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2014.02.23
ワンフレーズでできた哲学史、あるいは中二病のメガネで見たる西洋思想
一冊を読み通すことが難しくとも、1フレーズならきっと読める。
以下は、中二病真っ只中の人が哲学書を読んでどういうところに目を留めるかを想像して編んだフレーズ集である。歴史順に配列してあるので、一口サイズの哲学史として読むことができるかもしれない。
「中二病うんぬん」というのは、捏造というより言いがかりに近いが、心ある人なら誤解や人生論的曲解をおそれて回避してしまうような、超有名フレーズから逃げないための口実として召喚した。
上記のような方針なので、各哲学者の思想を代表するようなフレーズを必ずしも選ぶことができた訳ではない。そんなことはそもそも不可能だが、それに近いものが必要な人は『哲学原典資料集』や『原典による哲学の歴史』や『この哲学者を見よ―名言でたどる西洋哲学史』(中公文庫)といった本を読むといい。
なお一人の哲学者につき1フレーズを原則としたので、選ばなかったフレーズも多い。逆に、特に名をあげるがフッサールのように物事を短くまとめることがまったくできない、今回の目的には不向きな哲学者もいる。何度か虚しいチャレンジを試みたが、今回は数人の哲学者とともに断念することにした。
ところどころ解説を加えたくなるところがあったが、常に「長すぎる」と悪評高い当ブログ故、また加えてもあまり助けにならない気がしたこともあり、禁欲した。
総じて、西洋哲学史を最速で巡ることを目指したが、足早に駆け抜けた後には涙に濡れた体も乾いているだろう。

◯古代
ソクラテス以前
「実際みな愛知者の狂気と狂熱に与ったことのある人々だ---- だから皆聞いてもらいたい。しかし奴隷たちとその他の浄めや教えを受けない者たちとはその耳に非常に大きな戸を立てるがよい」
古期オルペウスの徒(Ὀρφεύς, Orpheus, c 6th -5th century BC)
出典:プラトン『饗宴』 (岩波文庫)
「万物は神々に満ちている」
タレス(Θαλῆς (ὁ Μιλήσιος), Thalēs; c. 624 – c. 546 BC)
出典:アリストテレス全集〈第6巻〉霊魂論
「同じ川に二度入ることはできない」
ヘラクレイトス (Ἡράκλειτος ὁ Ἐφέσιος, Hērákleitos ho Ephésios; c. 535 – c. 475 BCE)
出典:森羅万象が流転する(パンタ・レイ)―ヘラクレイトス言行録
「宇宙のなかに存在するものはすべて、偶然と必然との果実である」
デモクリトス (Δημόκριτος, Dēmókritos c. 460 – c. 370 BCE)
出典:初期ギリシア自然哲学者断片集〈3〉 (ちくま学芸文庫)
アテナイ盛期
「しかしもう去るべき時が来た-----私は死ぬために、君たちは生きるために」
ソクラテス (Σωκράτης, Sōkrátēs; 470/469 BC – 399 BC)
出典:プラトン『ソクラテスの弁明』 (光文社古典新訳文庫)
「われわれは現在死んでいるのであって、
プラトン (Πλάτων, Plátōn, 428/427 or 424/423 BC[a] – 348/347 BC)
出典:プラトン『ゴルギアス』 (岩波文庫)
「すべての人間は、生まれつき、知ることを欲する」
アリストテレス (Ἀριστοτέλης, Aristotélēs; 384 – 322 BCE)
出典:アリストテレス『形而上学〈上〉』 (岩波文庫)
ヘレニズム期
「もし神が悪を妨げる意思はあっても力が無いなら全能ではない。力はあるが意思が無いなら邪神である。力も意思もあるなら悪はどこから来るのだろう。力も意思もないなら、なぜ神と呼べるのだろう」
エピクロス(Ἐπίκουρος, Epíkouros; 341–270 BC)
「快の生活を生み出すものは、つづけざまの飲食や宴会騒ぎでもなければ、美少年や婦女子と遊び戯れたり、魚肉その他の贅沢な食事が差し出す限りの美味美食を楽しむたぐいの享楽でもない。
エピクロス(Ἐπίκουρος, Epíkouros; 341–270 BC)
出典:エピクロス「メノイケウス宛の手紙」 ギリシア哲学者列伝〈下〉 (岩波文庫)収録
「『この胡瓜はにがい』。棄てるがいい。『道に茨がある』。避けるがいい。それで充分だ。『なぜこんなものが世の中にあるんだろう』などと加えるな」
マルクス・アウレリウス (Marcus Aurelius Antoninus Augustus;121 AD – 180 AD)
出典:マルクス・アウレリウス『自省録』 (岩波文庫)
「神の次に何かが生じるとすれば、神は常に神自身にとどまり続けながら、それらは生じたのではければならない。それはどのようにしてか?……火は自分自身に由来する熱を出し、雪も冷たさを自分の内のみに引き止めてはいない。芳香を出すものは、存在する限り、そこから周りに何か流れ出し、近くにいる人はその香りを楽しむ」
プロティノス (Πλωτῖνος, Plotinus; c. 204/5 – 270)
出典:プロティノス『エネアデス』 (中公クラシックス)
◯中世
教父思想
「では時間とは何か。私に誰も問わなければ、私は知っている。しかし問われ、説明しようと欲すると、私は知らない」
アウグスティヌス (Augustinus Hipponensis; 354 – 430)
出典:アウグスティヌス『告白』 (岩波文庫)
前期スコラ哲学
「理解するために信じよ。信じるために理解しようとするのではなく」
アンセルムス (Anselm of Canterbury; c. 1033 – 1109)
出典:アンセルムス『プロスロギオン』 (岩波文庫)
盛期スコラ哲学
「確かに、人間の認識よりも高いことがらを、 人間は理性によって探究するべきではない。 しかし、それが神によって啓示されたならば、 それは信仰によって受け入れられなければならない」
トマス・アクィナス (Thomas Aquinas; 1225 - 1274)
出典:トマス・アクィナス『神学大全』→抄訳に『世界の名著 20 トマス・アクィナス』 (中公バックス)。創文社から全訳あり (全45巻)。
後期スコラ哲学
「より少ないもので成立することを、より多くのもので成立させるのはムダなことである」
オッカムのウィリアム (William of Ockham; 1285 - 1347)
出典:オッカム『大論理学』註解
◯近代
大陸合理論
「だれかしらある極めて有能で極めて狡猾な欺き手がいて、私をいつも欺いている。力のかぎり欺くがよい。だからといって、私がなにものかであると考えている間は、私が何ものでもない、と思わせることは決してできないだろう」
デカルト (René Descartes ;1596 – 1650)
出典:デカルト『省察』 (ちくま学芸文庫)
「嘲笑せず、嘆かず、呪わず、ただ理解する」
スピノザ (Baruch Spinoza; 1632 – 1677)
出典:スピノザ『国家論』 (岩波文庫)
「物質のどの部分も、草木の生い茂った庭園か、魚がいっぱい泳いでいる池のようなものではあるまいか」
ライプニッツ (Gottfried Wilhelm von Leibniz ;1646 – 1716)
出典:ライプニッツ『モナドロジー・形而上学叙説』 (中公クラシックス)
イギリス経験論
「自然は服従することによってでなければ支配されない」
ベーコン (Francis Bacon; 1561 – 1626)
出典:ベーコン『ノヴム・オルガヌム―新機関』(岩波文庫)
「このように一つの人格に統合された群衆は「国家」と呼ばれる。これがかの偉大な〈リヴァイアサン〉、むしろ、もっと恭しく言えば、あの可死の神の生成である」
ホッブズ (Thomas Hobbes of Malmesbury; 1588 – 1679)
出典:ホッブズ『リヴァイアサン』(岩波文庫)
「人類を惑わす疑問や論争の最大の部分は、言葉の疑わしく不確実な使用に、あるいは同じことだが言葉が表すとされる確定されない観念にもとづく」
ロック (John Locke; 1632 - 1704)
出典:ロック『人間知性論』 (岩波文庫)
「存在するとは、知覚されることである」
バークリー (George Berkeley; 1685 - 1753)
出典:バークリー『人知原理論』 (岩波文庫)
「私が私自身と自ら呼ぶものの内へもっとも深く入り込んだとしても、出会うのはつねに何らかの特定の知覚----熱さや冷たさ、明るさや暗さ、愛情や憎悪、快や苦----でしかない。自我とは、思いも及ばぬ速さで継起し、たえざる変化と動きの内にあるさまざまな知覚の束ないし集まりに他ならない」
ヒューム (David Hume;1711 – 1776)
出典:ヒューム『人性論』 (中公クラシックス)
モラリストの哲学
「われわれは、賢明になるためには、まず馬鹿にならなければならない。己れを導くためには、まず盲目にならなければならない」
モンテーニュ Michel Eyquem de Montaigne; 1533 - 1592)
出典:モンテーニュ 『エセー』 (中公クラシックス)
「この無限なる空間の永遠の沈黙が私を恐れしめる」
パスカル (Blaise Pascal; 1623 - 1662)
出典:パスカル『パンセ』 (中公文庫)
「人間は自由なものとして生まれている。しかるに、いたるところで鎖に繋がれている。他の人たちの主人であると自分を考えている者も、やはりその人たち以上に奴隷なのである」
ルソー (Jean-Jacques Rousseau; 1712 - 1778)
出典:ルソー『社会契約論/ジュネーヴ草稿』 (光文社古典新訳文庫)
カントとドイツ観念論
「啓蒙とは何か。それは人間が、みずから招いた未成年の状態から抜けでることである。未成年状態とは、他人の指導なしには自分の悟性を用いる能力がないことである。この未成年状態の原因が悟性の欠如にではなく、他人の指導がなくとも自分の悟性を用いる決意と勇気の欠如にあるなら、未成年状態の責任は本人にある。したがって啓蒙の標語は「あえて賢くあれ!」「自分自身の悟性を用いる勇気を持て!」である」
カント (Immanuel Kant; 1724 - 1804)
出典:カント『啓蒙とは何か 他四篇』 (岩波文庫 青625-2)
「精神の生とは、死を避け、荒廃から己を清らかに保つ生ではなく、死に堪え、死のただなかに己を維持する生である。精神がその真理を獲得するのは、ただ絶対的な四分五裂のただなかに自己自身を見出すことによってのみである。精神にこういう力があるのは、否定的なものをはっきりと直視し、そのもとに足を停めることのみによっている。この足を停めることこそ、否定的なものを存在へと逆転させる魔力なのである」
ヘーゲル (Georg Wilhelm Friedrich Hegel; 1770 - 1831)
出典:ヘーゲル『精神現象学』
◯現代
功利主義
「我々が何をすることになるかを定めるのみならず、我々が何をすべきかを指示するのは苦痛と快楽だけである」
ベンサム(Jeremy Bentham; 1748 - 1832)
出典:ベンサム『道徳および立法の諸原理序説』 世界の名著 (49)ベンサム/J.S.ミル (中公バックス)収録
「文明社会の構成員に対して、その意志に逆らって、権力が正当に行使され得る唯一の目的は、他者危害の防止だけである。彼自身のためというのは、物質的なものであれ道徳的なものであれ、正当な根拠とはならない。そうすることが彼のためによいだろうとか、そうすれば彼はもっと幸せになれるだろうとか、他の人達の意見ではそうすることが賢明だろうとか、正しいとさえいえるだろうということで、彼を行動させたり抑制させたりすることは、正しいことではありえない」
ミル (John Stuart Mill; 1806 - 1873)
出典:ミル『自由論』 (光文社古典新訳文庫)
マルクス主義
「貨幣は、その前にはほかのどんな神の存在もゆるさないような嫉妬深い神である。貨幣は人間のいっさいの神々をひきずりおろし、それを商品に変える。貨幣は一般的で独立に構成された価値である。だから、それは世界全体から、人間界からも自然からも、その固有の価値をうばってしまった。貨幣は人間の手を離れた人間の労働と存在の本質であって、この手を離れた本質が人間を支配し、人間はこれを礼拝するのである」
マルクス (Karl Heinrich Marx; 1818 - 1883)
出典:マルクス『ユダヤ人問題によせて ヘーゲル法哲学批判序説』 (岩波文庫)
生の哲学
「生と夢は同じひとつの書物の頁である。連関をつけながら読むと、これが現実の人生ということになる。しかし毎日の読書時間(すなわち一日)が終わり、休養時間がやってきても、我々はしばしばまだ漫然と拾い読みをし、秩序も連関もなしに、ある時は此処、あるときはそこというように頁をめくるのである」
ショーペンハウアー (Arthur Schopenhauer; 1788 - 1860)
出典:ショーペンハウアー『意志と表象としての世界 』(中公クラシックス)
「神を埋める墓掘り人どもの騒ぎがまだ聞こえてこないか? 神の腐る臭いがまだしてこないか?------神もまた腐る! 神は死んだ! 死にきりだ! そしておれたちが神を殺したのだ! ------すべての殺害者中の殺害者たるおれたちは、どうして心を慰める?」
ニーチェ (Friedrich Wilhelm Nietzsche; 1844 - 1900)
出典:ニーチェ全集〈8〉悦ばしき知識 (ちくま学芸文庫)
「事象を相対的に知る代わりに絶対的に把握し、事象に対する視点をとる代わりに事象の中に身を置き、分析する代わりにその直感をもち、またひいてはあらゆる記号的言表、翻訳、表現に依らずに事象を把握する方法があるとすれば、哲学はまさにそれである。してみると哲学は記号なしにやろうと志す学である」
ベルクソン (Henri-Louis Bergson ; 1859 - 1941)
出典:ベルクソン『思想と動くもの〈第1〉哲学入門・変化の知覚』(岩波文庫)
「理解という過程によって、生がその根底までさながらに開示されると共に、他面、自他のさまざまな生の表現へ自ら体験した我々の生を移入することによってのみ、自己自身と他人とを理解するのである。それゆえ、体験、表現、理解というこの連関こそ、人間を精神科学の対象として成立せしめる独特の方法にほかならない」
ディルタイ (Wilhelm Christian Ludwig Dilthey; 1833 - 1911)
出典:ディルタイ『精神科学における歴史的世界の構成』
新カント派
「経験科学は実在の認識において、自然法則のかたちをとった普遍を求めるか、あるいは歴史的規定を含んだかたちをとった特殊を求めるか、いずれかである。前者が法則科学であり、後者が事件科学である。前者は常にそのようなありかたをするものについて語り、後者はかつてそのようなありかたをしたものについて語る。学的思考は、前者の場合は法則定立的であり、後者の場合は個性記述的である」
ヴィンデルバント (Wilhelm Windelband; 1848 - 1915)
出典:ヴィンデルバント『歴史と自然科学・道徳の原理に就て・聖―「プレルーディエン」より』 (岩波文庫)
「人間は、ただ物理的宇宙ではなく、シンボルの宇宙に住んでいる。言語、神話、芸術および宗教は、この宇宙の部分をなすものである。それらはシンボルの網を織る、さまざまな糸であり、人間的経験の、もつれた糸である」
カッシーラ (Ernst Cassirer, 1874 - 1945)
出典:カッシーラ『人間』 (岩波文庫)
実存主義
「絶望は、死病にとりつかれているものに似ている。このものは、そこに横たわりつつ死に瀕しているが、死ぬことはできないのである」
キルケゴール (Søren Aabye Kierkegaard、1813 - 1855)
出典:キルケゴール『死にいたる病 』(ちくま学芸文庫)
「人間は、自由であるように呪われている」
サルトル『存在と無 現象学的存在論の試み』 (ちくま学芸文庫)
科学哲学と分析哲学
「今や私は、それらの無意味な表現が無意味である理由は、私がまだ正しい表現を発見していないことではなく、無意味さこそがその本質であることにあると見てとれるからです。というのも、それらの表現によって私が成したいことは、世界を越えて行くこと、すなわち有意義な言語を超えて行くことだからです。私の全傾向、そして私の信じるところ、今まで倫理や宗教について書いてきた全ての人間の傾向は、言語の限界へ向かって走っていこうとすることです。私たちの牢獄の壁へ向かって走ることは、完全に、絶対に成功する望みがありません。倫理学が、人生に対する究極的な意味、絶対的な善、絶対的な価値について何かを言おうとする欲求から生じたものである限り、それは科学ではありえません。倫理学が語ることは、いかなる意味においても私たちの知識を増やしません。しかし、それは人間の心の中の傾向を記した文書であり、私は個人的にこの傾向に敬意を払わないわけにはいきません。そして、私は生涯にわたってそれを嘲ることはないでしょう」
ウィトゲンシュタイン (Ludwig Josef Johann Wittgenstein、1889 - 1951)
出典:ウィトゲンシュタイン「倫理学講話」『ウィトゲンシュタイン全集 5 ウィトゲンシュタインとウィーン学団』収録
「われわれは統一科学におけるもっとも厳密な科学的原理に基づいて考えるときでさえも、「普遍的スラング」をしか使用することができない。普遍的スラングについては、今のところ何の合意もないのであるから、こうした問題に関わるすべての学者は、普通自分自身が二、三の新しい語句を寄与したにちがいない、普遍的スラングを使用しなくてはならないのである。
決定的に確立された、純粋なプロトコル言明を科学の出発点とすることはできない。タブラ・ラサは存在しない。公海上で船を作り直さなければならない船員と同じように、それをドックのなかで解体したり、最良の材料を用いて新たに建造したりすることは決してできないのである。あますところなく消え失せることが許されるのは、ただ形而上学のみである」
ノイラート (Otto Neurath; 1882 - 1945)
出典:ノイラート「プロトコル言明」現代哲学基本論文集〈1〉 双書プロブレーマタ収録
「実際には、理論の決定的な反対証明はこれまでけっしてできたことはない。というのも、実験結果は信用出来ないとか、実験結果と理論の間に存在すると主張されている不一致はたんに見せかけだけのものであって、われわれの理解が進めばそうした不一致は消滅するであろう、というような主張をすることが、つねに可能だからである」
ポパー (Sir Karl Raimund Popper; 1902 - 1994)
出典:ポパー『科学的発見の論理 』
「時折りはめざましい成功があるにもかかわらず、科学の専門分野間の境界をこえたコミュニケーションはますます悪くなりつつある。数を増やしつつある専門家集団によって採用されている両立不可能な見地の数は、時間とともに増加しているのではないだろうか。諸科学の統一性は科学者にとって明らかに一つの価値である。それなのになぜ、科学者たちは諸科学の統一性を放棄するのであろうか」
クーン (Thomas Samuel Kuhn、1922 - 1996)
出典:クーン『科学革命における本質的緊張―トーマス・クーン論文集』
構造主義とポストモダン
「神話や儀礼のいちばん重要な意義は、よく言われてきたような、現実に背を向けた『架構機能』がつくりだしたものである点にではなく、かつて或るタイプの発見にぴったり適合していた(そしておそらく現代でもなお適合している)観察様式および思索様式のなごりを現在まで保存している点にある。このような具体の科学がもたらす成果は、本質的に、精密自然科学に期待されるものとは別のものに限定されざるをえなかったが、だからといって具体tの科学が精密自然科学より非科学的であるわけでも、具体の科学の成果が精密自然科学のそれより非現実的であるわけでもなかった。具体の科学は、精密自然科学より一万年も前に確実な成果を上げており、その成果はいまなお私達の文明の基層をなしているのである」
レヴィ=ストロース (Claude Lévi-Strauss; 1908 - 2009)
出典:レヴィ=ストロース『野生の思考』
「言表行為の時間の他には時間は存在せず、あらゆるテクストは、永遠にいま、ここで書かれる」
ロラン・バルト(Roland Barthes; 1915 - 1980)
出典:バルト『物語の構造分析』
「人間は、われわれの思考の考古学によってその日付の新しさが容易に示されるような発明にすぎぬ。そしておそらくその終焉は間近いのだ。
もしもこうした配置が、現れた以上消えつつあるのだとすれば、われわれはせめてその可能性くらいは予感できるにしても、さしあたってなおその形態も約束も認識していない何らかの出来事によって、それが18世紀の曲がり角で古典主義的思考の基盤がそうなったように覆されるとすれば ------
そのときこそ賭けてもいい、人間は波打ちぎわの砂の表情のように消滅するであろうと」
フーコー (Michel Foucault; 1926 - 1984)
フーコー『言葉と物―人文科学の考古学』
「19世紀・20世紀の思想と行動は、ひとつの『理念』によって規定されていた。……その『理念』とは、解放のそれである」
リオタール(Jean-François Lyotard; 1924 - 1998)
出典:リオタール「世界史(普遍的物語)についての手紙」『こどもたちに語るポストモダン』 (ちくま学芸文庫)収録。
「人は哲学の書物をかくも長い間書いてきたが、しかし、哲学の書物を、昔からのやり方で書くことは、ほとんど不可能になろうとしている時代が間近に迫っている。
哲学的表現の新しい手段の追求は、ニーチェによって開始されたのだが、今日では、その追求を、たとえば演劇や映画のような、あるいくつかの芸術の刷新に見合ったかたちで遂行しなければならない。
この視点から、いまやわたしたちは、哲学史をどう利用すべきかという問いを立てることができる」
ドゥルーズ(Gilles Deleuze; 1925 - 1995)
出典:ドゥルーズ『差異と反復』(河出文庫)
2014.02.11
一冊の書物にできなくても、図書館にはまだやれることがあるー図書館ビギナーズ・マニュアル
あることを調べようと図書館にやって来た人の多くは、そのテーマを扱った書物を探そうとする。
そして、そうした本を見つけられなければ探しものは失敗したと思う。
では、そのテーマについての書物を所蔵しない図書館はもう何もできないのか?
否、否、三たび否。
あなたが知りたいことに一冊をささげた書物はなくても、図書館にはまだできることがある。
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・ネットでは逢えない書物に会いに行くー新入生におくるリアルワールドでの本の探し方 読書猿Classic: between / beyond readers

・辞書を引くこと、図書館を使うことは「読み書き」の一部である 読書猿Classic: between / beyond readers

一般向け百科事典 general encyclopedia
まず図書館には事典がある。
事典には一般向けの百科事典(英語でgeneral encyclopediaとよぶもの)と専門事典(英語でspecial encyclopedia)がある。
ブリタニカ百科事典や世界大百科事典(平凡社)や大日本百科全書(小学館)などが、よく知られた一般向けの百科事典である。
人によって様々なスタイルがあるが、一般向けの百科事典は探し物の際にまず最初に引くべきものである。
理由は、ほとんどあらゆる分野について、その道の専門家がそこそこの分量を使ってかなりまともな説明してくれているからである。
専門的な知識が必要らしいのだが、自分が知りたい事柄がいったいどの分野に該当するのかが分からないと、どの専門事典、どの専門書、どの専門家に当たればよいかがわからない。
しかし一般向けの百科事典はオールラウンダーである。どの分野かどの専門か考えなくても、とりあえず引くことができる。
複数冊からなる大部な専門事典が多くない日本語では、その手薄なところを一般向けの百科事典がカバーしているところがある。場合によっては専門の事典よりも充実した記述があったり、ほかの邦語文献では扱っていない項目が載っていることもある。いろんな文献を探し回ったがこれといった成果があがらなかったのが、ダメもとで百科事典を引いて解決することだって珍しくない。
また百科事典の記述は、一冊の書物と比べればずっと短い。これは本格的な探索を始める前の予備調査に合った特性である。後ほどもっと大部なもっと専門的な文献に当たるとしても、手短に概要を知っておくことは、理解の深さも速さも改善する。何より関連ワード(専門用語)や固有名詞(人物、文献名)など知っておくことは、探索をうまく運ぶための前提となる。
だからまず手始めに(過度の期待は持たずに)一般向けの百科事典を引くべきである。
◯百科事典の短所
一般向けの百科事典は、ある意味で公共図書館のミニチュアである。
専門図書館や専門事典とは違い、どちらもどんなニーズがあるかあらかじめ決め付けることができないから、限りあるスペースや予算の中で、できるだけ抜けたエリアが出ないよう努めている。
その結果、かなり広い分野をカバーすることになるのだが、一個人の特殊なニーズから見ると物足りないものになる。
図書館で言えば「いろんな本があるが(あるのに)、自分の読みたい本はない」、百科事典でいえば「さまざまな分野の項目があるが(あるのに)、自分が知りたいことが書いていない」とがっかりした体験がある人も少なくないだろう。
図書館も百科事典も、調べ物をクエストと考えれば、最初に立ち寄る街にすぎない。そこでは良くて最低限の装備と手がかりが手に入るだけだ。
そこでの「がっかり感」は、旅がまだはじまったばかりであることを教えている。
◯百科事典の必要
百科事典はかなり広い分野をカバーしている。
前に書いたことがあるが、百科事典はあなたが知りたいようなこと(たとえば先ごろ見知った最新の知識)は書いていない。むしろ、あなたが知っているべきことが書いてある。
一般向けの百科事典は特殊なトレーニングを積んでいなくても、基本的には誰でも引いて調べることができるものである。つまりそこに書いてある知識は、原則的には誰でもアクセス可能な知識であると見なすことができる。
したがって物を書く人は、百科事典に書いてあるようなことは前提にして、それ以上・それ以外のことを書くことに集中することができる。
百科事典に載っているのは、あなたが今実際には知っていなくても、知ることができる知識、すなわち《可能性としての知識》である。
これを読み手の立場に置きなおせば、百科事典に書いてあるようなことはすでに知っているか、でなければすぐに引くことができるか、いずれかでないと、まともな人が書いたまともな文献を読むことができない、ということでもある。
百科事典には何が書いてあるのか? 読書猿Classic: between / beyond readers

◯百科事典が力を発揮するのは
実用的な観点から、さらに一言付け加えると、辞典・事典が力を発揮するのは、あなたが知らない事柄を引くときではなく、あなたがすでに知っている(と思っている)事柄を調べる場面で、である。
知らない事項を辞書を調べて、運よくそれが載っていたとしよう。あなたはそれを読み、分からないという不愉快な状態を脱して安心する。しかし、これは知識を身につけるのには悪い状況である。あなたの精神はすでに臨戦態勢を解いており、不愉快は解消され、あなたは新しい事柄を身につける必要から既に脱している。
逆にすでに知っている(と思っている)事柄を調べたとしよう。相当な人でないかぎり、辞典・事典には、その事柄についてだけでも、あなたが知っていた以上の知識が登載されている。一部分はあなたが既に知っていたことだが、一部分は知らなかったことであり、また一部分は自分の知識とは異なることである。今、あなたは驚きと好奇心の中にある。世界は(ほんの一部分であれ)あなたが思っていたようではなかったのだ。今やあなたには学ぶべき必要があり動機付けがある。加えてあなたの中には、その事項について既に知っている知識がある。これは新しい知識を結わい付けるフックになる。これだけの好条件が揃って何も学ばない人はいない。
辞書をうまく使えない人は、わからない言葉だけを引いている 読書猿Classic: between / beyond readers

食わず嫌いの人へ→頭が冴え物知りになる事典の4つの習慣 読書猿Classic: between / beyond readers

かなり広い分野をカバーしている百科事典は、あなたが知りたい新奇な項目よりも、あなたがすでに知っている(と思っている)事柄をより多く登載している(これが人が「百科事典に知りたいことが載っていない」と思う理由のひとつである)。
たとえば自転車を知らない人はほとんどいないだろう。しかし自転車について百科事典に書いてあることをすべて知る人は少ない(知っている人はきっと自転車の専門家だろう)。
すでに知っている(と思っている)事柄については、人はわざわざ調べようとしない。たとえそれが調べものに関わっていても、である。
具体例を出した方が分かりやすいだろう。
イギリスの住宅政策の変遷を調べていて、背景知識として当然必要であるイギリス近現代の政治史についてほとんどまったく無知のまま悪戦苦闘していたことがある。何しろ普通選挙権の拡大がいつだったかも知らないほどだった。まったく言い訳だが、調べもののテーマを絞り込むこと(これはまともな調査には不可欠である)に努めていると、それとは逆方向の行為に時間も意識も割かなくなる。まずいことになったと気付いて、イギリス政治史の文献を集めだしたのだが、実は知るべき最低限度のことは百科事典の「イギリス」の項目の中の「政治」の項にほとんどすべて書いてあった。《可能性としての知識》としての常識的知識を提供する百科事典の役割からいって当たり前である。しかしその時は当たり前過ぎて盲点だった。
◯紙の事典かデータベースか
実は、最有名どころの一般向け百科事典はデータベース化されており、CDROMなり有料データベースでなり提供されている。現在の図書館では、これらを利用できるところが多い。
百科事典は大部であり、必要な事柄はあちこちに分散していることが多いから、何冊もの大型書籍を取り回すことになる。
さらに事典は必ず間違っているものだから(あれだけの分量のデータを人間が誤りなく扱えるとは考えられない)、実用には必ず複数の事典を引き比べないといけない(引き比べると有名人の生没年ですら複数の事典で一致しないことが分かるだろう)。そうなれば物理的な取り回しの苦労は倍増する。
電子化された百科事典なら、そうした物理的・肉体的努力が軽減される。
しかしデータベース化されているのは、わずか数種類の一般向け百科事典に過ぎない。専門事典の中ではわずかに『国史大辞典』等がジャパンナレッジで提供されているだけである。
専門事典(special encyclopedia)を使うには、今後も当分の間、紙の事典と付き合う必要がある。
専門事典 special encyclopedia
専門(用語)辞典は専門用語の定義を与えるが、専門(百科)事典はその分野の事項について概説する。
両者の区別は必ずしも明確ではなく、辞典dictonaryと名のついた実質的には事典encyclopediaであるものも少なくない。
たとえば『国史大辞典』は日本史についての代表的な百科事典である。Easton's Bible Dictionaryは聖書用語に関する百科事典であり語義のみの項目も多いものの、多くの見出し語に詳細な解説がなされている。『岩波数学辞典』は数学についての辞典であるが事典的側面も強く、各項目の末尾には参考文献が挙げられている。その英訳タイトルはEncyclopedic Dictionary of Mathematicsという。
専門事典は、一般向け百科事典より専門的な知識・情報を提供してくれるはずである。
しかし複数巻ものの大部な専門事典は買ってくれる相手が限られ出版企画として成立しにくい。
日本ではむしろ百科事典が専門事典的な作り方を部分的に取り入れていて、専門事典の不足を補っている。
たとえば『世界大百科事典』(平凡社)はエリア制という方式を採用し、分野ごとに専門家チームがあたり、チームリーダー(学会の重鎮があたる)が当該分野の項目を誰が書くかを割り振りし、リーダー自身は分野全体を扱う総括的な項目を執筆した。
英語圏では専門事典の数も多く、一般向け百科事典との間に分業が成り立っている。英語の一般向け百科事典の新しい版は、日本語の百科事典よりずっと平易な言葉で記述されている。これらは基本的にホームユースであり、専門知識を学ぶ学生は専門事典(special encyclopedia)を使うことが勧められる。
専門事典を使う場合、自分が知りたい事項がどの分野に属し、どの専門事典を引けばよいのかをどうやって知るかが最初の関門になる。専門事典の種類が増え、いずれも周辺領域をカバーするため担当分野は一部分ずつ重なり合うとなると、この困難は深まるが、英語では何百という専門事典を横断検索できるMaster Indexが存在する(情報ニーズあるところにツールあり)。ユーザーはまずMaster Indexを引き、自分が知りたい事項がどの専門事典のどこに載っているか(これはどの専門分野で扱われているか、ということでもある)を知る。多くの場合、自分の知りたい事項は、複数の専門事典に載っていることが分かる。
専門事典は専門知識の入口であることを目的にしており、さらに詳しく知りたい場合は次に何を読めばよいかを示すために各項目ごとに参考文献リストがついている。Master Indexを引くことで分かった複数の専門事典の複数の項目を巡り、参考文献リストを拾い集めると、複数の専門事典で共通して挙げられている文献が分かる。複数の専門事典の項目で何回出てきたかを数えて並べなおせば、知りたい事項についての基本文献が優先順位つきでリストアップされることになる。
レファレンス、この一冊/事典の横断検索ならFirst stop : the master index to subject encyclopedias 読書猿Classic: between / beyond readers

レファレンス、この一冊/複数の領域を渡り歩くならFirst Stopふたたび 読書猿Classic: between / beyond readers

残念ながら日本語には、このような専門事典の横断検索ツールは存在しない。
ただし人名や地名、作品名については、各種の百科事典・人名事典や作品集などを横断検索できる各分野の『人物レファレンス事典 』『作品レファレンス事典』がいくつか日外アソシエーツから出ている。同様に図鑑や統計資料を横断検索できる『動物レファレンス事典』(外に植物、昆虫など)、『統計図表レファレンス事典』などもある。
被引用索引 Citation Index
専門事典の信頼度は相対的に高く、当該分野についての事項をまとめていることで利用価値は高い。
しかし事典には致命的な欠点がある。
事典は遅い。そこに掲載された知識は古い。
事典は学術情報の流れでいえば最下流に位置する。知識が事典に流れ着くまでには、多くの時間が経過している。
学術情報のライフスパンを概略すれば、研究は学会での口頭や論文として発表されたのち、関連の研究が増え重要性を認められればトピックごとに近年の研究状況をまとめた展望論文に取り上げられ、さらに研究テーマとして発展すればテーマ別の編集本が編まれそこに登載される。そこから多くの研究が派生し学問の中での評価が定まると、教科書に取り入れられ、さらに事典の項目となる。これに辞書が企画されるまでの期間と編集に要する数年が加わる。このように書物は論文よりも、事典はさらにそれ以上に学術情報の流れの下流に位置する。加えて教科書のように改訂版が出ることは少なく、出たとしても数年というスパンではない。このために、先端からの遅れは十数年(時には数十年)を越えてしまう。
◯学術情報のライフスパン

より新しい情報を得るためには、この学術情報の流れを遡ることになる。
幸いにして教科書や専門事典は、それらを書くために参照した研究論文を、それぞれの記述ごとにいちいち明示している。
教科書や専門事典で参照された研究論文は、当然それらの教科書や専門事典がまとめられる以前に発表されたものである。では、その後、その論文を受けてどのように研究が発展したか、具体的にはどのような論文がその後発表されたかを知るためにはどうすればよいか?
Aという論文の後に発表された研究がもし、A論文の研究を発展させ、あるいは否定しているものならば、必ずやA論文を引用しているはずである。
これをA論文の方から見れば《引用されている》ことになるが、世の中にはこうした引用関係を汲み上げて論文ごとに被引用情報としてまとめなおしたCitation Indexというものが存在する。これを使えば、ある論文から見て未来の研究を見つけることができる。
未来をつくる索引-ガーフィールドとCitation Indexの挑戦 読書猿Classic: between / beyond readers

Citation Indexは、ユージン・ガーフィールドが設立したInstitute for Scientific Information (ISI)により1960年代以降紙ベースで提供されていたが、現在はWeb of Scienceで提供されている。大学図書館の契約データベースに入っていることが多い。
他にGoogle ScholarやPubMedでも被引用・被参照文献を見ることができる。
この方法にも欠点がある。個々の論文から被引用・被参照関係をいちいち抽出することは非常に手間がかかる作業であり、すべての文献について行うことは事実上不可能である。そのためCitation Indexは、より多く引用・参照されている文献を掲載している主要な学術誌に対象を限定している。言い換えれば対象雑誌を広げるコストと得られる便益が折り合うところで手を打っているといえる(引用されることの少ないマイナーな学術誌に対象を広げても被引用・被参照関係データは豊かにならない)。
しかし、このことを裏返していえば「主要な」ところから外れた文献を見つけるのには役に立たない。
たとえば日本語文献については対象にならない。日本語文献を対象としている論文データベース、たとえばCiNiiでも被引用・被参照関係を一応見ることができるが、現在のところ「見ることができる場合もある」程度に留まっている。
被引用・被参照関係がデータベースに拾い上げられていない文献について、より新しいものを「たぐり寄せる」には、次の古い方法が役に立つ。すなわち、今、手にしている文献の著者名で検索し、同じ著者のより新しい文献を入手する方法である。
専門分化が進んだ現在のアカデミズムでは、ある研究者は同じテーマを研究し続けている可能性が高い。
したがって、同じ著者のより新しい文献には、より新しい知見とともに、より新しい参考文献が載っている可能性が高い。
著者名を手がかりに、時間をすすめ、そこから振り返って参考文献を拾い上げることは、より新しい文献を手に入れる古典的な方法である。
文献をたぐり寄せる技術/そのイモズルは「巨人の肩」につながっている 読書猿Classic: between / beyond readers

自宅でできるやり方で論文をさがす・あつめる・手に入れる 読書猿Classic: between / beyond readers

雑誌記事検索 Periodical Index
参照関係を明示することは、学術情報の外ではいつも行われる訳ではない。
しかし先ほど学術情報を探すところで触れた上流~下流の教訓は活かすことができる。
出版されている書籍のうち、書き下ろしのものは存外少ない。多くは雑誌その他にすでに発表されたものが書籍化である。書き下ろしの場合でも、著者は同種の書き物をすでに発表していることが多い。というのは、ある著者の書き下ろし作品を出版する企画が成り立つためには、その著者に該当分野ですでに何らかのものを発表してきた実績が必要であるからだ。やはり書籍化は遅れてやってくるのである。
時間的な遅れに加えて、雑誌記事のうち改めて書籍化されるのは(雑誌やその記事によるが全体としては)その一部でしかない。書籍は、文献情報のライフスパンから見れば下流に位置し、時間的には遅れ、多くは下流までたどり着かない。
すべての書籍は「中古品」である/図書館で本より雑誌を見るべき5つの理由 読書猿Classic: between / beyond readers

このことを調べものの観点から見れば、雑誌記事の情報は、書籍よりも新しく、また多様性も大きいということになる。つまり当たり外れは大きいが、書籍で得られない情報に出会える可能性がある。また雑誌記事は一般に書籍よりも短く、同じ時間当たりより多くのものに触れることができる。
いずれも調べものをする者からすれば長所か長所に転じる特徴である。
これは英語でだが、ビジネス雑誌から業界雑誌までの雑誌記事情報を収録するBusiness Periodicals Indexは、(a)まだ扱う書籍がないような新しいトピックについて、(b)ポピュラー雑誌に載るよりも専門的で詳しい情報が欲しいが、(c)学術論文を直接読むのは難しすぎるといった情報ニーズに対して、〈専門家が一般向けに書いた解説記事〉を探すのに有益なツールだった。
学術研究が行われているのは(普通に想像するよりはずっと広いのだがそれでも)この世の中で限られた領域に過ぎない。あるのかないのかわからない〈うわさ〉のような、通常の学術雑誌のデータベースには掲載されないような、世相・風俗・事件について調べる場合には、一般雑誌の記事や、後述する新聞記事が役に立つ。
まさにこうした目的のために、週刊誌、総合月刊誌、女性誌、スポーツ誌、芸能誌などの記事を収集/整理しているのが大宅壮一文庫である。
紙の本として『大宅壮一文庫雑誌記事索引総目録』が、データベースとしてWeb OYA-bunkoがある。
新聞記事検索 Newspaper Index
ネット上では新聞を馬鹿にする人も多いが、図書館では新聞は事典の一種である。
今では想像しにくいが、インターネットの普及以前には、書籍や論文に取り上げられていないような〈小さな〉事項また〈新しい〉事項を探す事典として使うことができるほとんど唯一のツールだった。
新聞は、百何十年間、ほとんど毎日データを追加し続けてきたデータベースであり、蓄積と検索のためのツールが早くから整備されている。
たとえば索引つきの縮刷版が長年出され、また多くの図書館で新聞記事から独自の切り抜きや記事索引づくりが行われ、またマイクロフィルム等で過去の紙面が蓄積されてきた。古い雑誌は図書館でも廃棄されることが少なくないが、古い新聞は何らかの形で残っていることが多い。
新聞記事をデータソースに、歴史的出来事についてまとめなおした『新聞集成(明治/大正/昭和編年史)』や最近の主要記事をまとめた『新聞ダイジェスト』などツールも多い。
日本では登場するのが遅く、すぐにデータベース時代が来てしまってあまり定着しなかったものに新聞記事索引がある。『毎日ニュース事典』が1973年から1980年 (収録対象年代は1972年〜1979年)、 『読売ニュース総覧』が1981年から1995年 (収録対象年代は1980年〜1994年)。それぞれ、毎日新聞、読売新聞の記事に対して短い解説・抄録つきの50音順索引である。
英語ではイギリスのTimes紙について、索引誌のタイトルはThe Annual Index→The Official Index→Index to the Time→Times Indexと変遷しているが1906年以来の記事について、別系統のPalmer's Index to Times Newspaperを併用すれば1790年以来の記事について検索できる。アメリカのNew York TImes紙についてはNew York TImes Indexが1913年以来の記事について記事索引を提供している。
新聞記事索引は50音順ないしアルファベット順であり、時間を隔てた同名の事項をまとめて見るのに適している。たとえば繰り返し報じられた大事件について、それぞれ日々の紙面にばらまかれたものをひとまとめになっている。何年もの間をあけて、同様の出来事が繰り返されているのを発見することもできる。
現在では新聞記事データベースを使うのが簡便かつ一般的だろう。一覧性は紙の冊子本に劣るものの、他の資料では望めないほど長い期間を対象に検索ができる。たとえば、
『聞蔵IIビジュアル』では1879年(創刊)から現在までの朝日新聞について、
『ヨミダス歴史館』では1874年(創刊)から現在までの読売新聞について、
『毎索(毎日新聞オンライン)』では1872年(創刊号)から現在までの毎日新聞について、それぞれ検索できる。
これらを使えば、たとえば、ある用語の使用頻度の時間的変遷を検索結果数から知ることなどもできる。
英語では、LexisNexisやProQuest(NewspaperDirectやFactiva.comやProQuest Newspapers)などのデータベースで提供される他に、大英図書館 TheBritish Libraryが300年分の新聞データを検索・購入可能な形で公開している(British Newspaper Archive)。
New York Timesは1851年以来の記事が検索できる。
そして、そうした本を見つけられなければ探しものは失敗したと思う。
では、そのテーマについての書物を所蔵しない図書館はもう何もできないのか?
否、否、三たび否。
あなたが知りたいことに一冊をささげた書物はなくても、図書館にはまだできることがある。
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・ビギナーのための図書館サバイバル・ガイド、他ではあまり書いてないけど大切なこと 読書猿Classic: between / beyond readers

・ネットでは逢えない書物に会いに行くー新入生におくるリアルワールドでの本の探し方 読書猿Classic: between / beyond readers

・辞書を引くこと、図書館を使うことは「読み書き」の一部である 読書猿Classic: between / beyond readers

一般向け百科事典 general encyclopedia
まず図書館には事典がある。
事典には一般向けの百科事典(英語でgeneral encyclopediaとよぶもの)と専門事典(英語でspecial encyclopedia)がある。
ブリタニカ百科事典や世界大百科事典(平凡社)や大日本百科全書(小学館)などが、よく知られた一般向けの百科事典である。
人によって様々なスタイルがあるが、一般向けの百科事典は探し物の際にまず最初に引くべきものである。
理由は、ほとんどあらゆる分野について、その道の専門家がそこそこの分量を使ってかなりまともな説明してくれているからである。
専門的な知識が必要らしいのだが、自分が知りたい事柄がいったいどの分野に該当するのかが分からないと、どの専門事典、どの専門書、どの専門家に当たればよいかがわからない。
しかし一般向けの百科事典はオールラウンダーである。どの分野かどの専門か考えなくても、とりあえず引くことができる。
複数冊からなる大部な専門事典が多くない日本語では、その手薄なところを一般向けの百科事典がカバーしているところがある。場合によっては専門の事典よりも充実した記述があったり、ほかの邦語文献では扱っていない項目が載っていることもある。いろんな文献を探し回ったがこれといった成果があがらなかったのが、ダメもとで百科事典を引いて解決することだって珍しくない。
また百科事典の記述は、一冊の書物と比べればずっと短い。これは本格的な探索を始める前の予備調査に合った特性である。後ほどもっと大部なもっと専門的な文献に当たるとしても、手短に概要を知っておくことは、理解の深さも速さも改善する。何より関連ワード(専門用語)や固有名詞(人物、文献名)など知っておくことは、探索をうまく運ぶための前提となる。
だからまず手始めに(過度の期待は持たずに)一般向けの百科事典を引くべきである。
◯百科事典の短所
一般向けの百科事典は、ある意味で公共図書館のミニチュアである。
専門図書館や専門事典とは違い、どちらもどんなニーズがあるかあらかじめ決め付けることができないから、限りあるスペースや予算の中で、できるだけ抜けたエリアが出ないよう努めている。
その結果、かなり広い分野をカバーすることになるのだが、一個人の特殊なニーズから見ると物足りないものになる。
図書館で言えば「いろんな本があるが(あるのに)、自分の読みたい本はない」、百科事典でいえば「さまざまな分野の項目があるが(あるのに)、自分が知りたいことが書いていない」とがっかりした体験がある人も少なくないだろう。
図書館も百科事典も、調べ物をクエストと考えれば、最初に立ち寄る街にすぎない。そこでは良くて最低限の装備と手がかりが手に入るだけだ。
そこでの「がっかり感」は、旅がまだはじまったばかりであることを教えている。
◯百科事典の必要
百科事典はかなり広い分野をカバーしている。
前に書いたことがあるが、百科事典はあなたが知りたいようなこと(たとえば先ごろ見知った最新の知識)は書いていない。むしろ、あなたが知っているべきことが書いてある。
一般向けの百科事典は特殊なトレーニングを積んでいなくても、基本的には誰でも引いて調べることができるものである。つまりそこに書いてある知識は、原則的には誰でもアクセス可能な知識であると見なすことができる。
したがって物を書く人は、百科事典に書いてあるようなことは前提にして、それ以上・それ以外のことを書くことに集中することができる。
百科事典に載っているのは、あなたが今実際には知っていなくても、知ることができる知識、すなわち《可能性としての知識》である。
これを読み手の立場に置きなおせば、百科事典に書いてあるようなことはすでに知っているか、でなければすぐに引くことができるか、いずれかでないと、まともな人が書いたまともな文献を読むことができない、ということでもある。
百科事典には何が書いてあるのか? 読書猿Classic: between / beyond readers

◯百科事典が力を発揮するのは
実用的な観点から、さらに一言付け加えると、辞典・事典が力を発揮するのは、あなたが知らない事柄を引くときではなく、あなたがすでに知っている(と思っている)事柄を調べる場面で、である。
知らない事項を辞書を調べて、運よくそれが載っていたとしよう。あなたはそれを読み、分からないという不愉快な状態を脱して安心する。しかし、これは知識を身につけるのには悪い状況である。あなたの精神はすでに臨戦態勢を解いており、不愉快は解消され、あなたは新しい事柄を身につける必要から既に脱している。
逆にすでに知っている(と思っている)事柄を調べたとしよう。相当な人でないかぎり、辞典・事典には、その事柄についてだけでも、あなたが知っていた以上の知識が登載されている。一部分はあなたが既に知っていたことだが、一部分は知らなかったことであり、また一部分は自分の知識とは異なることである。今、あなたは驚きと好奇心の中にある。世界は(ほんの一部分であれ)あなたが思っていたようではなかったのだ。今やあなたには学ぶべき必要があり動機付けがある。加えてあなたの中には、その事項について既に知っている知識がある。これは新しい知識を結わい付けるフックになる。これだけの好条件が揃って何も学ばない人はいない。
辞書をうまく使えない人は、わからない言葉だけを引いている 読書猿Classic: between / beyond readers

食わず嫌いの人へ→頭が冴え物知りになる事典の4つの習慣 読書猿Classic: between / beyond readers

かなり広い分野をカバーしている百科事典は、あなたが知りたい新奇な項目よりも、あなたがすでに知っている(と思っている)事柄をより多く登載している(これが人が「百科事典に知りたいことが載っていない」と思う理由のひとつである)。
たとえば自転車を知らない人はほとんどいないだろう。しかし自転車について百科事典に書いてあることをすべて知る人は少ない(知っている人はきっと自転車の専門家だろう)。
すでに知っている(と思っている)事柄については、人はわざわざ調べようとしない。たとえそれが調べものに関わっていても、である。
具体例を出した方が分かりやすいだろう。
イギリスの住宅政策の変遷を調べていて、背景知識として当然必要であるイギリス近現代の政治史についてほとんどまったく無知のまま悪戦苦闘していたことがある。何しろ普通選挙権の拡大がいつだったかも知らないほどだった。まったく言い訳だが、調べもののテーマを絞り込むこと(これはまともな調査には不可欠である)に努めていると、それとは逆方向の行為に時間も意識も割かなくなる。まずいことになったと気付いて、イギリス政治史の文献を集めだしたのだが、実は知るべき最低限度のことは百科事典の「イギリス」の項目の中の「政治」の項にほとんどすべて書いてあった。《可能性としての知識》としての常識的知識を提供する百科事典の役割からいって当たり前である。しかしその時は当たり前過ぎて盲点だった。
◯紙の事典かデータベースか
実は、最有名どころの一般向け百科事典はデータベース化されており、CDROMなり有料データベースでなり提供されている。現在の図書館では、これらを利用できるところが多い。
百科事典は大部であり、必要な事柄はあちこちに分散していることが多いから、何冊もの大型書籍を取り回すことになる。
さらに事典は必ず間違っているものだから(あれだけの分量のデータを人間が誤りなく扱えるとは考えられない)、実用には必ず複数の事典を引き比べないといけない(引き比べると有名人の生没年ですら複数の事典で一致しないことが分かるだろう)。そうなれば物理的な取り回しの苦労は倍増する。
電子化された百科事典なら、そうした物理的・肉体的努力が軽減される。
しかしデータベース化されているのは、わずか数種類の一般向け百科事典に過ぎない。専門事典の中ではわずかに『国史大辞典』等がジャパンナレッジで提供されているだけである。
専門事典(special encyclopedia)を使うには、今後も当分の間、紙の事典と付き合う必要がある。
専門事典 special encyclopedia
専門(用語)辞典は専門用語の定義を与えるが、専門(百科)事典はその分野の事項について概説する。
両者の区別は必ずしも明確ではなく、辞典dictonaryと名のついた実質的には事典encyclopediaであるものも少なくない。
たとえば『国史大辞典』は日本史についての代表的な百科事典である。Easton's Bible Dictionaryは聖書用語に関する百科事典であり語義のみの項目も多いものの、多くの見出し語に詳細な解説がなされている。『岩波数学辞典』は数学についての辞典であるが事典的側面も強く、各項目の末尾には参考文献が挙げられている。その英訳タイトルはEncyclopedic Dictionary of Mathematicsという。
専門事典は、一般向け百科事典より専門的な知識・情報を提供してくれるはずである。
しかし複数巻ものの大部な専門事典は買ってくれる相手が限られ出版企画として成立しにくい。
日本ではむしろ百科事典が専門事典的な作り方を部分的に取り入れていて、専門事典の不足を補っている。
たとえば『世界大百科事典』(平凡社)はエリア制という方式を採用し、分野ごとに専門家チームがあたり、チームリーダー(学会の重鎮があたる)が当該分野の項目を誰が書くかを割り振りし、リーダー自身は分野全体を扱う総括的な項目を執筆した。
英語圏では専門事典の数も多く、一般向け百科事典との間に分業が成り立っている。英語の一般向け百科事典の新しい版は、日本語の百科事典よりずっと平易な言葉で記述されている。これらは基本的にホームユースであり、専門知識を学ぶ学生は専門事典(special encyclopedia)を使うことが勧められる。
専門事典を使う場合、自分が知りたい事項がどの分野に属し、どの専門事典を引けばよいのかをどうやって知るかが最初の関門になる。専門事典の種類が増え、いずれも周辺領域をカバーするため担当分野は一部分ずつ重なり合うとなると、この困難は深まるが、英語では何百という専門事典を横断検索できるMaster Indexが存在する(情報ニーズあるところにツールあり)。ユーザーはまずMaster Indexを引き、自分が知りたい事項がどの専門事典のどこに載っているか(これはどの専門分野で扱われているか、ということでもある)を知る。多くの場合、自分の知りたい事項は、複数の専門事典に載っていることが分かる。
専門事典は専門知識の入口であることを目的にしており、さらに詳しく知りたい場合は次に何を読めばよいかを示すために各項目ごとに参考文献リストがついている。Master Indexを引くことで分かった複数の専門事典の複数の項目を巡り、参考文献リストを拾い集めると、複数の専門事典で共通して挙げられている文献が分かる。複数の専門事典の項目で何回出てきたかを数えて並べなおせば、知りたい事項についての基本文献が優先順位つきでリストアップされることになる。
レファレンス、この一冊/事典の横断検索ならFirst stop : the master index to subject encyclopedias 読書猿Classic: between / beyond readers

レファレンス、この一冊/複数の領域を渡り歩くならFirst Stopふたたび 読書猿Classic: between / beyond readers

残念ながら日本語には、このような専門事典の横断検索ツールは存在しない。
ただし人名や地名、作品名については、各種の百科事典・人名事典や作品集などを横断検索できる各分野の『人物レファレンス事典 』『作品レファレンス事典』がいくつか日外アソシエーツから出ている。同様に図鑑や統計資料を横断検索できる『動物レファレンス事典』(外に植物、昆虫など)、『統計図表レファレンス事典』などもある。
被引用索引 Citation Index
専門事典の信頼度は相対的に高く、当該分野についての事項をまとめていることで利用価値は高い。
しかし事典には致命的な欠点がある。
事典は遅い。そこに掲載された知識は古い。
事典は学術情報の流れでいえば最下流に位置する。知識が事典に流れ着くまでには、多くの時間が経過している。
学術情報のライフスパンを概略すれば、研究は学会での口頭や論文として発表されたのち、関連の研究が増え重要性を認められればトピックごとに近年の研究状況をまとめた展望論文に取り上げられ、さらに研究テーマとして発展すればテーマ別の編集本が編まれそこに登載される。そこから多くの研究が派生し学問の中での評価が定まると、教科書に取り入れられ、さらに事典の項目となる。これに辞書が企画されるまでの期間と編集に要する数年が加わる。このように書物は論文よりも、事典はさらにそれ以上に学術情報の流れの下流に位置する。加えて教科書のように改訂版が出ることは少なく、出たとしても数年というスパンではない。このために、先端からの遅れは十数年(時には数十年)を越えてしまう。
◯学術情報のライフスパン

より新しい情報を得るためには、この学術情報の流れを遡ることになる。
幸いにして教科書や専門事典は、それらを書くために参照した研究論文を、それぞれの記述ごとにいちいち明示している。
教科書や専門事典で参照された研究論文は、当然それらの教科書や専門事典がまとめられる以前に発表されたものである。では、その後、その論文を受けてどのように研究が発展したか、具体的にはどのような論文がその後発表されたかを知るためにはどうすればよいか?
Aという論文の後に発表された研究がもし、A論文の研究を発展させ、あるいは否定しているものならば、必ずやA論文を引用しているはずである。
これをA論文の方から見れば《引用されている》ことになるが、世の中にはこうした引用関係を汲み上げて論文ごとに被引用情報としてまとめなおしたCitation Indexというものが存在する。これを使えば、ある論文から見て未来の研究を見つけることができる。
未来をつくる索引-ガーフィールドとCitation Indexの挑戦 読書猿Classic: between / beyond readers

Citation Indexは、ユージン・ガーフィールドが設立したInstitute for Scientific Information (ISI)により1960年代以降紙ベースで提供されていたが、現在はWeb of Scienceで提供されている。大学図書館の契約データベースに入っていることが多い。
他にGoogle ScholarやPubMedでも被引用・被参照文献を見ることができる。
この方法にも欠点がある。個々の論文から被引用・被参照関係をいちいち抽出することは非常に手間がかかる作業であり、すべての文献について行うことは事実上不可能である。そのためCitation Indexは、より多く引用・参照されている文献を掲載している主要な学術誌に対象を限定している。言い換えれば対象雑誌を広げるコストと得られる便益が折り合うところで手を打っているといえる(引用されることの少ないマイナーな学術誌に対象を広げても被引用・被参照関係データは豊かにならない)。
しかし、このことを裏返していえば「主要な」ところから外れた文献を見つけるのには役に立たない。
たとえば日本語文献については対象にならない。日本語文献を対象としている論文データベース、たとえばCiNiiでも被引用・被参照関係を一応見ることができるが、現在のところ「見ることができる場合もある」程度に留まっている。
被引用・被参照関係がデータベースに拾い上げられていない文献について、より新しいものを「たぐり寄せる」には、次の古い方法が役に立つ。すなわち、今、手にしている文献の著者名で検索し、同じ著者のより新しい文献を入手する方法である。
専門分化が進んだ現在のアカデミズムでは、ある研究者は同じテーマを研究し続けている可能性が高い。
したがって、同じ著者のより新しい文献には、より新しい知見とともに、より新しい参考文献が載っている可能性が高い。
著者名を手がかりに、時間をすすめ、そこから振り返って参考文献を拾い上げることは、より新しい文献を手に入れる古典的な方法である。
文献をたぐり寄せる技術/そのイモズルは「巨人の肩」につながっている 読書猿Classic: between / beyond readers

自宅でできるやり方で論文をさがす・あつめる・手に入れる 読書猿Classic: between / beyond readers

雑誌記事検索 Periodical Index
参照関係を明示することは、学術情報の外ではいつも行われる訳ではない。
しかし先ほど学術情報を探すところで触れた上流~下流の教訓は活かすことができる。
出版されている書籍のうち、書き下ろしのものは存外少ない。多くは雑誌その他にすでに発表されたものが書籍化である。書き下ろしの場合でも、著者は同種の書き物をすでに発表していることが多い。というのは、ある著者の書き下ろし作品を出版する企画が成り立つためには、その著者に該当分野ですでに何らかのものを発表してきた実績が必要であるからだ。やはり書籍化は遅れてやってくるのである。
時間的な遅れに加えて、雑誌記事のうち改めて書籍化されるのは(雑誌やその記事によるが全体としては)その一部でしかない。書籍は、文献情報のライフスパンから見れば下流に位置し、時間的には遅れ、多くは下流までたどり着かない。
すべての書籍は「中古品」である/図書館で本より雑誌を見るべき5つの理由 読書猿Classic: between / beyond readers

このことを調べものの観点から見れば、雑誌記事の情報は、書籍よりも新しく、また多様性も大きいということになる。つまり当たり外れは大きいが、書籍で得られない情報に出会える可能性がある。また雑誌記事は一般に書籍よりも短く、同じ時間当たりより多くのものに触れることができる。
いずれも調べものをする者からすれば長所か長所に転じる特徴である。
これは英語でだが、ビジネス雑誌から業界雑誌までの雑誌記事情報を収録するBusiness Periodicals Indexは、(a)まだ扱う書籍がないような新しいトピックについて、(b)ポピュラー雑誌に載るよりも専門的で詳しい情報が欲しいが、(c)学術論文を直接読むのは難しすぎるといった情報ニーズに対して、〈専門家が一般向けに書いた解説記事〉を探すのに有益なツールだった。
学術研究が行われているのは(普通に想像するよりはずっと広いのだがそれでも)この世の中で限られた領域に過ぎない。あるのかないのかわからない〈うわさ〉のような、通常の学術雑誌のデータベースには掲載されないような、世相・風俗・事件について調べる場合には、一般雑誌の記事や、後述する新聞記事が役に立つ。
まさにこうした目的のために、週刊誌、総合月刊誌、女性誌、スポーツ誌、芸能誌などの記事を収集/整理しているのが大宅壮一文庫である。
紙の本として『大宅壮一文庫雑誌記事索引総目録』が、データベースとしてWeb OYA-bunkoがある。
新聞記事検索 Newspaper Index
ネット上では新聞を馬鹿にする人も多いが、図書館では新聞は事典の一種である。
今では想像しにくいが、インターネットの普及以前には、書籍や論文に取り上げられていないような〈小さな〉事項また〈新しい〉事項を探す事典として使うことができるほとんど唯一のツールだった。
新聞は、百何十年間、ほとんど毎日データを追加し続けてきたデータベースであり、蓄積と検索のためのツールが早くから整備されている。
たとえば索引つきの縮刷版が長年出され、また多くの図書館で新聞記事から独自の切り抜きや記事索引づくりが行われ、またマイクロフィルム等で過去の紙面が蓄積されてきた。古い雑誌は図書館でも廃棄されることが少なくないが、古い新聞は何らかの形で残っていることが多い。
新聞記事をデータソースに、歴史的出来事についてまとめなおした『新聞集成(明治/大正/昭和編年史)』や最近の主要記事をまとめた『新聞ダイジェスト』などツールも多い。
日本では登場するのが遅く、すぐにデータベース時代が来てしまってあまり定着しなかったものに新聞記事索引がある。『毎日ニュース事典』が1973年から1980年 (収録対象年代は1972年〜1979年)、 『読売ニュース総覧』が1981年から1995年 (収録対象年代は1980年〜1994年)。それぞれ、毎日新聞、読売新聞の記事に対して短い解説・抄録つきの50音順索引である。
英語ではイギリスのTimes紙について、索引誌のタイトルはThe Annual Index→The Official Index→Index to the Time→Times Indexと変遷しているが1906年以来の記事について、別系統のPalmer's Index to Times Newspaperを併用すれば1790年以来の記事について検索できる。アメリカのNew York TImes紙についてはNew York TImes Indexが1913年以来の記事について記事索引を提供している。
新聞記事索引は50音順ないしアルファベット順であり、時間を隔てた同名の事項をまとめて見るのに適している。たとえば繰り返し報じられた大事件について、それぞれ日々の紙面にばらまかれたものをひとまとめになっている。何年もの間をあけて、同様の出来事が繰り返されているのを発見することもできる。
現在では新聞記事データベースを使うのが簡便かつ一般的だろう。一覧性は紙の冊子本に劣るものの、他の資料では望めないほど長い期間を対象に検索ができる。たとえば、
『聞蔵IIビジュアル』では1879年(創刊)から現在までの朝日新聞について、
『ヨミダス歴史館』では1874年(創刊)から現在までの読売新聞について、
『毎索(毎日新聞オンライン)』では1872年(創刊号)から現在までの毎日新聞について、それぞれ検索できる。
これらを使えば、たとえば、ある用語の使用頻度の時間的変遷を検索結果数から知ることなどもできる。
英語では、LexisNexisやProQuest(NewspaperDirectやFactiva.comやProQuest Newspapers)などのデータベースで提供される他に、大英図書館 TheBritish Libraryが300年分の新聞データを検索・購入可能な形で公開している(British Newspaper Archive)。
New York Timesは1851年以来の記事が検索できる。
2014.02.01
必読文献が浮かび上がる→引用マトリクスで複数の文献の関係と分布を一望化する
(忙しい人のための要約)
引用マトリクスの作り方
1.表の上端に集めた論文名等を横方向にコピペ
2.集めた論文から参考文献リストをまとめて縦方向にコピペ
3.他の文献を参照している箇所を拾い出して表を埋める
4.言及が多い順に被引用文献(行)を並び変える

何も知らない分野について、いや自分の知りたいことが何の分野の事項なのか分からないことについて、基本文献を探したいとしよう。
独学者にとってはかなり不利な(しかしよくある)状況にあっても、英語の文献を探す場合には、検索エンジンやデータベース以前から、紙のツールと標準的な手順が存在する。
(1)専門事典(Special Encyclopedia)の横断検索ツールを引く(どの辞書のどこに載っているかが分かる)
レファレンス、この一冊/事典の横断検索ならFirst stop : the master index to subject encyclopedias 読書猿Classic: between / beyond readers

レファレンス、この一冊/複数の領域を渡り歩くならFirst Stopふたたび 読書猿Classic: between / beyond readers

(2)各事典の該当項目から参考文献リストを拾い出す
(3)何種類の辞書に登場したかで参考文献をソート(登場回数が多いほど重要な文献)
日本語にはこのレベルの横断検索ツールは存在しないが、複数の参考文献リストが得られるなら、ソースを事典に限る必要はない。
学術論文は、先行する文献への参照を明記するルールに則って書かれるから、もちろん利用することができる。
辞書も教科書もまだない新しい分野やマイナー分野では、論文をソースにするのがむしろ普通であり合理的である。
もう一工夫して、文献の間の参照関係をただ数え上げるだけでなく、参照の内容をも拾い上げるならば(ある文献の位置づけなどのコンテクストを知るのに必要な情報が含まれることが多い)、グラフ(ネットワーク図)よりもマトリクスで整理する方がいい。

今回紹介する引用マトリクス(Quotation Matrix)は、マトリクスによる文献整理の方法を参照・引用関係に適用したものである。
以前に紹介したコンテンツ・マトリクスが複数の文献の《中身》を一望化(一目で見えるように)するものだとすれば、引用マトリクスは複数の文献の《間/関係》を一望化するものだと言える。
両者は図と地(Figur und Grund)あるいはコンテンツとコンテクストの関係であり、複数の文献を取り結びながら読む〈面の読み〉において相補的な役割を担う。
(関連記事)
・複数の文献を一望化し横断的読みを実装するコンテンツ・マトリクスという方法 読書猿Classic: between / beyond readers

・集めた文献をどう整理すべきか?→知のフロント(前線)を浮かび上がらせるレビュー・マトリクスという方法 読書猿Classic: between / beyond readers

1.いくつかの文献を入手する
2.文献たちから参考文献リストを集める
論文の末尾には、その論文で引用・参照した他の文献が列挙されている。
この参考文献のリストを、自分が集めた論文のそれぞれから集めてくる。
これをひとつのファイルにまとめてソート(昇順で並べ替え)すると以下のようになる。
こうして同じ文献同士がくっついて並ぶので、どの文献がより多くの論文から参照されているかは一目瞭然である。
参考文献を書く方式は複数あるので、同じ文献でも論文によって書き表し方が異なる場合もある。
大きく分けると
・著者名+発行年+題名(+このあと論文なら掲載誌名と掲載号やページ数、書籍なら発行所などの情報が続く)
・著者名+題名(+このあと論文なら載誌名と掲載号、著作なら発行所などの情報が続く。発行年は掲載号の含まれるか、書籍の場合は最後に回されたりする)
書き方が混在していると、ソートをかけて並べ替えた時、同じ文献なのに隣同士に並ばない。
(いずれの場合も著者名が先頭なので、それほど離れ離れになるわけではないが)。
3.引用マトリクスをつくる
引用マトリクスと、あつめた文献のそれぞれが、(a)他のどの文献を参照して(b)どんなことを言っているかを拾い集め、それを1つのマトリクスにまとめたものである。
引用マトリクスは文献の間の参照関係をその内容まで含めて一望するためのツールである。
まず外枠を入力し、ひろあげた情報でマス目を埋めて、最後にソートをかけることから、表計算ソフトの上で作成・更新することを想定している。
(1)表の上端に集めた論文名等をコピペ

表の上端には、集めた論文を並べる(上図のオレンジの囲み部分)。
例では著者名、発行年、題名を入力している。
こちらが引用する文献サイドとなる。
入力段階では、入手できた順に左から右へ並べている。マトリクスが埋まってきてから必要なら並び替える。
被引用文献に並んだ文献も入手できた段階で、表の上端の引用する文献サイドに並べる。参照文献リストについても拾って追加していく。
(2)表の左端に合わせた参考文献リストをコピペ

集めた論文から拾い集めた文献リストをひとつにまとめ、著者名+発行年で並び替え(ソートし)、重複は除いたものを表の左端に縦向きに並べる(上図のブルーの囲み部分)。
こちらが被引用文献サイドとなる。
ここは著者名+発行年の順でソートしておきたい。
理由は、ハーバード方式と相性が良いからだ。
ハーバード方式は、それまで本文中や各ページの脚注に散在させていた参考文献の書誌を論文末尾にまとめて列挙し、本文で言及する箇所では〈著者の姓と発行年〉によって参照文献を指示する方式である。
引用マトリクスでは、ある文献が、(a)他のどの文献を参照して(b)どんなことを言っているか、を拾い集めるが、上の例のように、ハーバード方式では、本文を見るだけでどの文献を参照しているかが分かるので、(a)(b)両方の情報が一度に得られる。
あとで入手できた論文が増えた場合は、追加で拾い上げた参考文献を被引用文献サイドの一番下以降に追加して、再度ソートをかけて、重複したものは新しく加わった方を抜いておく。
(3)他の文献を参照している箇所を拾い出す
集めた論文それぞれを読み、本文及び注釈から他の文献を参照している箇所をみつけ、言及している内容を引用マトリクスの該当箇所へコピペしていく。
どこが該当箇所であるかは、図のとおり。

つまり、引用する側の文献A(図のオレンジ部分)と引用される側の文献B(図のブルー部分)が交わるマス目が、文献Aが文献Bを引用・参照して言及している内容を入力する該当箇所である。
作業的には、入手した論文の一つを読みながら、その文献が対応する縦列(図のオレンジ部分)を埋めていき、1つの論文が終われば、次の論文に進み対応する別の縦列を埋めることの繰り返しになる。
こうして入手できた論文について(3)の作業をやり終えると引用(クォーテーション)マトリクスができあがる。
(4)言及が多い順に被引用文献をソートする
引用マトリクス埋まったマス目は、表上端に並んだ引用側文献から表左端に並んだ被引用文献への参照関係があることを示しており、マス目の内容は参照の内容(例えば引用文献が被引用文献をどのように要約し、どのように評価しているか等)が書かれている。
では、埋まったマス目の数を数えて(表計算ソフトのCOUNTA関数などが使える)、数の多い順に被引用文献(各行)をソートしよう。
これによって、より多く参照された文献がマトリクスの上部に浮かび上がってくる。
こんな風に。

入手できた論文が少ないと、被引用数についてあまり差がつかないこともある(最大被引用数=集めた論文数だから)。
その場合は言及量(LENB関数が使える)や言及内容によって被引用文献(各行)を並べ替える。
(5)引用している側の文献を並び替える
引用している側の文献(各列)についても、埋まったマス目の数などで(多いほど左へ)並び変えることもできる。
引用・参照する文献の多さは、論文の質や重要度と直接関連はないが、論文の種類(たとえば展望論文は多くの論文を参照する)を示唆しているかもしれない。
しかし機械的に並べ替えるよりも、人の手で分類・並べ替えした方が得るものが大きいだろう。
例えば、引用している側の文献(各列)を発行年順に並べ替えた時、年代によって参照される文献の移り変わりがあることや、逆に時代を越えて参照され続ける文献の存在が浮かんでくる場合がある。つまり、ある年代まで参照・引用されていた文献がある時以降参照・引用されなくなっていることや、どの年代の文献からも参照・引用されていることが引用マトリクスの上に現れる。
同様に、著者やグループ別あるいは分野別に引用している側の文献を並べれば、特定の著者やグループ、特定の分野の研究だけが参照・引用する文献、また広く分野を超えて参照・引用される文献が浮かび上がる。

4.引用マトリクスの読み方・使い方
引用マトリクスは、文献の間の参照関係をその内容まで含めて一望するためのツールである。
引用マトリクスからは、文献を孤立させ/単独で読んでいたのでは分からない文献間の関係が浮かび上がる。
(1)文献の評価を知る
左端部からある行(被引用文献)を選び、マトリクスを横に読んでいくと、その被引用文献を参照して複数の論文がどんなことを言っているかが比較できる。
複数の論文が同様のことを言っているなら、それはその被引用文献について共有された見解なり評価を示している。
複数の論文が食い違ったことを述べているなら、その被引用文献についての見解なり評価は論者によって別れていることが分かる。
(2)基本文献を知る
言及数で並び変えたことで、よく引用・参照される文献ほど引用マトリクスの上部に集まっている。
加えて引用マトリクスでは、複数の文献にどのように言及されているかをまとめて読むことができる。
複数の文献から引用・参照され、その上、基本概念やアプローチに関して言及されている文献は、そのテーマに関して必ず触れるべき基本文献であると考えてよい。
(3)研究・文献の分布を知る
先にふれたように引用マトリクスの上にいくつかのグループを発見できる場合もある。
たとえばグループごとに必ず引用・参照する基本文献が異なる場合があるかもしれない。それらは異なる学派やディシプリンに基づく研究集団の存在(その間の隔たり)を示しているかもしれない。
(サンプルの引用マトリクス作成につかった文献)
野中 亮.(2003).デュルケームの社会学方法論における象徴主義の問題.大阪樟蔭女子大学人間科学研究紀要.2..161-175
野中 亮.(2002).「社会形態学」から「儀礼論」へ : デュルケーム社会理論の変遷.大阪樟蔭女子大学人間科学研究紀要.1..195-209
小川 伸彦.(1994).<論文>デュルケームの儀礼論への一視角 : 二つの規範と「社会」の実在性.京都社会学年報 : KJS.1..31-48
樫尾 直樹.(1991).儀礼類型論と供犠の優越性 : デュルケム宗教社会学の理論的可能性(1).東京大学宗教学年報.8..21-35
引用マトリクスの作り方
1.表の上端に集めた論文名等を横方向にコピペ
2.集めた論文から参考文献リストをまとめて縦方向にコピペ
3.他の文献を参照している箇所を拾い出して表を埋める
4.言及が多い順に被引用文献(行)を並び変える

何も知らない分野について、いや自分の知りたいことが何の分野の事項なのか分からないことについて、基本文献を探したいとしよう。
独学者にとってはかなり不利な(しかしよくある)状況にあっても、英語の文献を探す場合には、検索エンジンやデータベース以前から、紙のツールと標準的な手順が存在する。
(1)専門事典(Special Encyclopedia)の横断検索ツールを引く(どの辞書のどこに載っているかが分かる)
レファレンス、この一冊/事典の横断検索ならFirst stop : the master index to subject encyclopedias 読書猿Classic: between / beyond readers

レファレンス、この一冊/複数の領域を渡り歩くならFirst Stopふたたび 読書猿Classic: between / beyond readers

(2)各事典の該当項目から参考文献リストを拾い出す
(3)何種類の辞書に登場したかで参考文献をソート(登場回数が多いほど重要な文献)
日本語にはこのレベルの横断検索ツールは存在しないが、複数の参考文献リストが得られるなら、ソースを事典に限る必要はない。
学術論文は、先行する文献への参照を明記するルールに則って書かれるから、もちろん利用することができる。
辞書も教科書もまだない新しい分野やマイナー分野では、論文をソースにするのがむしろ普通であり合理的である。
もう一工夫して、文献の間の参照関係をただ数え上げるだけでなく、参照の内容をも拾い上げるならば(ある文献の位置づけなどのコンテクストを知るのに必要な情報が含まれることが多い)、グラフ(ネットワーク図)よりもマトリクスで整理する方がいい。

今回紹介する引用マトリクス(Quotation Matrix)は、マトリクスによる文献整理の方法を参照・引用関係に適用したものである。
以前に紹介したコンテンツ・マトリクスが複数の文献の《中身》を一望化(一目で見えるように)するものだとすれば、引用マトリクスは複数の文献の《間/関係》を一望化するものだと言える。
両者は図と地(Figur und Grund)あるいはコンテンツとコンテクストの関係であり、複数の文献を取り結びながら読む〈面の読み〉において相補的な役割を担う。
(関連記事)
・複数の文献を一望化し横断的読みを実装するコンテンツ・マトリクスという方法 読書猿Classic: between / beyond readers

・集めた文献をどう整理すべきか?→知のフロント(前線)を浮かび上がらせるレビュー・マトリクスという方法 読書猿Classic: between / beyond readers

1.いくつかの文献を入手する
2.文献たちから参考文献リストを集める
論文の末尾には、その論文で引用・参照した他の文献が列挙されている。
この参考文献のリストを、自分が集めた論文のそれぞれから集めてくる。
(文献1から拾った参考文献リスト) ・秋山豊 (2006)『漱石という生き方』トランスビュー。 ・石原千秋 (2010)『漱石はどう読まれてきたか』新潮選書。 ・江藤淳 (1970)『漱石とその時代 第1・2部』新潮選書。 (文献2から拾った参考文献リスト) ・江藤淳 (1970)『漱石とその時代 第1・2部』新潮選書。 ・長尾剛 (1993)『漱石ゴシップ』文春ネスコ。 ・夏目鏡子 (1966) 『漱石の思い出』角川文庫。 (文献3から拾った参考文献リスト) ・石原千秋 (2010)『漱石はどう読まれてきたか』新潮選書。 ・江藤淳 (1970)『漱石とその時代 第1・2部』新潮選書。 ・長尾剛 (1993)『漱石ゴシップ』文春ネスコ。 ・福田清人 (1966)『夏目漱石 人と作品』清水書院。 |
これをひとつのファイルにまとめてソート(昇順で並べ替え)すると以下のようになる。
・夏目鏡子 (1966) 『漱石の思い出』角川文庫。 ・江藤淳 (1970)『漱石とその時代 第1・2部』新潮選書。 ・江藤淳 (1970)『漱石とその時代 第1・2部』新潮選書。 ・江藤淳 (1970)『漱石とその時代 第1・2部』新潮選書。 ・秋山豊 (2006)『漱石という生き方』トランスビュー。 ・石原千秋 (2010)『漱石はどう読まれてきたか』新潮選書。 ・石原千秋 (2010)『漱石はどう読まれてきたか』新潮選書。 ・長尾剛 (1993)『漱石ゴシップ』文春ネスコ。 ・長尾剛 (1993)『漱石ゴシップ』文春ネスコ。 ・福田清人 (1966)『夏目漱石 人と作品』清水書院。 |
こうして同じ文献同士がくっついて並ぶので、どの文献がより多くの論文から参照されているかは一目瞭然である。
参考文献を書く方式は複数あるので、同じ文献でも論文によって書き表し方が異なる場合もある。
大きく分けると
・著者名+発行年+題名(+このあと論文なら掲載誌名と掲載号やページ数、書籍なら発行所などの情報が続く)
(例) ・Smith, John Maynard. (1998). The origin of altruism. Nature 393: 639-40. ・Smith, J. (2005). Harvard Referencing, Wherever, Florida:Wikimedia Foundation. |
・著者名+題名(+このあと論文なら載誌名と掲載号、著作なら発行所などの情報が続く。発行年は掲載号の含まれるか、書籍の場合は最後に回されたりする)
(例) ・Smith, John Maynard., "The origin of altruism". Nature. 1993 Jun 3;363: 639-40. ・Smith, J., Harvard Referencing, Wherever, Florida:Wikimedia Foundation; 1998. |
書き方が混在していると、ソートをかけて並べ替えた時、同じ文献なのに隣同士に並ばない。
(いずれの場合も著者名が先頭なので、それほど離れ離れになるわけではないが)。
3.引用マトリクスをつくる
引用マトリクスと、あつめた文献のそれぞれが、(a)他のどの文献を参照して(b)どんなことを言っているかを拾い集め、それを1つのマトリクスにまとめたものである。
引用マトリクスは文献の間の参照関係をその内容まで含めて一望するためのツールである。
まず外枠を入力し、ひろあげた情報でマス目を埋めて、最後にソートをかけることから、表計算ソフトの上で作成・更新することを想定している。
(1)表の上端に集めた論文名等をコピペ

表の上端には、集めた論文を並べる(上図のオレンジの囲み部分)。
例では著者名、発行年、題名を入力している。
こちらが引用する文献サイドとなる。
入力段階では、入手できた順に左から右へ並べている。マトリクスが埋まってきてから必要なら並び替える。
被引用文献に並んだ文献も入手できた段階で、表の上端の引用する文献サイドに並べる。参照文献リストについても拾って追加していく。
(2)表の左端に合わせた参考文献リストをコピペ

集めた論文から拾い集めた文献リストをひとつにまとめ、著者名+発行年で並び替え(ソートし)、重複は除いたものを表の左端に縦向きに並べる(上図のブルーの囲み部分)。
こちらが被引用文献サイドとなる。
ここは著者名+発行年の順でソートしておきたい。
理由は、ハーバード方式と相性が良いからだ。
ハーバード方式は、それまで本文中や各ページの脚注に散在させていた参考文献の書誌を論文末尾にまとめて列挙し、本文で言及する箇所では〈著者の姓と発行年〉によって参照文献を指示する方式である。
ハーバード方式の例 (本文) ……ヨーロッパでもそうだが、パートタイマーの増加は、経済のサービス化や女性の典型的な職業が事務職になってからみられる現象である(Smith,1979)。…… (文献リスト) …… ・Roistacher, E. A., & Young, J. S. (1980). Working women and city structure: Implications of the subtle revolution. Signs, 5(3), S220-S225. ・Smith, R. E. (1979). Subtle Revolution, The: Women at Work., Washington D.C.:The Urban Institute. ・Sorensen, G., Pirie, P., Folsom, A., Luepker, R., Jacobs, D., & Gillum, R. (1985). Sex differences in the relationship between work and health: the Minnesota Heart Survey. Journal of Health and Social Behavior, 379-394. …… |
引用マトリクスでは、ある文献が、(a)他のどの文献を参照して(b)どんなことを言っているか、を拾い集めるが、上の例のように、ハーバード方式では、本文を見るだけでどの文献を参照しているかが分かるので、(a)(b)両方の情報が一度に得られる。
あとで入手できた論文が増えた場合は、追加で拾い上げた参考文献を被引用文献サイドの一番下以降に追加して、再度ソートをかけて、重複したものは新しく加わった方を抜いておく。
(3)他の文献を参照している箇所を拾い出す
集めた論文それぞれを読み、本文及び注釈から他の文献を参照している箇所をみつけ、言及している内容を引用マトリクスの該当箇所へコピペしていく。
どこが該当箇所であるかは、図のとおり。

つまり、引用する側の文献A(図のオレンジ部分)と引用される側の文献B(図のブルー部分)が交わるマス目が、文献Aが文献Bを引用・参照して言及している内容を入力する該当箇所である。
作業的には、入手した論文の一つを読みながら、その文献が対応する縦列(図のオレンジ部分)を埋めていき、1つの論文が終われば、次の論文に進み対応する別の縦列を埋めることの繰り返しになる。
こうして入手できた論文について(3)の作業をやり終えると引用(クォーテーション)マトリクスができあがる。
(作業上の諸注意) 前述したように、本文中に参照文献への指示(著者の姓と発行年)を埋め込んだハーバード方式を採用している論文だと、この拾い上げ作業はやりやすい。本文を見るだけで、どの被引用文献なのかが分かり、埋めるべきマス目がどれか分かるからだ。 これに対して、自然科学系の論文で多く用いられるバンクーバー方式(参考文献と本文を引用順の文献番号で関連付け、参考文献の列挙を引用順に行う方式)では、本文と末尾の参考文献欄を行ったり来たりしないと、(a)他のどの文献を参照して(b)どんなことを言っているか、という2つの情報がそろわない。 手っ取り早くこの事態を解消するにはエディタの検索・置き換え機能などを使い、本文中の文献番号を末尾に番号付きで列挙された参考文献の書誌情報で、置き換えることである。 しかしバンクーバー方式を採用する論文が他の文献を参照する数は普通多くないから、前処理をしないで済ませても実際はそれほど手間はかからない。
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(4)言及が多い順に被引用文献をソートする
引用マトリクス埋まったマス目は、表上端に並んだ引用側文献から表左端に並んだ被引用文献への参照関係があることを示しており、マス目の内容は参照の内容(例えば引用文献が被引用文献をどのように要約し、どのように評価しているか等)が書かれている。
では、埋まったマス目の数を数えて(表計算ソフトのCOUNTA関数などが使える)、数の多い順に被引用文献(各行)をソートしよう。
これによって、より多く参照された文献がマトリクスの上部に浮かび上がってくる。
こんな風に。

入手できた論文が少ないと、被引用数についてあまり差がつかないこともある(最大被引用数=集めた論文数だから)。
その場合は言及量(LENB関数が使える)や言及内容によって被引用文献(各行)を並べ替える。
(5)引用している側の文献を並び替える
引用している側の文献(各列)についても、埋まったマス目の数などで(多いほど左へ)並び変えることもできる。
引用・参照する文献の多さは、論文の質や重要度と直接関連はないが、論文の種類(たとえば展望論文は多くの論文を参照する)を示唆しているかもしれない。
しかし機械的に並べ替えるよりも、人の手で分類・並べ替えした方が得るものが大きいだろう。
例えば、引用している側の文献(各列)を発行年順に並べ替えた時、年代によって参照される文献の移り変わりがあることや、逆に時代を越えて参照され続ける文献の存在が浮かんでくる場合がある。つまり、ある年代まで参照・引用されていた文献がある時以降参照・引用されなくなっていることや、どの年代の文献からも参照・引用されていることが引用マトリクスの上に現れる。
同様に、著者やグループ別あるいは分野別に引用している側の文献を並べれば、特定の著者やグループ、特定の分野の研究だけが参照・引用する文献、また広く分野を超えて参照・引用される文献が浮かび上がる。

4.引用マトリクスの読み方・使い方
引用マトリクスは、文献の間の参照関係をその内容まで含めて一望するためのツールである。
引用マトリクスからは、文献を孤立させ/単独で読んでいたのでは分からない文献間の関係が浮かび上がる。
(1)文献の評価を知る
左端部からある行(被引用文献)を選び、マトリクスを横に読んでいくと、その被引用文献を参照して複数の論文がどんなことを言っているかが比較できる。
複数の論文が同様のことを言っているなら、それはその被引用文献について共有された見解なり評価を示している。
複数の論文が食い違ったことを述べているなら、その被引用文献についての見解なり評価は論者によって別れていることが分かる。
(2)基本文献を知る
言及数で並び変えたことで、よく引用・参照される文献ほど引用マトリクスの上部に集まっている。
加えて引用マトリクスでは、複数の文献にどのように言及されているかをまとめて読むことができる。
複数の文献から引用・参照され、その上、基本概念やアプローチに関して言及されている文献は、そのテーマに関して必ず触れるべき基本文献であると考えてよい。
(3)研究・文献の分布を知る
先にふれたように引用マトリクスの上にいくつかのグループを発見できる場合もある。
たとえばグループごとに必ず引用・参照する基本文献が異なる場合があるかもしれない。それらは異なる学派やディシプリンに基づく研究集団の存在(その間の隔たり)を示しているかもしれない。
(サンプルの引用マトリクス作成につかった文献)
野中 亮.(2003).デュルケームの社会学方法論における象徴主義の問題.大阪樟蔭女子大学人間科学研究紀要.2..161-175
野中 亮.(2002).「社会形態学」から「儀礼論」へ : デュルケーム社会理論の変遷.大阪樟蔭女子大学人間科学研究紀要.1..195-209
小川 伸彦.(1994).<論文>デュルケームの儀礼論への一視角 : 二つの規範と「社会」の実在性.京都社会学年報 : KJS.1..31-48
樫尾 直樹.(1991).儀礼類型論と供犠の優越性 : デュルケム宗教社会学の理論的可能性(1).東京大学宗教学年報.8..21-35
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