2013.09.28
伝えるべきことを伝えるために最低限必要なこと/仕事の文章のテンプレートの素
元々、書き言葉は、それぞれの用途や目的ごとに決まった定型(フォーマット)に基づいて書かれるのが普通であった。
例外は、近代以降、西洋世界から広がった〈小説〉という新しい言語芸術と、大正期以来、日本の初等教育で続けられる〈自由作文〉ぐらいである。
日本に生を受け、小説しか読まず、作文教育しか受けていない人が、「書き方がわからない」としても不思議なことではない。
現状確認を繰り返すだけでは仕方がないから、「ならばどうすればいいか」に進もう。
書き言葉が定型に基づくものであるなら、その定型を学べばいい。もっと言えば、マネすればいい。
これについては、すでに多くのフォーマットやテンプレートが提案されている。
このブログでも
文章の型稽古→穴埋めすれば誰でも書ける魔法の文章テンプレート 読書猿Classic: between / beyond readers

という記事を書いたことがある。
そこで今回は、実用文/仕事の文章に必要な、最小限の要素を抽出して、理由付けした。
パターンを丸暗記するより、理解したほうが、記憶することも応用することも容易にできるだろう。
加えて、この基本のパターンを、
・報告:現在を書く
・分析:過去を描く
・提言:未来を書く
という3つの応用パターンに展開した。
基本パターン
実用文/仕事の文章に求められる機能は《情報伝達》であり、煎じ詰めれば、問い(情報要求)に対する答え(情報提供)である。
しかし煎じ詰めたものだけを提供するなら、せいぜいが箇条書きに堕してしまい、文章の域にとどまらない。
文章として完備したものになるためには、答え(情報提供)を呼びつける問い(情報要求)を含み持ち、なおかつ問い(情報要求)が出されるコンテキスト(背景・文脈)をも取り込む必要がある。
こうすれば、文章を読むだけで、その文章が生まれてきた理由と書かれた目的を知ることができ、読み手がこの文章を読むべきかどうかを判断することができるようになる。
文章自体がその存在証明を行うのが〈大人の文章〉なのである。
背景→問い→答え、という順序はまた、我々の理解のプロセスにとっても適合的である。
我々は既知の情報を背景にして、その前景に未知なるものを置くことで物事を認識し理解する。
つまり既知なるものを先行させ、未知なるものを後続させるのが《情報伝達》の基層フォーマットである。
これで文章構成の最小ユニットが出揃った。
〈読者の既知情報=背景〉
↓
〈未知情報の要求=問い〉
↓
〈未知情報の提供=答え〉
〈読者の既知情報=背景〉と〈未知情報の要求=問い〉のギャップをつなぐために、逆接の接続詞を入れると、次のような基本フォーマットができる。
C・B・Aと記憶すればよいだろう。
1.Common knowledge:読者の既知情報=背景
書き手はむろん、読み手も知っている共通知識から書き始める。
この文章のコンテキスト(背景・文脈)を提示して読者を誘う。
観点をかえれば、前提となる知識を示して読者を選んでいる、とも言える。
つまり、「コンテキスト(背景・文脈)を提示された知識を持っている人を対象にこの文章は書かれている」というアナウンスでもあるからだ。
しかしアナウンスして読者を選択した以上、コンテキスト(背景・文脈)を提示された知識を持っている人が、知らないこと/抱くような疑問には、すべて文章中で答える責任が生じる。
2.But :新知見の導入
しかし、読み手も知っている(はず)ことばかりでは、その文章は読む価値がない。
文章は、読み手が知らない事項へ進まなくてはならない。
その切り替え点で、逆接の接続詞が入る。
こうして既知から未知への方向転換が行われ、読み手が知らないこと/意外に思うことへ導いていく。
3.Ask-Answer:問いと答え:未知情報の要求と提供
まだ知らないこと、あるいは意外に思うことへ導いたことで、読み手の中に〈問い〉が生まれる。
以下は、読み手が抱く〈問い〉に対して〈答え〉を返すように書き進めていく。
必要ならば、つまり、返した〈答え〉に対して読み手がまた〈問い〉を抱くようならば、答えの一部についてさらに問いかけし、より詳しい答えを書いていく。
たとえば、読み手にとって未知の(かもしれない)用語や概念が〈答え〉の中に登場するならば、読み手は「この用語/概念は何か?」という〈問い〉を抱くだろう。コンテキスト(背景・文脈)を提示された知識を持っている人が、知らないこと/抱くような疑問には、すべて文章中で答える責任が生じたことを思い出そう。
これには「___という用語/概念は、____という意味である(ということを指す)」という〈答え〉を返す必要があるだろう。
あるいは、読み手があなたの主張に「本当にこんなことが言えるのか?」という疑問(問い)を抱くならば、これには「___であると主張する根拠は____である」といった〈答え〉を返す必要があるだろう。
このような〈問い〉と〈答え〉を必要なだけ繰り返していく。
では、この基本パターンを3つの実践パターンに展開していこう。
展開1:報告:現在を書く
1.Common knowledge:共通知識
「___については、____である(ことはよく知られている)。」
2.But :新知見の導入
「しかし、___であることはあまり知られていない。」
3.Ask-Answer:問いと答え
「~は、どうなっているのだろうか。→___となっている。以下で、_(数字)_つに分けて詳しく述べる。」
「第一に、_____」
「第二に、_____」
……
展開2:分析:過去を書く
1.Common knowledge:共通知識
「___については、従来____であると考えられてきた。」
2.But :新知見の導入
「しかし、___である原因については、十分には明らかにされていない。」
3.Ask-Answer:問いと答え
「何故こうなったのか。→___が原因である。」
「そう判断する根拠は、次の_(数字)_つである。」
「第一に、_____」
「第二に、_____」
……
展開3:提言:未来を書く
1.Common knowledge:共通知識
「___について、____である(ことはよく知られている)」
2.But :新知見の導入
「しかし、最近は___となっている(___に変わってきている)」
3.Ask-Answer:問いと答え
「これからどうなるのか?→___となると予想される。なぜなら___。」
「それならどうすればいいのか?→___すべきである。なぜなら___。」
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2013.09.20
本を読んで分からないのは何故か?読書の4つのつまずきと克服したとき見えるもの
読めるかどうか分からない書物を読むことは、読書生活の中心である。これによって読書は、読み手のレベルを引き上げるもの、単なる情報入手以上のものとなる。
以下では、読めるかどうか分からない書物に挑む読書が、突き当たる壁=つまずきを4つに類型化し、それぞれについて対処法を示す。
つまずきにはそれぞれ1から4の数字をふった。数が進むにつれて困難は増し、要求される読書のレベルも上がる。これらのつまずきを克服することは、読書レベルを向上させる契機となるはずである。

(関連記事)
・よし、もう一度→ムリ目な難解書を読む5つの方法 読書猿Classic: between / beyond readers

・難しい本を最後まで読むのに人間が昔からやってきたこと 読書猿Classic: between / beyond readers

・自分のために書かれた訳ではないテキストを攻略する読解の3ステップ 読書猿Classic: between / beyond readers

(目次)
1.用語・語句の意味・事柄を知らない
1a.調べる(辞典、事典、参考文献)
1b.迂回学習(入門書、概説書)
1c.推測する
2.叙述の裏・言外の意味が分からない
2a.推測する(材料収集、意味推定、整合性確認)
3.不整合・破綻が生じているから分からない
3a.不整合に気付く
3b.不整合を特定する
3c.不整合を調停(隔離、再解釈)する
4.テキストと自分のコードシステムとが整合しない
4a.テキストを批判する(自分をとる)
4b.読み手側のコードシステムを改訂する(テキストをとる)
4c.不整合を調停する(自分とテキストを調停する)
つまずき1.用語・語句の意味・事柄を知らない
書物に登場する言葉(用語・語句)や、そこで説明抜きに取り上げられる事柄を知らないために、読んでいて分からなくなる〈つまずき〉である。
対処法1a.調べる
言葉や事柄を知らないなら、知ればよい。第1に考えるべきは辞典(ことばについて)や事典(事柄について)を引いて調べることである。
あまりに当然だが、いくつかの理由から、改めて注意を喚起したい。
まず辞書を引いて分かることは案外(読み手の多くが想定するよりもずっと)多い。そして調べれば分かることなのに、調べないまま放置されることも多い。
つまり辞書引きは、多くの人にとって〈不足行動〉になっている。理由は、(1)辞書引きは案外面倒くさい、こともあるが、それよりも(2)辞書を引いてもよく分からなかった、という経験の蓄積が読み手を辞書から遠ざけている。
対策としては、(i)辞書引きのコストをできるだけ下げる(楽に辞書を引けるよう環境を整える)、(ii)成果があがるよう辞書を引く、ことである。成果を上げる方はコツを身につける必要があるが、環境を整えるのはコンピュータやネットが使えればそれほど難しくない。
できるかぎり少ないアクションで辞書引きできるようにしておくこと。いままで2,3クリック必要だったものが1クリックでできれば、2~3倍辞書を引けることになる。少しの改善であっても、辞書引きは繰り返すものであり、長期にはこの差は大きなものになる。
またどんなジャンルであれ、まず試みるデフォルト(初動)の探索手順をつくっておくのも、コストを下げる。最初はgoogle先生というのでも良い。
中の人は、EPWINGで入手できた/に変換できた次の辞典・事典をEBMacとEBPocketで「串刺し検索」するのをデフォルトにしている。
ブリタニカ小項目百科事典、日本大百科全書、世界大百科事典、ウィキペディア、岩波日本史辞典、理化学辞典、岩波=ケンブリッジ世界人名辞典、有斐閣心理学辞典、有斐閣経済辞典、広辞苑、国語大辞典、リーダーズ英和辞典、邦語文献のための参考調査便覧、物語要素事典
辞書引きして成果が上がらないケースその1は「調べたものが辞書に載っていない」場合であり、ケースその2は「辞書に書いてあることが理解できない」場合である。ケース3は「辞書に書いてあることが間違っている」場合である。
複数の辞書を同時に引くのは、ケース1を避ける意味もあるが(これだけならどんな辞書よりも現在では検索エンジンの方に分がある)、むしろケース2とケース3への対策である。
辞書が間違っていることは割りとある。複数の辞書の間で記述が食い違えば、それに気付く。
辞書の記述が理解できない場合も、複数の辞書の記述を突き合わせると理解の手がかりができる場合がある。
もちろん辞書引きは、調べものの〈最初の一歩〉に過ぎない。これで足りなければ、さらに参考になる文献を探すことになる。調べものが本格化すれば、今読んでいる書物を超えて読む(あるいは他の文献と突き合わせながら読む)ことが始まる。
対処法1b.迂回学習
ひとつひとつの用語や事項についての説明を読んでもピンと来ない場合は、そもそもその分野で何がどうした訳で問題とされているのか、といったコンテキスト(背景・文脈)についての知識が欠けている場合が多い。
同じ分からないことが出てきて読み進まないとしても、わきおこる疑問が「これは何なのか?」でなく「何故こんなものが出てくるのか?」「何故これが問題になるのか?」であるならば、急がば回れ、迂回して、その分野の入門書、概説書を読んだ方が早い。
辞書に書いてあることが理解できないといった場合にも、入門書、概説書によって背景知識を得ることで改善する場合が少なくない。
なれない分野の専門事典なんて素人が読んで分かるはずがない、入門書、概説書が先だろ、というのはそのとおりである。
それでも辞書を引く方を先においたのは、リードタイムの差があるからである。辞典・事典は用意しておけば、1秒をかからず引くことができる。これらの辞書の記述は、大抵の入門書、概説書よりもずっと短く、すぐに読める。これで片がつくならば、それに越したことはないので、辞書を先に、入門書、概説書を次に置いた。
対処法1c.やりすごす
とはいえ、すべての不明語、未知の事項を引くことは、かなりの労苦である。
外国語の読書の例を思い出せば分かるように、ほとんどすべての言葉を辞書で引いておこなう読書は遅々として進まず、多くの場合、挫折に終わる。なんとか読み進むことができるのは、辞書を引くにしても時々で済む場合だろう。
〈分からなくてもやりすごす〉ことは、消極的ではあるが、実用的な戦略である。
ある箇所で分からなくても、先へ読み進むと自然に分かる場合も結構あるからだ。
もちろん不明な部分には、なんらかの印を残しておこう。
我々にはもうひとつ〈調べる〉でも〈やりすごす〉でもない、分からない部分を〈推測する〉というアプローチが残っている。
実際には、やりすごして飛ばした不明な部分は、読み進める中で、半ば無意識にであれ再検討されていく。その再検討の内実は、不明部分の意味内容を、先に読み進んで出会う部分とも整合的になるように、推測することに他ならない。
しかし〈推測する読み〉については、次節の「叙述の裏・言外の意味が分からない」への対応策の中で改めて取り上げよう。
つまずき2.叙述の裏・言外の意味が分からない
確かに、伝達を意図する実用文は、叙述の裏・言外の意味を理解しない者にも、文字通りにしか読まない読み手にも、理解できるように書くべきである。
しかしテキストは書いてあることだけで出来ているのではない。
たとえば、ほのめかし(allusion)のような、直接書かないで間接的に示す修辞は、文学作品以外にも頻出する。
また、そういった一切の修辞を取り除くことが仮に可能だったとしても、テキストは多くの書かれざるものを前提としている。たとえば、テキストに登場するすべての語を定義することは原理的に不可能である。定義するのに用いた言葉をまた定義することととなり、この連鎖はどこまでも遡ることになる。
書き手は、意識し切れない無数の前提を置いて、それが読み手に了解されることを期待して、書かざるを得ない。
書かれざるものを自ら補完しながら読むように、読み手は運命付けられている。
また我々が扱っている言葉というものは、書き手が書きたいことだけを伝えるものではない。むしろそれ以上の仕事をするのが常態である。
言葉はほとんどつねに、書き手の意図以上のものを抱き、また伝えてしまうものだ。達意の書き手はそのことに熟知するからこそ、図らずも言葉に織り込まれてしまうものを含めて何重もの意図を込めて書き(また書かずにおき)、言葉はまたそれ以上のものを抱えて運ぶ。
読み手はただ文字の表面をなぞるだけでは十分でなく、読み解くことが必要な言葉に対峙することになる。
対処法2a.推測する
意味内容の推測は、テキストを読む間中、不断に行われている。でなければ、書いてあることを理解することができない。
ここで推測することを改めて取り上げるのは、半ば無意識に行われる通常モードの推測が行き詰まり、書いてあることが分からなくなった場合を検討するためである。
このつまずきに応じるには〈辞書を引く〉のようなルーティン化できる作業だけではダメで、それ以上のことが必要になる。
ここで要求される思考の働きは、必ずしも順序だって行われるわけではないが、次のような要素から成る一連のものである。
(1)テキストの中から手がかりやヒントとなるものを探す
(2)テキストから得た手がかりやヒントを整理する、互いに突き合わせる
(3)手がかりやヒントが不整合とならないような解釈仮説をつくる
(4)その解釈仮説でもってテキストを解釈して、矛盾や不整合が生じないか、十分に意味が通るか、などを検証する。
(1)~(4)は、実際には進み戻りながら何度も繰り返される。
頭の中だけで行うには複雑になりすぎたら(自覚的に推測を働かせなければならないケースは大抵そうした場合だ)、(1)~(4)のステップを書き出しながら、進めるとよい。
いつもは無意識に働かせている文章理解の思考過程を明示化できるし、その明示化は必ずレベルアップにつながる。
言うまでもなく、これは時間と手間と知力が要る作業だ。
少なからず知恵熱が出るだろう。
しかし、歯が立たない書物を読むことは、このような読書レベルを向上させる機会を繰り返し持つことに他ならない。
つまずき3.不整合・破綻が生じているから分からない
つまずき2への対処で見た推測をとことん行っても、不整合がなくならない場合がある。
読んでいるテキスト自体が不整合や破綻を抱えている場合も少なくない。
どこかに不整合や破綻を抱える数学の証明は無価値だが(矛盾から始めれば何だって証明できるからだ)、テキストの場合は少し様子が違う。
できるかぎり不整合や破綻が及ぶ範囲を限定し、破綻からテキストのうちできるだけ多くを救い出すよう良き読み手は努める。
理解できない場合、テキストが悪いと断じるのは容易である。いつでもできる。
しかしこのレベルにまで達している読み手は、「テキストが悪い」ことなど最初から承知で読んでいる。加えてある程度以上の規模があるテキストが、まったく不整合・破綻をはらまないことなどめったにないことも熟知している。それでもなお汲み出すべき価値あるものを蔵していると考えるから読む。
対処法3a.不整合・破綻を特定する
不整合・破綻がすぐに分かる場合もあれば(誤字や言い間違いが原因のものならそうだろう)、理解するための推測をとことん行った果てに発見される場合もある。
誤字レベルの傷の浅いものなら、半ば無意識的に自動修正して読み進める場合が多い。
より根が深く、影響が及ぶ範囲が広い不整合・破綻こそ、対処すべき相手となる。
不整合・破綻があることに気付いたら、結局のところ何と何の間の不整合なのかを突き止めること。
つまるところAとBとが矛盾している、と突き止めるのがここでのゴールである。
このために、テキストの部分部分を、Aのサイド(Aと矛盾しないグループ)やBのサイド(Bと矛盾しないグループ)などに分割していく必要があるかもしれない。
この振り分けの過程で、AともBとも矛盾するグループや、逆にAともBとも矛盾しないグループ(不整合を調停し得る鍵となるかもしれない)が発見されるかもしれない。
振り分けは、このようなテキストの分析・分解を通じて行われていく。
対処法3b.不整合・破綻を隔離する
不整合・破綻をはらむテキストから汲み出すべき価値あるものを救い出すためのアプローチの一つは、不整合・破綻が及ぶ影響を限定し、影響が及ばない部分を取り出すことである。
いわば不整合・破綻を局所的に封じ込める訳である。
テキストの部分間の依存関係を追いかけ明示するという、込み入った作業が必要となるが、これは前段の「不整合・破綻を特定する」で行ったグループ分けの作業の延長線上にある。
対処法3c.不整合・破綻を再解釈する
不整合・破綻をはらむテキストから汲み出すべき価値あるものを救い出すためのアプローチのもう一つは、不整合・破綻をより高次のレベルで解消したり調停したりできる解釈を発見する、もしくは構築することである。
これには理詰めの分析以上の(したがって徹底的な分析は前提とされる)、それを超える創造と発明が要求される。これこそ、テキストの解釈(という時に蔑まれるもの)が、未だ気づかれていなかった知の可能性を開き、創造的なものとなり得る重大な契機であり、解釈的研究がまずは目指すところでもある。
つまずき4.テキストと自分のコードシステムとが整合しない
つまずき3では、テキストにおける内的な不整合・破綻を取り扱ったので、ここではテキストと読み手の間の外的な不整合を取り上げる。
テキストの書き手は、読み手とは別の者である。別の状況の中で、別の意図を抱いて、別のものを相手に書かれたテキストである以上、テキストが前提する意味体系や価値体系は、読み手と異なっていても不思議ではない。書き手にとって重要なものが、読み手にとっては重要でない。またその逆もある。
書かれざる前提を補完しながら読むうちに、読み手は強い心理的抵抗を感じることがある。
埋めるべきものが何であるか分かったとしても、それは読み手にとって相容れない意味体系や価値体系に基づくものである場合である。
この時、読み手には3つの選択肢がある。すなわち(1)自分の立場を採用しテキストに引いてもらう選択、(2)自分の立場を差し控えテキストの意味体系や価値体系に従う選択、そして(3)自分とテキストの二者選択ではなく、両者の間の不整合をより高いレベルで解消したり調停する選択である。
対処法4a.テキストを批判する(自分をとる)
自分の抱える意味体系や価値体系を貫徹し、それでもって今読んでいるテキストが前提とする意味体系や価値体系を批判するのも、選択のひとつである。
よくある(つまり生産的でない)論争は概ねこの水準で行われる。
しかし、この水準の読書は、大学のレポートですら承認されない。
理由の一つは、テキストとその読み手の間の非対称的関係にある。
「撃たれる覚悟のある者だけが撃つことができる」。
読み手はテキストを批判できるが、テキストは読み手を批判できない。相手からは殴られることはないという絶対的優位性を確保しながらの一方的批判は、どう見てもフェアではない。
テキストの批判が承認されるレベルのものとなるのは、できるかぎりの理解を怠らず行ったことが示される場合だけだ。
だからこそ「テキストを批判する」という対処法を、テキストをその不整合から救おうとする「対処法3c.不整合・破綻を再解釈する」の後ろに置いた。
この段階まで進んだ読み手は、テキストに書かれていない前提を推測し、できるかぎり整合的なものとしてテキストを理解しているはずである。そうして前提となるものも、決してバラバラのデタラメな思いつきではなく、互いに整合的なひとつの体系としてまとまるもの、書き手自身がそうした体系化を果たしていなくても読み手の側でなんとか再構成することが可能なものとして、理解する。
その上で、その体系は、読み手(わたし)の前提とは異なると言えるのである。
つまりテキストが前提とする意味体系や価値体系を対峙することで、読み手はそれまであまり自覚していなかった自身の意味体系や価値体系を取りまとめ、できるかぎり整合的なものとして構成しなおす。
つまりテキストの批判とそのための読書は、自己の意味体系や価値体系の自覚や反省を要請し、促すのである。
対処法4b.読み手側のコードシステムを改訂する(テキストをとる)
テキストの批判が、読み手の意味体系や価値体系の自覚や反省を要請し促すとしたら、次なる段階には、読み手の意味体系や価値体系の問い直し、そして組替えや改訂が待っている。
これは読んだものから読み手が影響を受けるといった受動的な出来事ではない。
テキストが前提している意味体系や価値体系は、必ずしも明示されていない。むしろ読み手が掘り起こし、整合的なものとして構成しなおすという積極的な働きかけによって明らかになるものである。
同じことが読み手の抱える意味体系や価値体系についても言える。読み手自身の意味体系や価値体系もまた、必ずしも明示されていない。つまり読み手とっても必ずしも自覚されてはいない。テキストを読み込み、テキストが抱える意味体系や価値体系を浮かび上がらせる働きかけを通して、それと異なるものとして読み手の意味体系や価値体系の存在が自覚される。
さらにテキストに対して行ったのと同じように、読み手自身の意味体系や価値体系もまた、掘り起こされ、整合的なものとして構成しなおされる。
もっとも、テキストは読み終えられ、読み返すことができるが、自己はそれ以上のものである。読み手の意味体系や価値体系については、一回でで全面的な組替えが起こるわけでも、全面的に明示化される訳でもない。
しかし部分的にであれ、自身の前提を掘り起こし省察することは、読書がもたらすもののうちでも最も重要な体験のひとつである。
○対処法4c.テキストと自分の不整合を調停する
部分的であれ、積極的に自己を省み再構築する試みは、より深いテキストの理解を可能とする。
この延長線上に、自分とテキストの二者選択を超えた、両者の組替えを伴う、調停の契機が生じる。
対立し合うものの間に生じる不整合を乗り越えるには、より高い次元からの再解釈や再構成が必要となる。
テキストの内的不整合を調停する企てがテキストの解釈に高い創造性をもたらすことがあるように、テキストとの間の埋めがたい不整合を読み手が乗り越えようとする試みこそ、読書が行き至る自己陶冶の高みである。
(参考文献)
・池田 久美子(2001)「学生は何が分からないか : 分からなさの型」『信州豊南短期大学紀要』 18, pp.105-122.
以下では、読めるかどうか分からない書物に挑む読書が、突き当たる壁=つまずきを4つに類型化し、それぞれについて対処法を示す。
つまずきにはそれぞれ1から4の数字をふった。数が進むにつれて困難は増し、要求される読書のレベルも上がる。これらのつまずきを克服することは、読書レベルを向上させる契機となるはずである。

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(目次)
1.用語・語句の意味・事柄を知らない
1a.調べる(辞典、事典、参考文献)
1b.迂回学習(入門書、概説書)
1c.推測する
2.叙述の裏・言外の意味が分からない
2a.推測する(材料収集、意味推定、整合性確認)
3.不整合・破綻が生じているから分からない
3a.不整合に気付く
3b.不整合を特定する
3c.不整合を調停(隔離、再解釈)する
4.テキストと自分のコードシステムとが整合しない
4a.テキストを批判する(自分をとる)
4b.読み手側のコードシステムを改訂する(テキストをとる)
4c.不整合を調停する(自分とテキストを調停する)
つまずき1.用語・語句の意味・事柄を知らない
書物に登場する言葉(用語・語句)や、そこで説明抜きに取り上げられる事柄を知らないために、読んでいて分からなくなる〈つまずき〉である。
対処法1a.調べる
言葉や事柄を知らないなら、知ればよい。第1に考えるべきは辞典(ことばについて)や事典(事柄について)を引いて調べることである。
あまりに当然だが、いくつかの理由から、改めて注意を喚起したい。
まず辞書を引いて分かることは案外(読み手の多くが想定するよりもずっと)多い。そして調べれば分かることなのに、調べないまま放置されることも多い。
つまり辞書引きは、多くの人にとって〈不足行動〉になっている。理由は、(1)辞書引きは案外面倒くさい、こともあるが、それよりも(2)辞書を引いてもよく分からなかった、という経験の蓄積が読み手を辞書から遠ざけている。
対策としては、(i)辞書引きのコストをできるだけ下げる(楽に辞書を引けるよう環境を整える)、(ii)成果があがるよう辞書を引く、ことである。成果を上げる方はコツを身につける必要があるが、環境を整えるのはコンピュータやネットが使えればそれほど難しくない。
できるかぎり少ないアクションで辞書引きできるようにしておくこと。いままで2,3クリック必要だったものが1クリックでできれば、2~3倍辞書を引けることになる。少しの改善であっても、辞書引きは繰り返すものであり、長期にはこの差は大きなものになる。
またどんなジャンルであれ、まず試みるデフォルト(初動)の探索手順をつくっておくのも、コストを下げる。最初はgoogle先生というのでも良い。
中の人は、EPWINGで入手できた/に変換できた次の辞典・事典をEBMacとEBPocketで「串刺し検索」するのをデフォルトにしている。
ブリタニカ小項目百科事典、日本大百科全書、世界大百科事典、ウィキペディア、岩波日本史辞典、理化学辞典、岩波=ケンブリッジ世界人名辞典、有斐閣心理学辞典、有斐閣経済辞典、広辞苑、国語大辞典、リーダーズ英和辞典、邦語文献のための参考調査便覧、物語要素事典
辞書引きして成果が上がらないケースその1は「調べたものが辞書に載っていない」場合であり、ケースその2は「辞書に書いてあることが理解できない」場合である。ケース3は「辞書に書いてあることが間違っている」場合である。
複数の辞書を同時に引くのは、ケース1を避ける意味もあるが(これだけならどんな辞書よりも現在では検索エンジンの方に分がある)、むしろケース2とケース3への対策である。
辞書が間違っていることは割りとある。複数の辞書の間で記述が食い違えば、それに気付く。
辞書の記述が理解できない場合も、複数の辞書の記述を突き合わせると理解の手がかりができる場合がある。
もちろん辞書引きは、調べものの〈最初の一歩〉に過ぎない。これで足りなければ、さらに参考になる文献を探すことになる。調べものが本格化すれば、今読んでいる書物を超えて読む(あるいは他の文献と突き合わせながら読む)ことが始まる。
対処法1b.迂回学習
ひとつひとつの用語や事項についての説明を読んでもピンと来ない場合は、そもそもその分野で何がどうした訳で問題とされているのか、といったコンテキスト(背景・文脈)についての知識が欠けている場合が多い。
同じ分からないことが出てきて読み進まないとしても、わきおこる疑問が「これは何なのか?」でなく「何故こんなものが出てくるのか?」「何故これが問題になるのか?」であるならば、急がば回れ、迂回して、その分野の入門書、概説書を読んだ方が早い。
辞書に書いてあることが理解できないといった場合にも、入門書、概説書によって背景知識を得ることで改善する場合が少なくない。
なれない分野の専門事典なんて素人が読んで分かるはずがない、入門書、概説書が先だろ、というのはそのとおりである。
それでも辞書を引く方を先においたのは、リードタイムの差があるからである。辞典・事典は用意しておけば、1秒をかからず引くことができる。これらの辞書の記述は、大抵の入門書、概説書よりもずっと短く、すぐに読める。これで片がつくならば、それに越したことはないので、辞書を先に、入門書、概説書を次に置いた。
対処法1c.やりすごす
とはいえ、すべての不明語、未知の事項を引くことは、かなりの労苦である。
外国語の読書の例を思い出せば分かるように、ほとんどすべての言葉を辞書で引いておこなう読書は遅々として進まず、多くの場合、挫折に終わる。なんとか読み進むことができるのは、辞書を引くにしても時々で済む場合だろう。
〈分からなくてもやりすごす〉ことは、消極的ではあるが、実用的な戦略である。
ある箇所で分からなくても、先へ読み進むと自然に分かる場合も結構あるからだ。
もちろん不明な部分には、なんらかの印を残しておこう。
我々にはもうひとつ〈調べる〉でも〈やりすごす〉でもない、分からない部分を〈推測する〉というアプローチが残っている。
実際には、やりすごして飛ばした不明な部分は、読み進める中で、半ば無意識にであれ再検討されていく。その再検討の内実は、不明部分の意味内容を、先に読み進んで出会う部分とも整合的になるように、推測することに他ならない。
しかし〈推測する読み〉については、次節の「叙述の裏・言外の意味が分からない」への対応策の中で改めて取り上げよう。
つまずき2.叙述の裏・言外の意味が分からない
確かに、伝達を意図する実用文は、叙述の裏・言外の意味を理解しない者にも、文字通りにしか読まない読み手にも、理解できるように書くべきである。
しかしテキストは書いてあることだけで出来ているのではない。
たとえば、ほのめかし(allusion)のような、直接書かないで間接的に示す修辞は、文学作品以外にも頻出する。
また、そういった一切の修辞を取り除くことが仮に可能だったとしても、テキストは多くの書かれざるものを前提としている。たとえば、テキストに登場するすべての語を定義することは原理的に不可能である。定義するのに用いた言葉をまた定義することととなり、この連鎖はどこまでも遡ることになる。
書き手は、意識し切れない無数の前提を置いて、それが読み手に了解されることを期待して、書かざるを得ない。
書かれざるものを自ら補完しながら読むように、読み手は運命付けられている。
また我々が扱っている言葉というものは、書き手が書きたいことだけを伝えるものではない。むしろそれ以上の仕事をするのが常態である。
言葉はほとんどつねに、書き手の意図以上のものを抱き、また伝えてしまうものだ。達意の書き手はそのことに熟知するからこそ、図らずも言葉に織り込まれてしまうものを含めて何重もの意図を込めて書き(また書かずにおき)、言葉はまたそれ以上のものを抱えて運ぶ。
読み手はただ文字の表面をなぞるだけでは十分でなく、読み解くことが必要な言葉に対峙することになる。
対処法2a.推測する
意味内容の推測は、テキストを読む間中、不断に行われている。でなければ、書いてあることを理解することができない。
ここで推測することを改めて取り上げるのは、半ば無意識に行われる通常モードの推測が行き詰まり、書いてあることが分からなくなった場合を検討するためである。
このつまずきに応じるには〈辞書を引く〉のようなルーティン化できる作業だけではダメで、それ以上のことが必要になる。
ここで要求される思考の働きは、必ずしも順序だって行われるわけではないが、次のような要素から成る一連のものである。
(1)テキストの中から手がかりやヒントとなるものを探す
(2)テキストから得た手がかりやヒントを整理する、互いに突き合わせる
(3)手がかりやヒントが不整合とならないような解釈仮説をつくる
(4)その解釈仮説でもってテキストを解釈して、矛盾や不整合が生じないか、十分に意味が通るか、などを検証する。
(1)~(4)は、実際には進み戻りながら何度も繰り返される。
頭の中だけで行うには複雑になりすぎたら(自覚的に推測を働かせなければならないケースは大抵そうした場合だ)、(1)~(4)のステップを書き出しながら、進めるとよい。
いつもは無意識に働かせている文章理解の思考過程を明示化できるし、その明示化は必ずレベルアップにつながる。
言うまでもなく、これは時間と手間と知力が要る作業だ。
少なからず知恵熱が出るだろう。
しかし、歯が立たない書物を読むことは、このような読書レベルを向上させる機会を繰り返し持つことに他ならない。
つまずき3.不整合・破綻が生じているから分からない
つまずき2への対処で見た推測をとことん行っても、不整合がなくならない場合がある。
読んでいるテキスト自体が不整合や破綻を抱えている場合も少なくない。
どこかに不整合や破綻を抱える数学の証明は無価値だが(矛盾から始めれば何だって証明できるからだ)、テキストの場合は少し様子が違う。
できるかぎり不整合や破綻が及ぶ範囲を限定し、破綻からテキストのうちできるだけ多くを救い出すよう良き読み手は努める。
理解できない場合、テキストが悪いと断じるのは容易である。いつでもできる。
しかしこのレベルにまで達している読み手は、「テキストが悪い」ことなど最初から承知で読んでいる。加えてある程度以上の規模があるテキストが、まったく不整合・破綻をはらまないことなどめったにないことも熟知している。それでもなお汲み出すべき価値あるものを蔵していると考えるから読む。
対処法3a.不整合・破綻を特定する
不整合・破綻がすぐに分かる場合もあれば(誤字や言い間違いが原因のものならそうだろう)、理解するための推測をとことん行った果てに発見される場合もある。
誤字レベルの傷の浅いものなら、半ば無意識的に自動修正して読み進める場合が多い。
より根が深く、影響が及ぶ範囲が広い不整合・破綻こそ、対処すべき相手となる。
不整合・破綻があることに気付いたら、結局のところ何と何の間の不整合なのかを突き止めること。
つまるところAとBとが矛盾している、と突き止めるのがここでのゴールである。
このために、テキストの部分部分を、Aのサイド(Aと矛盾しないグループ)やBのサイド(Bと矛盾しないグループ)などに分割していく必要があるかもしれない。
この振り分けの過程で、AともBとも矛盾するグループや、逆にAともBとも矛盾しないグループ(不整合を調停し得る鍵となるかもしれない)が発見されるかもしれない。
振り分けは、このようなテキストの分析・分解を通じて行われていく。
対処法3b.不整合・破綻を隔離する
不整合・破綻をはらむテキストから汲み出すべき価値あるものを救い出すためのアプローチの一つは、不整合・破綻が及ぶ影響を限定し、影響が及ばない部分を取り出すことである。
いわば不整合・破綻を局所的に封じ込める訳である。
テキストの部分間の依存関係を追いかけ明示するという、込み入った作業が必要となるが、これは前段の「不整合・破綻を特定する」で行ったグループ分けの作業の延長線上にある。
対処法3c.不整合・破綻を再解釈する
不整合・破綻をはらむテキストから汲み出すべき価値あるものを救い出すためのアプローチのもう一つは、不整合・破綻をより高次のレベルで解消したり調停したりできる解釈を発見する、もしくは構築することである。
これには理詰めの分析以上の(したがって徹底的な分析は前提とされる)、それを超える創造と発明が要求される。これこそ、テキストの解釈(という時に蔑まれるもの)が、未だ気づかれていなかった知の可能性を開き、創造的なものとなり得る重大な契機であり、解釈的研究がまずは目指すところでもある。
つまずき4.テキストと自分のコードシステムとが整合しない
つまずき3では、テキストにおける内的な不整合・破綻を取り扱ったので、ここではテキストと読み手の間の外的な不整合を取り上げる。
テキストの書き手は、読み手とは別の者である。別の状況の中で、別の意図を抱いて、別のものを相手に書かれたテキストである以上、テキストが前提する意味体系や価値体系は、読み手と異なっていても不思議ではない。書き手にとって重要なものが、読み手にとっては重要でない。またその逆もある。
書かれざる前提を補完しながら読むうちに、読み手は強い心理的抵抗を感じることがある。
埋めるべきものが何であるか分かったとしても、それは読み手にとって相容れない意味体系や価値体系に基づくものである場合である。
この時、読み手には3つの選択肢がある。すなわち(1)自分の立場を採用しテキストに引いてもらう選択、(2)自分の立場を差し控えテキストの意味体系や価値体系に従う選択、そして(3)自分とテキストの二者選択ではなく、両者の間の不整合をより高いレベルで解消したり調停する選択である。
対処法4a.テキストを批判する(自分をとる)
自分の抱える意味体系や価値体系を貫徹し、それでもって今読んでいるテキストが前提とする意味体系や価値体系を批判するのも、選択のひとつである。
よくある(つまり生産的でない)論争は概ねこの水準で行われる。
しかし、この水準の読書は、大学のレポートですら承認されない。
理由の一つは、テキストとその読み手の間の非対称的関係にある。
「撃たれる覚悟のある者だけが撃つことができる」。
読み手はテキストを批判できるが、テキストは読み手を批判できない。相手からは殴られることはないという絶対的優位性を確保しながらの一方的批判は、どう見てもフェアではない。
テキストの批判が承認されるレベルのものとなるのは、できるかぎりの理解を怠らず行ったことが示される場合だけだ。
だからこそ「テキストを批判する」という対処法を、テキストをその不整合から救おうとする「対処法3c.不整合・破綻を再解釈する」の後ろに置いた。
この段階まで進んだ読み手は、テキストに書かれていない前提を推測し、できるかぎり整合的なものとしてテキストを理解しているはずである。そうして前提となるものも、決してバラバラのデタラメな思いつきではなく、互いに整合的なひとつの体系としてまとまるもの、書き手自身がそうした体系化を果たしていなくても読み手の側でなんとか再構成することが可能なものとして、理解する。
その上で、その体系は、読み手(わたし)の前提とは異なると言えるのである。
つまりテキストが前提とする意味体系や価値体系を対峙することで、読み手はそれまであまり自覚していなかった自身の意味体系や価値体系を取りまとめ、できるかぎり整合的なものとして構成しなおす。
つまりテキストの批判とそのための読書は、自己の意味体系や価値体系の自覚や反省を要請し、促すのである。
対処法4b.読み手側のコードシステムを改訂する(テキストをとる)
テキストの批判が、読み手の意味体系や価値体系の自覚や反省を要請し促すとしたら、次なる段階には、読み手の意味体系や価値体系の問い直し、そして組替えや改訂が待っている。
これは読んだものから読み手が影響を受けるといった受動的な出来事ではない。
テキストが前提している意味体系や価値体系は、必ずしも明示されていない。むしろ読み手が掘り起こし、整合的なものとして構成しなおすという積極的な働きかけによって明らかになるものである。
同じことが読み手の抱える意味体系や価値体系についても言える。読み手自身の意味体系や価値体系もまた、必ずしも明示されていない。つまり読み手とっても必ずしも自覚されてはいない。テキストを読み込み、テキストが抱える意味体系や価値体系を浮かび上がらせる働きかけを通して、それと異なるものとして読み手の意味体系や価値体系の存在が自覚される。
さらにテキストに対して行ったのと同じように、読み手自身の意味体系や価値体系もまた、掘り起こされ、整合的なものとして構成しなおされる。
もっとも、テキストは読み終えられ、読み返すことができるが、自己はそれ以上のものである。読み手の意味体系や価値体系については、一回でで全面的な組替えが起こるわけでも、全面的に明示化される訳でもない。
しかし部分的にであれ、自身の前提を掘り起こし省察することは、読書がもたらすもののうちでも最も重要な体験のひとつである。
○対処法4c.テキストと自分の不整合を調停する
部分的であれ、積極的に自己を省み再構築する試みは、より深いテキストの理解を可能とする。
この延長線上に、自分とテキストの二者選択を超えた、両者の組替えを伴う、調停の契機が生じる。
対立し合うものの間に生じる不整合を乗り越えるには、より高い次元からの再解釈や再構成が必要となる。
テキストの内的不整合を調停する企てがテキストの解釈に高い創造性をもたらすことがあるように、テキストとの間の埋めがたい不整合を読み手が乗り越えようとする試みこそ、読書が行き至る自己陶冶の高みである。
(参考文献)
・池田 久美子(2001)「学生は何が分からないか : 分からなさの型」『信州豊南短期大学紀要』 18, pp.105-122.
2013.09.17
聞けば身も蓋もない1冊を30分で読む方法と習慣
先の記事、
文庫でここまで読める、フランス現代思想の90冊 読書猿Classic: between / beyond readers

のはてブコメントに「1冊1分で読む方法を」というのがあったので、少なくない人にとってはほぼ常識に属する話だろうけれど、当たり前の話ほど〈外の人〉には分かりにくいという話もあるから、どんな本でも決めた時間で(30分間なら30分間で)読む方法について少し書く。
どんな本でも30分間で読める理由は、ほとんどトートロジーに近い。
タイムド・リーディングなどと呼ばれたりするが、方法はシンプルこの上ない。
1冊にかける時間を(30分間なら30分間に)決めて、その時間内に読んでしまう。
読めない場合も、そこで(30分間なら30分間で)本を閉じる。
読み残しがあっても、心残りがあっても、(少なくともその日は)決してその本を開かない。
これだけ。
ひとつだけ付け加えるなら、決めた時間の範囲内で、できるだけ満足度が高くなるように、たとえばどこをどれくらい時間を配分するか考えて読む。
慣れないうちは最初の5分間ほどを、時間配分や読む箇所や読む順序を考える作戦タイムとするといい。
すぐ分かるように、これは技術と呼ぶべきものではない。
むしろ習慣とするもので、1冊にかける時間は毎日、最初に決めたのと同じ時間(30分間なら30分間)にする。
もちろん、このワーク以外の読書はいつものように好きにしていい。
当然のことながら、
・1冊10分で読める本を/読める人が、30分かけることにしても仕方がない。
・小説のような、シーケンシャル(最初から順番)に読むことを予定/期待するものには向かない。
・目次が充実した本は、読む箇所や読む順序を考える作戦が立てやすい
理想的なのは、通勤/通学の交通機関の内で、ある駅からある駅までに1冊読む、という風に、始まりと終わりの時間が外的に決定されるようなスケジュールを組むことである。
このワークの効用としては、
・読書についての集中力が増す
・読書モードのスイッチのオン・オフができるようになる
・要点のつかみ方、探し方が上達する
・読書の実効速度が一目瞭然に分かる
・日々、読書の上達が自覚できる(速度も内容把握度も)
(呼んだページ数と満足度を記録すると良い)
・読書の計画が立つようになる
・読まなくていい箇所や読まなくて良い本の判断がつくようになる
・読める冊数が増える
・「これは30分ワークで読むのに回そう」と考えるようになる