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     アイデアは何もないところからは生まれない。

     殺風景な会議室、変わり映えしない窓の外の風景、無機質な壁紙、顔を突き合わせ飽きたいつもメンバー、どちらを向いても見るべきものは何もない。そんなところで行われるブレインストーミングから、ろくなアイデアが生まれるはずがない。

     インプットのないまま「創造的」なことを考えようと努力すればするほど、脳は決まりきった処理をただ繰り返すだけとなる。

     本当の暴風雨(ストーム)が降るには、雨滴(レインドロップ)の核になるものが必要なように、知恵の粒(ブレインドロップ)ができるのにも何か(塵や埃みたいなのでよい)が要る。

     エピクロスは、デモクリトスの完璧な原子論に、ほんの少しの《ずらし》、クリナメン=偏奇する運動変化を付け加え、過去から未来永劫にいたるまでドミノ倒しのような必然性に閉じ込められていた宇宙から、自由を救い出した。

    clinamen.jpg


     ゼロではダメだ。プラス1が望めないなら、マイナス1でもいい。
     素材が見つけられないなら、せめて制約を増やそう。片目をつぶれ。利き手をしばれ。

     思考の袋小路を抜けるのも必要なのは、ほんの少しの(意味のないノイズで足りることすらある)インプットである。

     ずらし=ノイズは、たとえば、コイン・トスでもサイコロを振ることでも手に入る。
     辞書のページをランダムに開いたり、ウィキペディアの項目をランダムに表示する〈おまかせ表示〉なんてものもある。

     しかし、間をおかずそのまま思考や連想に入るには、我々が待ち望むアイデアにもう少しだけ近い形でインプットが得られたほうがいい。

     以下に紹介するのはノイズ発生器より、ほんの少しだけ、ましなツールたちである。



    Oblique Strategies

    oblique_box.gif


     今述べたような目的のためにつくられた〈創造性デッキ〉の中では最も有名なもの。
     1975年、音楽家ブライアン・イーノと画家ペーター・シュミットが考案した113枚のカードからなるデッキで、その後改訂が繰り返されている。
     カードの1枚1枚には、たとえば次のようなフレーズが書かれている。

    ・Honor thy error as a hidden intention
    (汝の過ちを、隠れた意図として尊重せよ)

    ・A very small object. Its center
    (とても小さなもの、その真ん中)

    ・Reverse
    (裏返せ)

    ・Only a part, not the whole
    (単なる一部だ、全体じゃない)


     副題(?)には、Over one hundred worthwhile dilemmas(100を超える価値あるジレンマ)とあり、ある人はクリエーターのための(禅でいうところの)公案、あるいは創造性と問題解決のための易(あるいは、おみくじ?)と呼んでいる。
     ネットで試せるところだけでも相当な数があるが、以下のサイトがシンプルでオススメ。
    http://oblicard.com/

     iPhoneで試せるアプリにも、無料のものがある。

    Oblique Strategies Cards App

    カテゴリ: 仕事効率化

    価格: 無料



    Androidアプリはこちら。



    Creative Whack Pack

    Creative Whack PackCreative Whack Pack
    Roger Von Oech

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     "A Whack on the Side of the Head"(邦訳:『頭にガツンと一撃』 (新潮文庫))のロジャー・フォン・イークが、開発した64枚のカードからなる創造性デッキ。
     各カードは下のように、"A whack:on the side of the head"から採られた、フレーズとイラストと解説からできている。

    5digdeeper.jpg

    もっと深く掘れ

    エミール・シャルティエ("アラン"というペンネームで知られる哲学者)曰く、「 アイディアがたった一つしかない時ほど危険なことはない」。最初に見つけた正解で足を止めるな。もっと深く掘れ、別のものを探せ。 魚が臭わないようにするにはどうする?できるだけ速やかに料理しろ。猫をそばにおけ。香を焚け。鼻を切り落とせ。 次のことを心に留めること:良いアイデアを得る最もよい方法は、たくさんのアイデアを得ることだ。表面をめくれば、その下にどんなよいアイデアがあるか? 第二の正解は何か?



    よくわかる丁寧な説明だ(Oblique Strategiesだったら“Is it finished?”(それでおしまい)とだけ言って済ましているところだ)。
    Oblique Strategiesと比べると、含蓄深さとかっこ良さの点で負けるが、分かりやすさと日常的実用性では優っている。Oblique Strategiesが、アーティストの創造性/問題解決のツールならば、Creative Whack Packの方はビジネス向けだと言えるかもしれない。

     iPhoneアプリもある。
    Creative Whack Pack App

    カテゴリ: ビジネス

    価格: ¥170






    Method Cards(IDEO)

    IDEO Method Cards: 51 Ways to Inspire DesignIDEO Method Cards: 51 Ways to Inspire Design


    William Stout
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    (本家サイト)http://www.ideo.com/work/method-cards/

     アメリカのデザイン会社IDEO(アイディオ)では、デザインの発想とコミュニケーションを支援するために「メソッド・カード」という51枚組のカードを開発した。
     カードは「Learn学ぶ」「Look観察する」「Ask尋ねる」「Tryやってみる」という4つのカテゴリーに分類されている。それぞれのカードには、デザインを生み出すための発想手法や行動指針が配され、IDEOが経験してきたデザイン・プロセスの一場面を切り取った写真が使われている。

    ideo12.jpg

     チームやクライエントのコミュニケーションには、プロセスの各段階をビジュアルで伝えたり、並べ替えてプロセスの検討するのに用いる。
     かように本来的にはコミュニケーション・ツールだが、個人の発想の際にも(自分相手のコミュニケーションと見なすこどできる)、ランダムにカードを引いたり、また複数のカードを並べ替えたりして用いる事ができる。

     これまたiPhoneアプリがある。

    IDEO Method Cards App

    カテゴリ: 教育

    価格: 無料




     同種のものは多いが、ここではSocial Inovation for Kentが開発したThe SILK method deckを紹介しておこう。

    Exhibit.jpg


    http://socialinnovation.typepad.com/silk/silk-method-deck.html



    The Observation Deck

    The Observation Deck: A Tool Kit for Writers (Past & Present)The Observation Deck: A Tool Kit for Writers (Past & Present)
    Naomi Epel

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     Observation Deckは、筆が進まなくなった物書きのためのカード・デッキである。
     Literary escort (取材旅行中の作家やジャーナリストに同行する)の仕事をしていたNaomi Epel が、その経験から開発したもので、3×5インチ大の50枚のカードと付属本1冊から構成されている。
     原稿を書いていて行き詰まったら、5カードを1枚を引き、付属本の該当ページを読んで、その指示に従う。
     カードに書かれている言葉は、他のカードデッキと同様、シンプルなものだ。

    ・Zoom In and Out
    (ズームインとズームアウト)

    ・Visit Dictionary
    (辞書を訪ねよ)

    ・Make a List
    (リストをつくれ)

    ・Feed Your Senses
    (感覚にエサをやれ)

     該当ページには、それぞれのカードに書かれたアプローチで、有名作家がどんな風に切り抜けたかといった逸話も紹介されている。例えば、

    Consult the News
    (ニュースに聞け)


    というカードの解説には、ご想像の通り、トルーマン・カポーティの『冷血』の逸話が登場する。
     
     

    易 経

    Iching.png

    需、有孚。光亨。貞吉。利渉大川。
    需はまことあり。おおいに亨(とお)る。貞にして吉。大川を渡るに利あり。
    Hsu intimates that, with the sincerity which is declared in it, there will be brilliant sucess.
    With firmness there will be good fortune; and it will be advantageous to cross the great stream.



     Oblique Strategiesがクリエイターのための易経なら、本家の易経Yì Jīng、I Chingは、共同体の存亡に関わる課題を扱う、帝王の問題解決ツールである。
     まず八卦を伏羲がつくり、それを組み合わせ六十四卦としたのが神農、六十四卦の全体的な意味について記述する卦辞は周の文王、卦を構成している6本の爻位(こうい)の意味を説明する爻辞は周公、注釈である十翼(易伝)は孔子による、とされる。豪華さではイーノ&シュミットにも負けてない。っていうか余裕で勝ってる。
     大きな話をしたが、易経自体にサイズ指定はない。(牛刀をもって鶏を割く感は否めないが)大事から小事まで取り扱えるし、問い掛け(Query)自体はコイントスで足りる。有名かつ歴史があるのにシンプルなので、ネット上でもいくらでもサイトがある。これらを使えばクリックひとつで済む。
     適当に象徴的かつ抽象的で、途方に暮れそうなほどに、意味をどうとでもとれるところも、見ようによっては長所である。
     原文は理解し難い、占い的に噛み砕かれたものは下世話すぎる、というなら欧米語版もある。平易な単語で深いことを言おうとする翻訳が、却って妄想のタネとなる。たとえば次のサイト

    http://www.ichingonline.net/index.php


    iPhoneアプリは売るほどある。たとえば

    I Ching 2 App

    カテゴリ: ライフスタイル

    価格: ¥170



    Androidも。



    アイデアトランプ

    アイデアトランプアイデアトランプ


    株式会社マグネットデザイン
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     舶来品ばかりが並んだ。
     ランダムネスをつかった発想法、創造性支援は、原理はシンプルだし、いくらでもバリエーションが作れそうなのに、KJ法やMN法を生んだ日本にしては、寡聞にしてこの方面での貢献をあまり知らない。
    アイデアプラント代表の石井力重氏が、ビジネスマン向きの「SCAMPER」と技術者向けの「TRIZ」を元に開発した「アイデアトランプ」がある。



    発想法かるた

    発想法かるた (ものの見方考え方シリーズ 2)発想法かるた (ものの見方考え方シリーズ 2)
    板倉 聖宣

    仮説社
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     カードにはなっていないのだが、純和製で、創造性デッキに近いものに、板倉聖宣が作った『発想法かるた』がある。科学史家、仮説実験授業の提唱者である板倉の思考のエッセンスで滋味深いが、惜しむらくは名より実をとる板倉らしく、フレーズの語呂はよくない。だが、他にないものがある。

    ・理想なければ妥協なし
    ・真理は十年にして勝つ
    ・吹聴してわかるたのしい知識
    ・まねの限界が独自性
    ・アンプをいじれるのはただ一人(先駆者効果)


     他のセットを、クリエイター向き、ビジネス向き……との紹介してきたが、これは思索者や研究者のための創造性ツールかもしれない。


    (関連記事)
    物書きが悪魔と契約する前に試すべき7つの魔道具 読書猿Classic: between / beyond readers 物書きが悪魔と契約する前に試すべき7つの魔道具 読書猿Classic: between / beyond readers このエントリーをはてなブックマークに追加





     以前、手紙の書き方についてリクエストがあったので書く。
     
     「大人の手紙」について、「昔からこうなっているのだから守っておればいいのだ」といった礼儀作法的なお小言を繰り返すのではなく、何を目的にしてどのように構造化されているかについて説明を行う。
     理解したからすぐに手紙が書ける訳ではないのは、英文法を学んでもすぐに英会話ができないのと同じである。
     しかし、英文法を学んでない人の英語力がやがて頭打ちするように、「大人の手紙」の構造を理解しない人まま墨守していては形骸化が避けられない。
     何より意味を理解したものは応用が効く。例文集を使うにしても、要素ごと分解・再統合ができ、相手や状況に合わせたアレンジも可能になる。
     また、意味を理解した方が、意味が分からぬものよりもずっと、記憶に残りやすい。
     
     
    pen.jpg
     
     「大人の手紙」は大きく分けて3+1個の領域からなる。
     
    ・head領域
    ・body領域
    ・foot領域

    ・annex領域



     それぞれの領域は次のような役割を担う。

    (1)head領域
     言葉の元々の意味でプロトコル(外交儀礼)を担う部分。
     この手紙の儀礼的要素がここに格納される。
     これにより相手の社会関係ポートが開く。
     儀礼の交換を通じて仲間か否かを確かめるのは、群れ(社会)をつくる猿としての仕様である。

    (参考記事)
    あなたの地位と人脈は《スモールトーク》が決めている/ダンバー『ことばの起源』応用篇 読書猿Classic: between / beyond readers あなたの地位と人脈は《スモールトーク》が決めている/ダンバー『ことばの起源』応用篇 読書猿Classic: between / beyond readers このエントリーをはてなブックマークに追加

    (2)body領域
     いわゆる主文(コンテンツ)部分。
     この手紙で伝達したい情報はここに格納される。

    (3)foot領域
     この手紙のコンテクスト情報を格納する部分。
     電子メールならヘッダ情報に含まれるような、日付、差出人、宛名の情報はここに格納される。

    (4)annex領域
     いわゆる追伸が格納される。



    それぞれの領域は、以下の要素(フィールド)を格納する。
    次の表に、例文と対応付けて要素を示す。


    領域要素例文
    head領域

    儀礼的要素
    頭語拝啓
    時候の挨拶暦のうえでは春とはいえ、まだ寒い毎日です。
    安否の挨拶(相手)その後、いかがおすごしですか。
    安否の挨拶(自分)当方は皆至って元気ですので、ご放念ください。
    お礼/お詫び先日はまたお世話になり、感謝いたします。
    body領域

    コンテンツ要素
    起語さて、
    本文 先日ちょっとお話した、わたくしの転職の件ですが、おかげさまで就職先が決まりましたので、お知らせ申し上げます。
     友人の知人が経営する小さな旅行会社ですが、経営状態はよく、給与その他待遇にも不満はありません。わたくしの営業のキャリアも十分生かせそうなので、楽しみにしております。
     いろいろご心配をおかけしましたが、一応落ち着き先が決まり、妻も安心しております。
     ありがとうございました。
    終結の挨拶 略儀ながら書中にて、お知らせかたがたお礼申し上げます。
    結語敬具
    foot領域

    コンテクスト要素
    日付  三月十日
    署名○○ 良夫
    宛名+敬称読書 太郎 様
    脇付     机下
    annex領域

    追加要素
    副文追伸 佐藤さんにはこの件、まだお伝えしていません。わたくしから直接お知らせしますので、今はまだ伏せておいてください。





    1.head領域(儀礼的要素)

     手紙の儀礼交換の機能を担う部分。
     社会関係の構築・維持・再生産の観点からは、メッセージの内容よりも、したがってメッセージ伝達を担うbody領域よりも重要である。
     一見フォーマット化、テンプレート化が効きそうなのだが、相手との関係や状況・手紙のメッセージ内容などによって様々な分岐があり得る。
     たとえばお礼や見舞いの手紙では、head領域をごっそり省略して(というのが儀礼なのだ)、いきなりbody領域からはじめたりする。
     ビギナーは硬直した定型文で済まそうとし、中上級者は自由闊達なフレーズを繰り出しながらも決めてくる。
     そのため経験値によってつく差が大きい。というか
     また手紙を書くのが苦手な人は、この部分について苦手意識を持っていることが多い。


    頭語(冒頭後、起筆、起首ともいう)
     手紙文全体のはじまりを示す。
     「拝啓」「謹啓」など。
     親しき相手への手紙では「前略」として省くことがある。
     
    時候の挨拶
     暑さ、寒さなど四季それぞれの気候をおり込んだ挨拶。
     「降雪の候」「寒さ厳しき折柄」「水道のじゃ口も凍る寒さ」など。
     
     head領域の中核であり、固めの定例文で済ますこともできるが、相手・状況に応じて自分の言葉を織り込めると中級者である。
     上級者の事例としては、今朝降った雪に一言も触れてない手紙をよこした吉田兼好が、何と風流の無い奴だとなじられる(兼好なら触れてくれるだろうという期待の裏返し)エピソードが『徒然草』に出てくる。
     I LOVE YOU.を「私はあなたを愛しています」と訳した学生をそんな日本語はないと叱り、では何の訳すのかと反問された漱石が「月がきれいですね」とでも訳しとけと答えたフォークロアがある。
     一見訳が分からないかもしれないが、感情が動いたとき風景描写をはじめるのは日本文学が始まって以来の伝統である(この伝統は、恋愛感情を告白するのに、わざわざ夜景を見に行く人たちの中にも脈々と流れている)。先の『徒然草』のエピソードも、時候の挨拶も、この伝統に照らして理解すべきである。

     なお、お礼、弔いの手紙では省く。
     

    安否の挨拶(相手)
     「ますますご健勝のこととお喜び申し上げます」「皆様お元気ですか」など。


    安否の挨拶(自分)
     親しくない相手には書かない。
     病気のとき、無事でない時には書かない。

    お礼/お詫び
     お礼/お詫び目的の手紙の場合は、本文に含まれる。
     

    2.body領域(コンテンツ要素)

     手紙のメッセージ伝達を担う部分。

    起語
     body領域のはじまりを示す。
     「さて」「ところで」など。
     
    本文

    終結の挨拶
     
     「略儀ながら書中にて、お知らせかたがたお礼申し上げます。」「とり急ぎお知らせまで」「ではお元気で」など。
     
     
    結語
     body領域のおしまいを示す。
     頭語と対応するもので、head領域とbody領域が、手紙の本体部分であることを示している。
     「拝啓」に対して「敬具」、「謹啓」に対して「謹言」など



    3.foot領域(コンテクスト要素)

     この手紙が、何時、誰から誰宛に書かれたものかを示す部分。
     メッセージ本体ではないが、この部分を欠いた手紙は、後日読み返そうとした時に用をなさない。つまり文書 Documentとは言えない、ただ文字が並んだ紙でしかなくなる。
     
     手紙は使い捨ての情報伝達手段ではない。
     手渡すことで個人を越える、社会的記憶の一つのあり方である。
     つまりfoot領域に格納されるコンテクスト要素は、手紙が手紙であるための必要条件である。
     
    日付
     年月日を書くのが正式だが、月と日だけのことが多い。
     
    署名

    宛名+敬称

    脇付
     手紙文全体のおしまいを示す。
     「机下」「侍史」など。
     御中/各位宛、ビジネス、お悔やみなど凶事の手紙には書かない。


    4.annex領域(追加要素)

    副文
     追記の文。
     「追伸」を導入にして始める。
     手書きの時代には、書き忘れた事項を本文内に挿入するためには全体を書き直す必要があったので、その便宜として用いられた。
     このため、目上への手紙には追伸は用いず、最初から書き直す。
     また本来の意味では、書き直し自在な電子メールで追伸はありえない。




    (参考文献)
    以下の文献を、例文、解説ともに参考にした。


    完全 手紙書き方事典―そのまま使える文例617 (講談社プラスアルファ文庫)完全 手紙書き方事典―そのまま使える文例617 (講談社プラスアルファ文庫)
    (1994/11)
    中川 越

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     史上最も大きな図書館はどの図書館だろうか?


     所蔵数なら現代の、数千万冊の書籍や各種資料など一億点を超えるアメリカ議会図書館を筆頭に、各国が誇るナショナル・ライブラリを越えるものはない。
     
     単に建物としても見ても、É. L. ブレーの王立図書館計画案 (1784) は巨大すぎるが故に空想のままで終わったが、19世紀にはこの空想を受け継いで、ロンドンに大英博物館の円形閲覧室 (S. スマーク設計,1856) やパリのビブリオテーク・ナシヨナル (H. ラブルースト設計,1868) のような巨大図書館が、次々実現している。
     
     しかし真の意味で〈巨大〉だといえる図書館は、現在のイラン・イラク地域を支配したイスラム王朝であるブワイフ朝(932年 - 1062年)で宰相(ワズィール)を務めた、アブドゥル・カセム・イスマイル・イブン・ハッサン・アバッド(c.938-995)(むしろサヒブ・イブン・アバッドとして知られる)の個人図書館だと思われる。
     
     ブワイフ朝は10世紀後半、アドゥッド・アル=ダウラが君主(大アミール)の時代に最盛期を迎えた。
     この図書館の主は、アドゥッドのあとを継いだムアイヤド・アル=ダウラに仕え、ムアイヤドの死後には、かつてアドゥッド・アッダウラと争って負け、ニーシャープールに逃れていたファフル・アル=ダウラを後継者として迎えて、その宰相として国政を担った。
     
     文化の保護者として、そして自身も文人として知られるこの宰相は稀代の愛書家であり、その蔵書は117,000を数えたと言われる(同時代のパリにあった書物はすべて合わせても5000ほどであったことと比較されたい)
    Fischer, S. R. (2003). A history of reading. London: Reaktion., p.156.
     
     しかし宰相の図書館には壁もなければ柱もなく、蒼穹がその天蓋であり、床はどこまでも続く砂の海、書架はアルファベット順を守って並んで歩くよう訓練された、400頭とも500頭とも伝えられるラクダ達だった。
     宰相が赴く先々にどこまでも付き随い、求める本が手に取れるよう書架自体が読み手に駆け寄った。
     

    camel.jpg



     移動図書館のはじまりとしてよく語られる(oft-told story)、このあまりに魅力的な伝説は、Maureen Sawaの"The Library Book: The Story of Libraries from Camels to Computers a book for young readers"(邦訳:『本と図書館の歴史』)という絵本や、アイザック・アシモフの"Book of Facts"(邦訳:『アシモフの雑学コレクション』翻訳・編集:星新一))、更にSteven Roger Fischerの" A History of Reading"やHawkins, Brian L and Battin, Patricia の"Camel Drivers and Gatecrashers"にも紹介されている。


     さて、
     ここで筆をおさめれば、『水滸伝』を70回本で読み、『銀河英雄伝説』をヤン・ウェンリーが死ぬ手前で読むのをやめる類の喜びが得られるだろう。
     伝説を追いすぎることは、逃げ水(road mirage)に近づくがごとき失望をもたらすことは、古人の教えるところである。
     けれども人は知りたがりの動物であり、図書館は知的好奇心に仕えるために存在する。
     甘美な夢が霧散し、ラクダの書架が走り去ろうとも、ページをめくる手はとめられない。
     
     この伝説に言及する上述の文献たちは、伝説であるが故に、その典拠を示していない。
     ただひとつSteven Roger Fischerの" A History of Reading"には、このエピソードを紹介するところに註がついていて、次なる文献をあげている(巻数、ページ数は記されていない)。
     
     Edward G. Browne, A Literary History of Persia, 4vols (London,1902–24).

     その著者、エドワード・グランビル・ブラウン(1862‐1926)は、ペルシア語写本の綿密な研究に基づく文献学的方法を駆使した学風で、イラン学の基礎を築いたイギリスのオリエント学者であり、上記の書『ペルシア文学史』は22年がかりで出版された、彼の記念碑的著作である。

    ※テヘランには彼の彼の名を冠した通りがあり、立像もある。


     このくらい古くて有名な書だと、パブリック・ドメインで手に入る可能性がある。
     " A History of Reading"の註では、この大著のどこにその記載があるか定かでないが、Internet Archiveで発見できた4つの巻すべてを探すことは、かつてほど手間のかかることではない。
     名前の表記やラテン文字化が上記の英語文献とは異なっていたが、全文検索のありがたさ、Sahib Ismail Abbad (A.D.936-995)の項目に、伝説の元になったと思われる記述を発見した。

     時代背景として、ブワイフ朝は、西方のハムダーン朝,東方のジヤール朝,サーマン朝と抗争を繰返していたが、とくにファフル・アル=ダウラと彼の宰相はとりわけサーマン朝のホラサン方面への侵攻を押し進めていたことがある(下図参照)。


    Buyid-Samanid1.png



     ブラウンは、この宰相と同時代人であるサアーリビー(961―1038)の『ヤティーマッ・ダフル(時代にたぐいなきもの)』(詩人の逸話・伝記を含む名詩選)や、イブン・ハッリカーン(1211―82)の伝記事典である『ワファヤート・アル・アアヤン・ワ・アンバー・アブナー・アッザマーン(当代名士没年録)』を典拠に次のようにいう。
     
     His love of books was such that, being invited by the Sdminid King Nuh II b. Mansur to become his prime minister, he excused himself on this ground, amongst others, that four hundred camels would be required for the transport of his library alone.
    サーマン朝のナスル2世(914年 - 943年)から自分の宰相となるよう誘いがあった時、自分の図書館を運ぼうとすれば、それだけでラクダ400頭が必要だから、という理由で断った。彼の書物にかける愛情は、これほどまでのものだった。


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    →Hawkins, Brian L and Battin, Patricia の"Camel Drivers and Gatecrashers"を収録。