての中でもとりわけ限りない巧みさを示すもののように思われる。ヒエロンはシラクサで王権を大いに伸ばし、万事がうまく運んだので、黄金の冠を不滅の神々への捧げ物として、ある神殿に奉納することを思い定めたとき、王は材料持ちで制作することを契約し、請負者に金の重量を正確に測って渡した。指定されたときに彼は非常に細かに手作りされた作品を王の認証を得るためにもってきたが、冠の重量は前もって定められたように正確になっているように思われた。

    10.あとになってから、その冠の製作中に金が抜き去られて、等量の銀が混入されているという知らせが入ってきた。ヒエロンは自分がばかにされてたことに対して怒ったが、この泥棒を捕らえる口実がみつからないので、アルキメデスに、自分のためこのことに考慮をめぐらしてくれるように依頼した。アルキメデスはこの問題について思いをめぐらしているとき、たまたま浴場にいき、そこで浴槽に浸かったときに、その中に浸った彼の身体の容量だけ水が浴槽からあふれでるということに気づいた。このことが、この問題を解明する理を示しているので、彼は躊躇するどころか喜びのあまり浴槽からとびだして、家に向かって裸のまま駆けだし、自分の求めていたことが発見されたことを大声で告げた。すなわち、彼は走りながら、くりかえしくりかえしギリシャ語で、「ΕΥΡΗΚΑ・ΕΥΡΗΚΑ)」(私は発見した、私は発見した)と叫んだのであった。

    11. それから、その発見に従って、彼は冠の重量に等しい同じ重量の塊を二つ、一つは金を、もう一つは銀で作ったと言われる。これができあがると、彼は大きな容器に上縁まで水をいっぱいに満たし、その中に銀の塊を沈めた。容器の中に沈められた銀の塊と同じ容量だけ、水があふれでた。そこで塊をとりだして、減ってしまっただけの量を、セクスタリウス(パイントの16 )枡で測定しながら、前と同じように上縁に達するまで、再び注水した。こうして、このことから彼は、銀のどれだけの重量が水のある測度に対応するかを発見したのである。

    12. このテストがなされるや、同様に金の塊を同じく水を満たした容器に沈め、それをとりだして、同じやり方で測定しながら水を加えてみると、水の不足分が前と同じではなく、より少ないことを彼は発見した。そのより少ない容量は、金の塊が同じ重量の銀の塊より容量で小さいだけそれだけ少ない、ということがわかった。そのあとで、容器をまた同様に水で満たしてから、こんどは冠そのものを水に沈めると、冠のばあいには同じ重量の金の塊のばあいよりもいっそう多くの水があふれでることを見出し、このようにして冠のばあいには塊のばあいよりも水がより多く不足するという事実から、彼は銀が金に混入されていることを結論し、請負人が泥棒であることは明らかであると確認したのである。


    vitruvius_bath+.jpg





     この溢れた湯を見てエウレカ話をプルタルコスもまた取り上げて、伝説は世界中に広まった。
     
     その残響は、現在でも小学校の実験(http://speech.comet.mepage.jp/2007/mint_455.htm)や大手非鉄金属メーカーのサイト(http://www.mmc.co.jp/gold/knowledge/d_room.html#03)などで出会うことができる。
     あとアイザック・ニュートンの代数教本Arithmetica Universailisで、「ニュートン算」の元になった「牧場の草を食う牛の問題」の一つ前にも「ヒエロン王の王冠」の例が出てくる。

    from_newton.jpg
    (Google Bookへのリンク:→ラテン語PROB. X   →英訳PROBLEM X)


     
     
     しかしウィトルウィウスのこの記述には、古くから疑問が呈されてきた。
     

    (1)アルキメデスなのに梃子をつかってない

    (2)アルキメデスなのに大したことない(っていうかアホすぎる)
     
    (3)実際にはこの程度では水はあふれない


     (1)(2)についてはともかく、(3)については実験によって確かめることができる。
     アルキメデスに関する他の伝説、たとえば船を焼き払ったアルキメデスのソーラーレイ・システムは何度か大掛かりな実験が行われている。
     しかし今は純金の王冠を用意する暇がない(資金もない)から、かんたんな計算によってこれに代えることにしよう。
     
     古代ギリシア時代のもので、これまで発見された最大最重の冠は、アレクサンドロス3世(大王)の父、マケドニア王ピリッポス2世の墓に埋葬されていた、313の葉と68のどんぐりをあしらった純金製のオークの冠で、直径は18.5 cm,重量は714 gのものである。
     
     oakcrown.jpg

     
     ヒエロン王の王冠がこれと同等のものだったとして、純金の密度19.32g/cm3、714 gの王冠に容積は714/19.32=36.96cm3。これを王冠の入る直径20cmの水を張った容器に入れたとすると、水面は36.96/(102*π)=0.118cmだけ上がる。これは同じ重さの純金を水に入れても同様である。

     さて、いま疑われる請負者が、たとえば重量で30% の銀を混入したと仮定すると、銀の密度は10.50g/cm3であるから、王冠の体積は(0.7*714)/19.32+(0.3*714)/10.50=46.27cm3となる。したがって偽の王冠を水に入れると、水面は36.96/(102*π)=0.147cmだけ上がる。

     その差0.147-0.118=0.029cm=0.29mmに過ぎない。この程度の差では、表面張力や,物体を水からとりだすときに物体表面に付着する水などによる誤差が無視できない。

     
     金は比重が大きいので、このやり方で見分けるのはよい方法ではない。
     あふれた水の量で見分ける方法は、もっと軽くて重さのわりに嵩の高いもの向きの方法だといえる。
     
     
     
     では、アルキメデスは王冠の詐欺を見分けられなかったのか?
     
     もう一度、平田寛執筆の「アルキメデス」の項目を読むと、この王冠の鑑定の挿話は「アルキメデスの原理」と結び付けられている。
     しかしアルキメデスの原理は、流体中の物体が、物体がおしのけた流体の重さと同じ大きさの浮力を受けるという原理であり、比重に関するものでない。
     
     そしてアルキメデスの原理を用いた方法ならば、わずかな密度の違いを検出することができる。
     まず天秤を用意し、その一方に問題の王冠をつるし、もう一方に王冠と同じ重量の純金をつるして釣り合わせる。

    ScaleCrown.gif

     そして、このままつるされた王冠と金塊を水に浸す。
     もし王冠に銀が混ざっていないなら、水の中に入れても、天秤は釣り合ったままである。
     もし王冠に銀が混ざっていたならば、王冠の方は体積46.27cm3分の水の重量46.27g分軽くなり、純金の金塊はその重量36.96cm3の水の重量36.96g分軽くなることから、天秤は金塊が吊された側に傾き、請負者のウソは露見する。

    ScaleCrownTilted.gif
     
     アルキメデスにふさわしい方法であり(たとえば彼は球の体積を導くのに、彼は天秤の片方に円柱を、もう片方に球と円錐を吊るして釣り合うことを使っている。→『方法』命題2)、世界初の科学学会「怠け者の会」を主宰したデッラ・ポルタがその主著『自然魔術』(1558年)ので、アルキメデス大好きのガリレオ・ガリレイも La Bilancetta(1586) という小論文で、ウィトルウィウスを批判し、アルキメデスは本当はこうしたやり方を使ったのだと推測している。
     

     なお、溢れた水を測るための教育用器具に「ユリーカ缶」(Eureka can、またdisplacement canともいう)なるものがある。
     教育の現場では、溢れた水を測るだけでなく(これは溢れた水の量でなく、溢れた水の重さを測るため)、バネ秤に物体を吊るしたまま水に浸け、その際の重さの変化も同時に測定する(そして重さの変化=浮力の働きと、溢れた水の重さが同じであることを確認する)。

    erureka_can.jpg   erureka_can_use.jpg








    (参考)

    ・The Golden Crown
    http://www.math.nyu.edu/~crorres/Archimedes/Crown/CrownIntro.html


    ニューヨーク大学のChris Rorresによるアルキメデスホームページ内の、この話題について、各原典資料の抜粋などを含む、ほとんど何も付け加えることのない解説サイト。




    ・Galileo and the Scientific Revolution

    Galileo and the Scientific RevolutionGalileo and the Scientific Revolution
    (2003/09/17)
    Laura Fermi、Gilberto Bernardini 他

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    Laura Fermi、Gilberto Bernardiniによるガリレオ入門。
    Basic Books(1961)を、Dover社がお安く再販。Google Bookにデータ提供もしているので、この話題についての該当箇所(p.22〜)は以下から見ることができる。





    天秤の魔術師 アルキメデスの数学天秤の魔術師 アルキメデスの数学
    (2009/12/23)
    林 栄治、斎藤 憲 他

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     生まれも育ちも異なる二人は同じ学校、イエズス会が運営するラ・フレーシュ学院で学んだために、生涯友情を育み、それは17世紀に起こった近代科学の誕生に大きな役割を果たした。 
     ルネ・デカルト(1596-1650)は下級とは言えトゥレーヌ州の貴族の出であり、マラン・メルセンヌ(1588-1648)はパリの労務者の息子だった。メルセンヌは後に僧職へ進み、デカルトの方は職を転々としたり隠れ住んだり、生涯を漂泊のうちに過ごすこととなった。
     1619年、メルセンヌは各地での托鉢修行から戻り、パリのアノンシアード修道院に居を構え、終生その地に過ごした。1623年頃から、当代の研究者たちと交際を広げ、やがてこの修道院は各地から最新の学問情報が集まるようになった。メルセンヌが手紙をやり取りし、あるいは修道院に通ってくる人物には、パスカル父子,ガッサンディ,ロベルバル GillesPersonne de Roberval,ミドルジュ Claude Mydorge,デザルグ、ベークマン、それにイギリスのホッブス、オランダのグロティウス、出不精のフェルマー、それからオランダに隠棲したがメルセンヌにだけは居場所を知らせたデカルトがいた。このサロンは、1666年にはフランス科学アカデミー(アカデミー・デ・シアンス)に発展的解消する。
     
     畏友デカルトをして「様々なことを知りたがりすぎる」といわせたメルセンヌの業績は懐疑論反駁から音響論、そして数学と広いが、現在最もよく知られるのは1644年の『物理数学省察』に書かれた「2のn乗マイナス1(2^n - 1 )が素数ならば、nも素数である」という公式である。この時の公式から導き出される自然数をメルセンヌ数、素数のことをメルセンヌ素数と呼ぶ。


    mersennetext.png


     メルセンヌはこの書の中で、「2^n - 1 の整数について、n = 2,3,5,7,13,19,31,67,127,257については素数である」とも書き残した。n=31の場合についてはオイラー(1772年)が、n=127についてはリュカ(1876年)が、それぞれ素数であることを確認している。
     メルセンヌのこの記述は長く信じられ、たとえばメルセンヌが見逃したn=61の場合も素数になることを1883年にイヴァン・パヴシンが発表した時もn=67の誤植だろうと一蹴される始末だった。
     
     
     フランク・ネルソン・コールは、ハーバード大学に学び、その後ゲッティンゲン大学のクラインの下で学位論文を書いた数学者である。1896年から1920年まで、25年の長きに渡ってアメリカ数学会の事務局長をつとめた功績をたたえて、彼の名を冠したフランク・ネルソン・コール賞が設けられ、代数部門と数論部門の過去6年間に北米の数学誌に掲載された最も優れた論文の著者に対して授与されている。


     
     この堅実な事務局長は、普段から口数の少ない人物だったという(he was always a man of few words)。
     1903年の10月、ニューヨークでアメリカ数学会の年次大会が開かれた。
     コールは控えめな「大きな数の因数分解について」という論題でエントリーしていた。
     司会者がコールの論題を述べ、発表の順番が来たことを告げた。
     コールは黒板に向かい、無言で、チョークで簡単な数式を書き始めた。
     やや大きめに書かれた「2」の右肩に「67」と書き、その結果(147573952589676412928)を書き出し、そこから注意深く1を引いた。
     そしてイコールで結んで、黒板の空いたところに
     
     193,707,721 × 761,838,257,287.

    と書き上げ、一言もなく、そのまま席に戻った。

     会場の数学者たちが計算し書かれたことを理解するまでの、少しの間があった。
     その後、アメリカ数学会の記録では最初で唯一のことだが(For the first and only time in record)、発表者の論文が配られる前に、盛大な拍手が起こった。

     250年の間、素数であると信じられていた数の正体が明らかになった瞬間だった。 (→Wolfram alphaで確認
     
     
     後年(1911年)、どうやってあのような結果を得たのかと尋ねられたコールは、ただこう答えた。

     「日曜日を3年分(three years of Sundays.)」
     
     
    (参考リンク)
    ・Cole, F. N. On the factoring of large numbers. Bull. Amer. Math. Soc. 10 (1903), no. 3, 134--137.

     コールの原論文。pdfファイルでFull-text: Open access。

    How did Cole factor 267−1267−1 in 1903
     
     MathOverflow(StackOverflowの数学版ともいうべき質問サイト)でのQ&A。


    Works by or about Frank Nelson Cole

     Internet Archive上のコール関係文献。