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2014.04.25
書物を書き写すということー図書館となら、できること
(夕刻、バス停)
少女:あ、パパ。今日は早いんだね。
父親:おまえはいつもこんな時間なのか?
少女:うん、帰りは大抵、今のバスかな。
父親:部活もないのに遅くないか?
少女:委員会もあるし、何もない日は図書館に寄ってくるから。
父親:県立の? 学校からだと方向が逆じゃないか。
少女:大丈夫だよ。友達といっしょだし、今日もバス停まで送ってもらったし。
父親:どんなの子なんだ、その子?
少女:前に言ったことなかった? 入学してすぐ、いっしょにクラス委員やった子。
父親:そういえば、よく怒ってたな。委員の仕事を全然しない子と組まされたって。
少女:そうそう。最初は先生が指名したんだけど、ほんと適材適所ってあるんだと思った。
父親:確か、新入生代表で挨拶した子だろ。そういう子がいるなら指名してしまうだろ。
少女:あれって入学試験の成績で決めたらしいんだけど、次の年から人物本位で選ぶことになったって。噂だけど。
父親:聞いてると心配になってきた。どういう子なんだ?
少女:本の虫。いつも何か読んでる。それを他の何より優先してる。多分、学校生活を時間の無駄だと思ってるんじゃないかな。図書室登校とかできたら絶対選びそう。
父親:それは駄目だろう。
少女:放っておいたら高校も行かなさそうだし。
父親:おまえのところ中高一貫だろ。
少女:放っておかないけどね。
父親:……本の虫ってどんな本を読んでるんだ?
少女:いろいろ何でも。あ、最近、ちょっとずつ読んでるのは……
父親:なんだ?
少女:日本の類書かな。読むというより、読み終えた項目の見出し語を書き抜いてる。
父親:なんで? というか類書って何?
少女:いろんな書物から集めたものを項目ごと整理した中国や日本古来の百科事典のこと。表向きの理由は、見出しだけでも電子データにしとくとパソコンやスマホで検索できるから、らしいけど。写しながらだと注意して読むし、分からないことは調べるから、内容も結構覚えちゃうみたい。
父親:気が遠くなる話だな。
少女:私もそう言ったんだけど、そうでもないって言うの。「全20巻5万項目ある『広文庫』も、目次だけだとあわせて640ページくらいしかない。1日見開き2ページ写せば1年足らずで写し終える。これくらいなら能力的にも時間的にもできない人は少ないと思う」だって。
父親:写すなんて普通思いつかないし、思いついてもやろうと思わない。辞書なんて必要なところだけを引いて見るものだし、全部で何ページあるとか考えたことなかったよ。
少女:そうだよね。前は何故こんなに何でも知ってるんだろうと思ったけど、この話を聞いたらなんか納得した。
父親:最近は、って言ったけど、前からそんなことやってるのか?
少女:いつからかは知らないけど、最初に写したのは子供向けの漢字辞典だって。見出し字だけだと常用漢字だと2000字くらいだから原稿用紙だと5枚分でしょ。
父親:そう聞くと「確かにそれくらいなら」と思わなくもないけど。だけど1回書いたくらいじゃ覚えられないだろう?
少女:それでも一回最後まで通すと随分違うんだって。確かこの本の中で見たことある、と思えるだけでも。その後、子供向けの事典とかの項目を書き抜きして、普通の百科事典に取り掛かる頃には本を読むがずいぶん楽になったって言ってた。
父親:百科事典なんて、それこそ何万項目もあるんじゃないのか? 書き写すのは項目だけでも、内容は読むんだろ?
少女:えーと、平凡社の世界大百科事典って全部で9万項目、7000万文字くらいなんだって。新聞(朝刊)だと1日約12万字だから……584日分になるのかな。2年かからない計算になるらしいんだけど。
父親:新聞は隅から隅まで読んだりしないからなあ。
少女:毎日100項目ずつ書き抜いて3年かかったみたい。項目名だけだと1項目数文字でしょ。書き写す分量だけいえば毎日数百文字だから原稿用紙2、3枚くらい。
父親:そういうと大したことなさそうだけど。
少女:これくらいだとそんなに時間はかからないから、図書館に来ると、まず辞書を写す日課を済ませてしまってから、他のことをやるんだって。時間のある日もない日も疲れている日もいない日も。
(日曜、図書館)
少女:……という話をしてたんだけどね。
少年:なにそれ。
少女:なんかまずかった?
少年:……いや、別にいいけど。
少女:他にも書き写したの、あったよね。
少年:漢字辞典のあとは、岩波文庫の目録に出てくるタイトルだけ写した。これは1800冊分くらい。その次は、受験参考書型の国語辞典(MD現代文・小論文)の見出し語で4000語。このあたりで本を読むのがだいぶ楽になった。
少女:意外にスモールステップ。
少年:その次がほるぷ出版の『世界伝記大事典』で人物名(5500名分)だけ写した。次は平凡社の『世界名著大事典』で紹介されてる書物のタイトルだけ11000万冊分。その次が子ども向け百科事典(『百科事典ポプラディア 』)で、これも項目名だけ2万5千項目。その後、平凡社の『世界大百科事典』で9万項目。ここまでで小学校終わった。
少女:一回書くだけで覚えられるのか、っていうんだけど。
少年:無理。というか目的はそっちじゃない。
少女:電子化されてない事典の項目を抜き出したい?
少年:それができたら、事典の横断検索のための総索引(マスターインデクス)が自作できるから。でも、それより……。
少女:なあに?
少年:どちらかというと知らない言葉や事項に強制的に出会うためだと思う。自分の知識の抜けているところを知るというか。知識をインプットするのに、ひとつの事典を順番にヨコに読んでいくのは実は効率よくない。隣の項目とまるで関係ないことが多いし。事典が役に立つのは、「これがわからない」とか「○○について知りたい」っていうニーズを、引く人が背景というか文脈として持ち込むから。背景・文脈と関連付けられないと、断片的な情報でしかなくて記憶にも残りにくいし。
少女:ヨコに読むって、タテに読むのもあるの?
少年:タテ読みは、ひとつの項目について、いろんな事典や他の文献を貫通的にというか、まとめて読むこと。調べたものは、短い順に1つのファイルにまとめて、読むときも短いものから読む。短いものはすぐに読めるに端的に何なのか書いてある。要するに何なのか分かってから、より詳しいものを読んだ方が効率的だし。
少女:調べものを始める時にやるっていってたやり方だね。……話戻すけど、知らない言葉や事項に出会うためっていうけど、それだと知らない項目に出会う度にいちいちつまずかない?
少年:つまずくけど、相手は辞書だから、答えにあたるものは続きに書いてある。だから、そんなに時間をくうわけじゃない。
少女:でも、最近写してる類書は昔の文献が引いてあるんでしょ?読むのに時間かからないの?
少年:短いのはそうでもないけど、詳しい項目は結構かかる。だから写すついでに電子版の百科事典その他を検索してる。要するに何なのか程度のことは分かるし、分かってから読む方が理解もはやい。
少女:事典をタテに読むやり方を取り入れてるんだ。
少年:うん。類書を写す場合は、項目名だけを入れていくファイルの他に、そうやって調べたことをコピペして貯めておくファイルも別につくってる。最近の事典に載ってない項目ももちろんあるけど、載ってないことがわかるのも一つの情報だから。
少女:あと、言葉としてはもちろん知ってるけど、自分が知らないことが書いてある項目ってあるでしょ? これも項目名を抜書きするだけ?
少年:ほんとは知らないことが書いてある部分は全部抜書きしたいけど、そこまではちょっと手が回らない。これは面白いってことが書いてあった項目とか、書き写したときに印だけつけてる。あと一つの項目に複数の章立てがあるような大きな項目は、中の章立ても写す。もっとも日本の百科事典だと、大項目はそんなに多くなくて、項目数でいえば全体の2%くらいしかないけど。
少女:え、そんなものなの?
少年:何を大項目にするのか、誰が書くのか書けるのか、何をどこまでその項目で扱うのか、どこまで書く人の裁量に任せるのか、事典全体との調整はどうするのか、いろいろ難しいから簡単には増やせない。小項目は増やしやすいし、50音順なりアルファベット順に従えば、どこに入れるか自動的に決まるけど。
少女:英語の事典も読んでたよね?
少年:事典の前に、子供用でCollins Junior Illustrated Dictionary (Collins Primary Dictionaries)と、それから辞典じゃないけどI.A. RichardsとChristine M. Gibsonが書いたEnglish Through Picturesを読んだ。
少女:それ、どういう本?
少年:English Through Picturesは、「わたし」「ここ」って言葉のはじまりみたいなところから、簡単な線画と文の比較と繰り返しだけで、翻訳も解説もなしに少しずつ未知の言語に踏み込んでいくみたいな本。言語習得の冒険ものっていうか。
少女:それってめちゃくちゃ回りくどくない?
少年:でも最初の120ページくらいで最頻出でコアな基本単語250語と、それに現在、過去形、進行形、未来形に関係代名詞までできてるから、それほど非効率的でもない。2冊目くらいから抽象的な語とかどうやって導入するんだろうと思ってると、わあこんな手で来るのか、ってちょっと感動する。あと英語だけじゃなくて各言語版がある。
少女:Illustrated Dictionaryの方は?
少年:こっちは単純に絵に描ける物や動作をならべた絵辞典。日用の語彙を補うのに読んだけど、イラストが書いてあるだけで、退屈だった。同じintestines(腸)って言葉でも、「腸」って日本語と対にしてあるだけより絵があった方がましだけど、消化の仕組みをイラストをつかって説明してある方が退屈しないし覚える。
少女:それが百科事典ってこと?
少年:うん。Dorling Kindersleyから出てる子供用で一番やさしいやつ(First Children's Encyclopedia (First Reference))から始めたけど、クイズや小ネタが散りばめてあったりして、こっちは結構退屈せずに読めた。

少女:結構分厚いね。
少年:フルカラーで写真とか説明イラストが各ページ全体を占めてて、文字は添え物程度に散らしてあるだけだから300ページあるけど、あまり時間かからずに読める。同じ出版社から出てるChildren's Illustrated Encyclopediaだと、普通に文字の間にイラストがレイアウトされてて1冊ものの600ページ。もう一つ上のは、Illustrated Family Encyclopediaで2巻もので文字も小さくなって900ページくらい。DK First Children’s Encyclopediaにはドイツ語訳(Das große Kinderlexikon)があるし、同じくらいのレベルだとフランス語ならラルースのMa Première Encyclopédie Larousseがある。
(日曜、図書館、カウンターの近く)
司書:何かお探しですか?
父親:いや、あの、いつも娘がお世話になっております。
司書:ああ、聞いております。どうぞこちらへ。
父親:先に〈彼〉のところに行ったのですが、声がかけにくい雰囲気で。
司書:この時間だと、まだ〈日課〉を済ませている最中でしょう。しばらくするとこちらに来ると思います。
父親:〈彼〉には先生が手ほどきされたと伺ったのですが。
司書:先生はやめてください。探しものをいくらか手伝ったことがあるだけです。
父親:あの、辞書を写すというのは?
司書:彼が自分ではじめました。箕作阮甫に弟子入りを断られた勝海舟が蘭和辞典を筆写した話や少年時代『和漢三才図会』などを書き写した南方熊楠のエピソードなどからヒントを得たようです。
父親:はあ、そういえば聞いたことがありますが。
司書:先人がいかに学んだかを述べた文献には、書物や辞典を書き写すというやり方がよく出てきます。安価な複製手段がなかったのはもちろんですが、人と書物の関わり方でいえば、そうすることが不自然でない時代が長かったのかもしれません。
父親:書き写すことがですか?
司書:ええ。筆写は書物の内容を血肉化するためにとられる通常の手法であり、読書のやり方の主たる一つでした。書物を読むことと書くこと、読書と執筆と出版は別のことではありませんでした。中国西晋の左思の詩集『三都賦』が洛陽の紙価を高からしめたのは、出版社が重版したからではなく、人々が争って筆写したためです。私たちが先人から引き継いだ文献はほとんどすべて誰かが筆写することで伝わったものです。彼らは未来の人たちのためよりもまず自身のために書き写したのです。読むことができる人はみな書き写すこともできました。書物は、少数の独占者によって複製され一元的に供給されるというより、次々に筆写されることによって、評判とともに、読者=筆写者というノードからノードへと手渡しされネットワークを広がっていったのです。
父親:なにか今のネットやソーシャル・メディアの話を聞いているようです。
司書:写筆者を一箇所に集めて組織化し管理したり、複製技術を独占しようとすることも、書物の歴史と同じくらい古い訳ですから、偏った見方であることは認めなくてはなりません。ですが、人々が各々コピーをつくり他の人に手渡していく光景は、人類にしても書物にしても、はじめて見たものではありません。もちろん書物が広がっていったネットワークは、我々が現在目にしているものよりずっと疎らで小規模でした。書物を書き写すことは、スキャナーにかけるよりは時間も労力もかかることですから。しかし書物を写す作業が可能性としては本を読むことができるすべての人に分散していたからこそ、多くの書物は幸運にも残ったといえるかもしれません。独占的な複製者によって一元的に提供されているなら、ある書物を葬り去ろうという企てはずっと容易に実現したでしょう。
父親:出版社というか、複製拠点をおさえてしまえばいい。
司書:ええ。しかし読み手の誰もが複製者になり得るならば、その企てはずっと難しくなります。……おや、どうやら〈日課〉が済んだようですね。二人が来たら、テラスの方へ移りませんか。この話を続けるのにうってつけの、古い樫の木のテーブルがあります。
少女:あ、パパ。今日は早いんだね。
父親:おまえはいつもこんな時間なのか?
少女:うん、帰りは大抵、今のバスかな。
父親:部活もないのに遅くないか?
少女:委員会もあるし、何もない日は図書館に寄ってくるから。
父親:県立の? 学校からだと方向が逆じゃないか。
少女:大丈夫だよ。友達といっしょだし、今日もバス停まで送ってもらったし。
父親:どんなの子なんだ、その子?
少女:前に言ったことなかった? 入学してすぐ、いっしょにクラス委員やった子。
父親:そういえば、よく怒ってたな。委員の仕事を全然しない子と組まされたって。
少女:そうそう。最初は先生が指名したんだけど、ほんと適材適所ってあるんだと思った。
父親:確か、新入生代表で挨拶した子だろ。そういう子がいるなら指名してしまうだろ。
少女:あれって入学試験の成績で決めたらしいんだけど、次の年から人物本位で選ぶことになったって。噂だけど。
父親:聞いてると心配になってきた。どういう子なんだ?
少女:本の虫。いつも何か読んでる。それを他の何より優先してる。多分、学校生活を時間の無駄だと思ってるんじゃないかな。図書室登校とかできたら絶対選びそう。
父親:それは駄目だろう。
少女:放っておいたら高校も行かなさそうだし。
父親:おまえのところ中高一貫だろ。
少女:放っておかないけどね。
父親:……本の虫ってどんな本を読んでるんだ?
少女:いろいろ何でも。あ、最近、ちょっとずつ読んでるのは……
父親:なんだ?
少女:日本の類書かな。読むというより、読み終えた項目の見出し語を書き抜いてる。
父親:なんで? というか類書って何?
少女:いろんな書物から集めたものを項目ごと整理した中国や日本古来の百科事典のこと。表向きの理由は、見出しだけでも電子データにしとくとパソコンやスマホで検索できるから、らしいけど。写しながらだと注意して読むし、分からないことは調べるから、内容も結構覚えちゃうみたい。
父親:気が遠くなる話だな。
少女:私もそう言ったんだけど、そうでもないって言うの。「全20巻5万項目ある『広文庫』も、目次だけだとあわせて640ページくらいしかない。1日見開き2ページ写せば1年足らずで写し終える。これくらいなら能力的にも時間的にもできない人は少ないと思う」だって。
父親:写すなんて普通思いつかないし、思いついてもやろうと思わない。辞書なんて必要なところだけを引いて見るものだし、全部で何ページあるとか考えたことなかったよ。
少女:そうだよね。前は何故こんなに何でも知ってるんだろうと思ったけど、この話を聞いたらなんか納得した。
父親:最近は、って言ったけど、前からそんなことやってるのか?
少女:いつからかは知らないけど、最初に写したのは子供向けの漢字辞典だって。見出し字だけだと常用漢字だと2000字くらいだから原稿用紙だと5枚分でしょ。
父親:そう聞くと「確かにそれくらいなら」と思わなくもないけど。だけど1回書いたくらいじゃ覚えられないだろう?
少女:それでも一回最後まで通すと随分違うんだって。確かこの本の中で見たことある、と思えるだけでも。その後、子供向けの事典とかの項目を書き抜きして、普通の百科事典に取り掛かる頃には本を読むがずいぶん楽になったって言ってた。
父親:百科事典なんて、それこそ何万項目もあるんじゃないのか? 書き写すのは項目だけでも、内容は読むんだろ?
少女:えーと、平凡社の世界大百科事典って全部で9万項目、7000万文字くらいなんだって。新聞(朝刊)だと1日約12万字だから……584日分になるのかな。2年かからない計算になるらしいんだけど。
父親:新聞は隅から隅まで読んだりしないからなあ。
少女:毎日100項目ずつ書き抜いて3年かかったみたい。項目名だけだと1項目数文字でしょ。書き写す分量だけいえば毎日数百文字だから原稿用紙2、3枚くらい。
父親:そういうと大したことなさそうだけど。
少女:これくらいだとそんなに時間はかからないから、図書館に来ると、まず辞書を写す日課を済ませてしまってから、他のことをやるんだって。時間のある日もない日も疲れている日もいない日も。
(日曜、図書館)
少女:……という話をしてたんだけどね。
少年:なにそれ。
少女:なんかまずかった?
少年:……いや、別にいいけど。
少女:他にも書き写したの、あったよね。
少年:漢字辞典のあとは、岩波文庫の目録に出てくるタイトルだけ写した。これは1800冊分くらい。その次は、受験参考書型の国語辞典(MD現代文・小論文)の見出し語で4000語。このあたりで本を読むのがだいぶ楽になった。
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少女:意外にスモールステップ。
少年:その次がほるぷ出版の『世界伝記大事典』で人物名(5500名分)だけ写した。次は平凡社の『世界名著大事典』で紹介されてる書物のタイトルだけ11000万冊分。その次が子ども向け百科事典(『百科事典ポプラディア 』)で、これも項目名だけ2万5千項目。その後、平凡社の『世界大百科事典』で9万項目。ここまでで小学校終わった。
少女:一回書くだけで覚えられるのか、っていうんだけど。
少年:無理。というか目的はそっちじゃない。
少女:電子化されてない事典の項目を抜き出したい?
少年:それができたら、事典の横断検索のための総索引(マスターインデクス)が自作できるから。でも、それより……。
少女:なあに?
少年:どちらかというと知らない言葉や事項に強制的に出会うためだと思う。自分の知識の抜けているところを知るというか。知識をインプットするのに、ひとつの事典を順番にヨコに読んでいくのは実は効率よくない。隣の項目とまるで関係ないことが多いし。事典が役に立つのは、「これがわからない」とか「○○について知りたい」っていうニーズを、引く人が背景というか文脈として持ち込むから。背景・文脈と関連付けられないと、断片的な情報でしかなくて記憶にも残りにくいし。
少女:ヨコに読むって、タテに読むのもあるの?
少年:タテ読みは、ひとつの項目について、いろんな事典や他の文献を貫通的にというか、まとめて読むこと。調べたものは、短い順に1つのファイルにまとめて、読むときも短いものから読む。短いものはすぐに読めるに端的に何なのか書いてある。要するに何なのか分かってから、より詳しいものを読んだ方が効率的だし。
少女:調べものを始める時にやるっていってたやり方だね。……話戻すけど、知らない言葉や事項に出会うためっていうけど、それだと知らない項目に出会う度にいちいちつまずかない?
少年:つまずくけど、相手は辞書だから、答えにあたるものは続きに書いてある。だから、そんなに時間をくうわけじゃない。
少女:でも、最近写してる類書は昔の文献が引いてあるんでしょ?読むのに時間かからないの?
少年:短いのはそうでもないけど、詳しい項目は結構かかる。だから写すついでに電子版の百科事典その他を検索してる。要するに何なのか程度のことは分かるし、分かってから読む方が理解もはやい。
少女:事典をタテに読むやり方を取り入れてるんだ。
少年:うん。類書を写す場合は、項目名だけを入れていくファイルの他に、そうやって調べたことをコピペして貯めておくファイルも別につくってる。最近の事典に載ってない項目ももちろんあるけど、載ってないことがわかるのも一つの情報だから。
少女:あと、言葉としてはもちろん知ってるけど、自分が知らないことが書いてある項目ってあるでしょ? これも項目名を抜書きするだけ?
少年:ほんとは知らないことが書いてある部分は全部抜書きしたいけど、そこまではちょっと手が回らない。これは面白いってことが書いてあった項目とか、書き写したときに印だけつけてる。あと一つの項目に複数の章立てがあるような大きな項目は、中の章立ても写す。もっとも日本の百科事典だと、大項目はそんなに多くなくて、項目数でいえば全体の2%くらいしかないけど。
少女:え、そんなものなの?
少年:何を大項目にするのか、誰が書くのか書けるのか、何をどこまでその項目で扱うのか、どこまで書く人の裁量に任せるのか、事典全体との調整はどうするのか、いろいろ難しいから簡単には増やせない。小項目は増やしやすいし、50音順なりアルファベット順に従えば、どこに入れるか自動的に決まるけど。
少女:英語の事典も読んでたよね?
少年:事典の前に、子供用でCollins Junior Illustrated Dictionary (Collins Primary Dictionaries)と、それから辞典じゃないけどI.A. RichardsとChristine M. Gibsonが書いたEnglish Through Picturesを読んだ。
少女:それ、どういう本?
少年:English Through Picturesは、「わたし」「ここ」って言葉のはじまりみたいなところから、簡単な線画と文の比較と繰り返しだけで、翻訳も解説もなしに少しずつ未知の言語に踏み込んでいくみたいな本。言語習得の冒険ものっていうか。
少女:それってめちゃくちゃ回りくどくない?
少年:でも最初の120ページくらいで最頻出でコアな基本単語250語と、それに現在、過去形、進行形、未来形に関係代名詞までできてるから、それほど非効率的でもない。2冊目くらいから抽象的な語とかどうやって導入するんだろうと思ってると、わあこんな手で来るのか、ってちょっと感動する。あと英語だけじゃなくて各言語版がある。
少女:Illustrated Dictionaryの方は?
少年:こっちは単純に絵に描ける物や動作をならべた絵辞典。日用の語彙を補うのに読んだけど、イラストが書いてあるだけで、退屈だった。同じintestines(腸)って言葉でも、「腸」って日本語と対にしてあるだけより絵があった方がましだけど、消化の仕組みをイラストをつかって説明してある方が退屈しないし覚える。
少女:それが百科事典ってこと?
少年:うん。Dorling Kindersleyから出てる子供用で一番やさしいやつ(First Children's Encyclopedia (First Reference))から始めたけど、クイズや小ネタが散りばめてあったりして、こっちは結構退屈せずに読めた。


少女:結構分厚いね。
少年:フルカラーで写真とか説明イラストが各ページ全体を占めてて、文字は添え物程度に散らしてあるだけだから300ページあるけど、あまり時間かからずに読める。同じ出版社から出てるChildren's Illustrated Encyclopediaだと、普通に文字の間にイラストがレイアウトされてて1冊ものの600ページ。もう一つ上のは、Illustrated Family Encyclopediaで2巻もので文字も小さくなって900ページくらい。DK First Children’s Encyclopediaにはドイツ語訳(Das große Kinderlexikon)があるし、同じくらいのレベルだとフランス語ならラルースのMa Première Encyclopédie Larousseがある。
DK First Encyclopedia | 1 Vol. | Ages 4-8. |
DK How Things Work Encyclopedia | 1 Vol. | Ages 7-12. |
Scholastic Children's Encyclopedia | 1 Vol. | Ages 8-12. |
DK Children's Illustrated Encyclopedia | 1 Vol. | Ages 9 and older. |
DK Illustrated Family Encyclopedia | 2 Vols.+Index | Ages 9 and older. |
Britannica Discovery Library | 12 Vols. | Ages 3-6 |
Britannica Learning Library | 17 Vols. | Ages 7-11. |
My Fist Britannica | 13 Vols. | Ages 7-11. |
Britannica Illustrated Science Library | 18 Vols. | Ages 10 and older. |
(日曜、図書館、カウンターの近く)
司書:何かお探しですか?
父親:いや、あの、いつも娘がお世話になっております。
司書:ああ、聞いております。どうぞこちらへ。
父親:先に〈彼〉のところに行ったのですが、声がかけにくい雰囲気で。
司書:この時間だと、まだ〈日課〉を済ませている最中でしょう。しばらくするとこちらに来ると思います。
父親:〈彼〉には先生が手ほどきされたと伺ったのですが。
司書:先生はやめてください。探しものをいくらか手伝ったことがあるだけです。
父親:あの、辞書を写すというのは?
司書:彼が自分ではじめました。箕作阮甫に弟子入りを断られた勝海舟が蘭和辞典を筆写した話や少年時代『和漢三才図会』などを書き写した南方熊楠のエピソードなどからヒントを得たようです。
父親:はあ、そういえば聞いたことがありますが。
司書:先人がいかに学んだかを述べた文献には、書物や辞典を書き写すというやり方がよく出てきます。安価な複製手段がなかったのはもちろんですが、人と書物の関わり方でいえば、そうすることが不自然でない時代が長かったのかもしれません。
父親:書き写すことがですか?
司書:ええ。筆写は書物の内容を血肉化するためにとられる通常の手法であり、読書のやり方の主たる一つでした。書物を読むことと書くこと、読書と執筆と出版は別のことではありませんでした。中国西晋の左思の詩集『三都賦』が洛陽の紙価を高からしめたのは、出版社が重版したからではなく、人々が争って筆写したためです。私たちが先人から引き継いだ文献はほとんどすべて誰かが筆写することで伝わったものです。彼らは未来の人たちのためよりもまず自身のために書き写したのです。読むことができる人はみな書き写すこともできました。書物は、少数の独占者によって複製され一元的に供給されるというより、次々に筆写されることによって、評判とともに、読者=筆写者というノードからノードへと手渡しされネットワークを広がっていったのです。
父親:なにか今のネットやソーシャル・メディアの話を聞いているようです。
司書:写筆者を一箇所に集めて組織化し管理したり、複製技術を独占しようとすることも、書物の歴史と同じくらい古い訳ですから、偏った見方であることは認めなくてはなりません。ですが、人々が各々コピーをつくり他の人に手渡していく光景は、人類にしても書物にしても、はじめて見たものではありません。もちろん書物が広がっていったネットワークは、我々が現在目にしているものよりずっと疎らで小規模でした。書物を書き写すことは、スキャナーにかけるよりは時間も労力もかかることですから。しかし書物を写す作業が可能性としては本を読むことができるすべての人に分散していたからこそ、多くの書物は幸運にも残ったといえるかもしれません。独占的な複製者によって一元的に提供されているなら、ある書物を葬り去ろうという企てはずっと容易に実現したでしょう。
父親:出版社というか、複製拠点をおさえてしまえばいい。
司書:ええ。しかし読み手の誰もが複製者になり得るならば、その企てはずっと難しくなります。……おや、どうやら〈日課〉が済んだようですね。二人が来たら、テラスの方へ移りませんか。この話を続けるのにうってつけの、古い樫の木のテーブルがあります。
◯仕掛けのあるバスタブ
少女:わー、ちっちゃいお風呂。禁煙さん、それ何ですか? ドール・ハウスの?
禁煙:ああ、これ。ううん、教材。友達に作ってもらったの。

少女:小さい蛇口もついてるんですね。……教材って何の?
禁煙:小学生に微分方程式を体験してもらう教材なの。
少女:ええっ、微分どころか方程式も習ってないんですよ。
禁煙:むかしシーモア・パパートって人も、数学をさんざん習わないと微分方程式にたどり着けないなんてダメすぎる、小さい子どもこそ味わうべきなんだ、といつも言ってたわ(それでLOGOってコンピュータ言語を作ったのだけど)。
少女:じゃあ、私にも分かりますか?
禁煙:試しに遊んでみる? デジタル表示が三つついているでしょ。
少女:はい。〈入る蛇口〉と〈出る蛇口〉と、あと〈バスタブ〉って書いてあります。
禁煙:〈バスタブ〉の数字は、文字通りバスタブに今入っている水の量を表してるの。〈入る蛇口〉の数字は1秒間にバスタブに水が入ってくる量を表してて、〈出る蛇口〉の方で1秒間にバスタブから水が出ていく量ね。二つの蛇口は、どちらも数値をセットすれば、入ってくる量/出ていく量を決められるの。
少女:わかります。
禁煙:あと毎回写実的(?)に描くと大変だから、簡略化した描き方をするわね。四角の箱が〈バスタブ〉、〈バスタブ〉に入ってくる矢印の真ん中にある小さな三角形の頭を付き合わせたようなのが〈入る蛇口〉を表してると思ってね。〈バスタブ〉から出ていく矢印についてるのが〈出る蛇口〉ね。

少女:説明おしまい?
禁煙:まだ少しあるけれど、あとはキッチンに持っていって実際に動かしながらにしましょうか。
少女:じゃあ〈入る蛇口〉を10にセットします。〈出る蛇口〉はゼロで。このバスタブ、何リットル入るんですか?

禁煙:1リットルで、この表示だと1000で一杯ね。
少女:じゃあ、1000÷10=100だから、水を入れ始めて100秒後にバスタブは一杯になります。

禁煙:じゃあ〈入る蛇口〉を10、〈出る蛇口〉を6にセットしましょう。

少女:入ってくるのが1秒あたり10で、出ていくのが1秒当たり6だから10-6=4で、1秒当たり4だけ増えます。1000÷4=250だから、250秒後にバスタブは一杯になります。……で?
◯指数関数的減少のモデル
禁煙:確かにこれだけだと、あまりにもつまらないわね。
少女:小さい頃に、こういう問題やった気がします。
禁煙:そこで取り出したのが、このコード。蛇口の裏に差し込むところがあるんだけど。
少女:何に使うんですか?
禁煙:〈入る蛇口〉や〈出る蛇口〉の数字は、今は人間がセットしてそのまま変わらなかったけれど、このコードをつなぐと、その数字を刻々とセットしなおしてくれる、というかコントロールしてくれるの。…バスタブは一杯になったかしら。
少女:なりました。
禁煙:〈バスタブ〉から〈出る蛇口〉へコードをつないで、〈バスタブ〉=バスタブの水の量が減るにしたがって〈出る蛇口〉も減らすようにしてみるわ。
少女:こんな感じですか?

禁煙:ええ。……はい、これを使って。
少女:何ですか? タイマー?
禁煙:1秒間隔でピッ、ピッと鳴らすわね。子どもたちには班に分かれてもらって、時間を計る役と、1秒ごとに〈バスタブ〉の表示を読み上げる役と、書き取る役を分担して、どんな風に水が減っていくかグラフを書いてもらうんだけど。
少女:確かに一人でやるのは大変です。……できました、こんな感じですか。


禁煙:うん、なかなか。実は今のが、応用例をいっぱい載せてる本なら、最初の方に出てくる微分方程式を、バスタブで表したものなの。
少女:え、どこが?
禁煙:見かけはずいぶん違っているけどね。今のモデルのポイントは、「水が減っていく速さは、バスタブに残っている水の量に比例する」ってこと。バスタブに入っている水の量をグラフにすると、最初は急な下り坂だけどだんだんなだらかになっていってるよね。
少女:応用例って言ったけど、今のは何かの役に立つんですか?
禁煙:たくさんあるけど、たとえば薬の血中濃度の変化のモデルで服用計画を考えたり、物の冷め方(温度の変化)のモデルで死亡推定時刻を計算したり。薬を服用してすぐで血中濃度が高いほど、その変化(下がり方)は激しいし、熱いモノほど温度は速く下がってしまうの。
少女:だから右下がりのグラフはだんだんゆるやかになるんですね。
禁煙:あとダイエットとかもそうね。同じ努力をしても体重が減るほど、減り方はゆるやかになる(下のグラフの青線)。ヒトは無意識に同じ努力には同じ結果が出るはずだと、グラフで言うと直線で描ける変化をイメージしてしまう(下のグラフの赤線)から、しばらくダイエットを続けていると効果がなくなったと思ってやる気がくじけちゃう。ほんとはちゃんと同じだけ効いてるからこそ、そういう変化になるんだけど。

少女:ええっ、これって学校で教えた方がいいんじゃ。
禁煙:ん?食いついた?
少女:というか、微分方程式というより、それって「残っている量に比例して減っていく」現象のモデルなんじゃ?
禁煙:ええ、そのとおり。だからいろんなところにこの種の現象は見つかるわ、自然にも社会にも。モデルとしてはとてもシンプルだけど、ダイエッターが勘違いするように、ヒトの量の感覚とは異なるものだから、数学の使い甲斐があるところなのだけれど。
◯指数関数的増加のモデル
少女:バスタブで作れるモデルって他にもあるんですか?
禁煙:ええ、もちろん。じゃあ今度は、〈バスタブ〉から〈入る蛇口〉へコードをつないで、バスタブの水の量が多いほど、ますます入ってくる水の量が増えるのを作ってみようか。

少女:これも何かの現象のモデルになるんですか。
禁煙:一番身近なのは複利計算かな。預金とか借金とか。
少女:まだ借金があるほどの甲斐性はないです。複利って何でしたっけ?
禁煙:たとえば一年間で1%の利子で100万円預けるとするわね。1年後には100万円の1%が利子となって加わり、預金残高は100+1=101万円に増える。次の年は、101万円の1%、つまり10,100円が利子にとなって加わり、預金残高は1,010,000+10,100=1,020,100円になる。……以下、繰り返しね。
少女:預金残高×利率=利子だから、預金残高=バスタブの水の量が多いほど、ますます入ってくる水の量が増えるちゃう。
禁煙:同じように1秒ごとに〈バスタブ〉の数字を書き取ってグラフにしてみて。
少女:今度はどんどんと坂がきつくなる上り坂みたいなのになりました。

禁煙:他には、「ネズミ算」って言葉があるけど、親ネズミの数に比例して子ネズミが生まれるとすると、ネズミが増えれば増えるほど、増え方が激しくなる。食料が十分な場合、生物はこんな増加の仕方をするわね。細菌とかホテイアオイとか。
少女:ホテイアオイって水草ですか?
禁煙:ええ。世界十大害草とか世界の外来侵入種ワースト100にも選ばれてて「青い悪魔」なんて呼ぶ人もあるくらい。寒さに弱くて冬はほとんど枯れるけど、ちょっとでも残っていると翌年にはまた大繁殖する。ああ池に少し浮いてるなあと思ってたら、いつの間にか池全面を覆っててびっくりしたりしない? この種の現象も、ヒトの数量の感覚からすると意外に感じるから「ネズミ算」なんて特別な言い回しがあるのね。
◯日常感覚とそれ以上をつなぐ
少女:これも前に禁煙さんが言ってた、日常の感覚を越えたものだから数学が役に立つって場面ですか?
禁煙:ええ。今のところでポイントは、「預金残高が多いほどほど利子も多い」「親が多いほど、生まれる子も多い」ってところは日常の感覚の通りだってこと。
少女:バスタブ・モデルが、日常感覚とそれを越えたものをつないでる?
禁煙:そして微分方程式の役目も、バスタブ・モデルのそれと同じだってこと。なぜ物理法則をはじめとして、科学の基本方程式の多くが微分方程式で書かれているのか、ここに理由があるの。
少女:微分方程式が、日常感覚とそれを越えたものをつないでる? うーん、微分方程式を知らないから、それがどう日常感覚とつながっているのか分からないです。
禁煙:たとえば止まったものに力を加えると動き出すよね。それまで速度ゼロだったのに動くってことは加速したってこと。より強い力だとそれだけ大きく加速するし、より重いものだとそんなに加速しない。
少女:うーん、そこだけ取り出したら、確かに日常の感覚ですけど。
◯空気抵抗のない落下運動
禁煙:たとえば空気抵抗がないところで物を落とすと、重力で引っ張られ続けるから、一定の度合いで速度は増加していく。速度が上がるってことは、1秒当たりに進む距離がどんどん増えていくってこと。さて、これのバスタブ・モデルをつくろうか。
少女:ええっ、見当もつかない。
禁煙:ちなみに速度が一定の割合で増加していくグラフはこんな感じ。

少女:一番最初のバスタブの水の量のグラフみたいですね。
禁煙:ええ。一つ目のバスタブに〈速度〉って名札をつけておくわね。
少女:一定の割合で増加していくから、〈入る蛇口〉は最初に決めた数値に固定ですよね。どうしましょう?
禁煙:物を落とす話をしてたから、重力加速度にちなんで9.8にしときましょうか。
少女:速度がどんな風に増えていくかはバスタブ・モデルで表現できましたけど、この後は?
禁煙:ここにもうひとつバスタブを用意してみたわ。二つ目のバスタブに〈進んだ距離〉って名札をつけておくわね。
少女:あとは、このコードだけど、ふたつバスタブがあるから、コードでつなぐってことは予想がつくんですけど。あと、〈進んだ距離〉バスタブの〈入る蛇口〉ってまだ考えてなかったです。
禁煙:というか、それがほとんど答えね。
少女:そうか。貯まって〈進んだ距離〉になるものって……1秒あたり進む度合いって〈速度〉だもの。
〈進んだ距離〉バスタブの〈入る蛇口〉は速度だ。じゃあ、〈バスタブ〉に〈速度〉って名札をつけた一つ目のバスタブと、二つ目の〈入る蛇口〉をコードでつなぎます。

禁煙:じゃあ、バスタブ・モデルを動かしてみましょうか。二つ目のモデルの〈バスタブ〉の値を1秒ごとに記録してね。
少女:できました。

禁煙:これが世界最初の微分方程式だって人もいるわ。落体の運動を研究している時にガリレオが解いたんだけど。
◯空気抵抗のある落下運動
少女:学校では
とかって、ガリレオが解いた結果だけを習いました。
禁煙:数式のかたちで答えが得られると後で応用しやすいからね。でも、やぼったいバスタブ・モデルにもいいことがあるわ(といっても微分方程式なら当然できることだけど)。いまの2個のバスタブで作った落下運動のモデルだけど、コード1本追加すれば、「空気抵抗がある落下運動」のモデルに改造できるの。
少女:どうしたらいいんですか?
禁煙:ヒント。空気抵抗は、小さな物体がゆっくり動くときには、速度に比例すると考えていいの。速度が二倍になれば空気抵抗も二倍ね。
少女:空気抵抗って減速させるんですよね。今は一個目のバスタブに入っている水の量が速度を表してたから、このバスタブから出ていく=速度をおとすって考えればいいのかな?
禁煙:そのとおり。
少女:じゃあ、〈速度〉って名札をつけたから〈出る蛇口1〉へコードをつなぎます。

禁煙:大正解。じゃあ、またグラフを書いてもらえる? 今度は速度がどんなふうに変化するかを知りたいから、〈速度〉って名札をつけた〈スタック〉の数値を1秒ごとに書きとめてね。

少女:こんなグラフになりました。速度の上がり方は最初は急だけど、どんどんなだらかになっていきますね。
禁煙:うん。高い雲から落ちてくる雨粒は、地上につくころはほとんど加速せずに(速度のグラフがずいぶんなだらかになったところね)、大きさによってだいたい同じ速度におちついて落ちてくるわ。直径1ミリメートルでは毎秒約4メートル、5ミリメートルでは毎秒約9メートルぐらいかしら。
少女:雨が突き刺さらなくてよかったです。
◯ダイエットとやる気のモデル
禁煙:せっかくバスタブを2つ使うモデルが出たから、値が増えたり減ったりを繰り返すモデルも作っておこうか。
少女:実はもうちょっと着いていけなくなってるんですけど。
禁煙:普通はバネの話なんかするんだけど、せっかくだしリバウンドのモデルにしようね。
少女:えっ、狙い撃ち?
禁煙:1つめのバスタブに〈超過体重〉という名札をつけましょう。
少女:超過体重って?
禁煙:理想体重よりどれだけ重いかってこと。当然、理想体重より軽くなったら超過体重としてはマイナスにあるわ。
少女:えーと、バスタブだからマイナスの数とか表せないんじゃ?
禁煙:ほんとはね。少しズルをして、バスタブのデジタル表示をいじってちょうど半分水が入ったときに0と表示するようにしておくの。こうすつとー500から+500までの数字が扱えるわ。
少女:もう一つのバスタブは?
禁煙:〈やる気〉という名札をつけておきましょうか。こちらもマイナスの値が扱えるようにしておくの。
少女:ダイエットのやる気ってことですか?
禁煙:やる気が高いときはダイエットに一生懸命取り組むから体重の減り方が大きい、と考えるのはいいかしら?
少女:ええ。
禁煙:ではもうひとつ。現実的にはもっといろいろありそうだけど、ここは単純に、体重が重いほどより強く動機付けられてやる気も高まる、と考えましょうか。逆に体重が軽くなってくるとやる気も減ってく、ってことね。
少女:じゃあ〈やる気〉のバスタブから〈体重減少〉の蛇口へコードをつなぎます。それから〈超過体重〉のバスタブから〈やる気増加〉の蛇口へもコードをつないで、と。これでいいですか。

禁煙:これもグラフを描いてみましょうか。
少女:体重もやる気も上がったり下がったりを繰り返すグラフになりました。体重のアップダウンをやる気のアップダウンが追いかけてるみたい。あ、でも、これ……

禁煙:なあに?
少女:今のバスタブ・モデルには、さっき出た〈体重が減るほど減り方がゆるやかになる〉って話が入ってませんよね?
禁煙:じゃあ、さっきみたいに〈超過体重〉のバスタブから〈体重減少〉の蛇口にコードをつなぎましょうか。

少女:うーん、こんなグラフになりました。やっぱり体重のアップダウンをやる気が追いかけてるんですけど、アップダウンは同じ大きさじゃなくて形もなんか違いますね。ちょっと言葉で言い表すのは難しいです。

禁煙:このあたりまで来ると、自然言語でなかなか表現できないから、モデルを使って考える甲斐があるって思わない?
◯バスタブ・モデルの正体
少女:バスタブやコードを増やせば、もっと複雑なモデルも作れますか。
禁煙:ええ。たとえばさっきの、2つのバスタブで速度と位置を表すモデルを組み合わせて、車間距離のシミュレーションとかね。

(クリックで拡大)
(岡野 道治他(1997)『理工系システムのモデリング学習 : STELLAによるシステム思考』牧野書店,星雲社 (発売), p78-79 図4-10,4-12を元にVensim PLE用に改変)
少女:えーと、速度と位置を表すバスタブ2つが1セットで、車1つ分なんですね。
禁煙:ええ。とりあえず3台分で作ってみたけれど、後続車は前の車の車間距離と速度の差を見てアクセルやブレーキを踏む(加速や減速する)けれど、車によって対応の遅れに差がある場合ね。先頭車は時速10キロから徐々に加速して、後続車はぶつからないように(「車の位置」のグラフが交差すると、そこでぶつかることになるんだけど)、速度を合わせていく感じになったわ。

(クリックで拡大)
禁煙:こんな風にどんどん組み合わせればいいって言えばいいんだけど、ただ弱点があってね。
少女:なんですか?
禁煙:マイナスの値が使えないってのはさっきのトリックで何とかなったけど、現実問題として水の量を計っているから精度がよくないの。あとバスタブやコードがたくさんになると扱いが大変だし、場所はとるし、今みたいに水浸しになるし。見た目もやってることもベタだから、その点は分かりやすいのだけど。
少女:やってることはシンプルなんだから、コンピュータの上でできたら、バスタブもコードもいくらでも増やせそうだけど。というか、もうあるんじゃないですか?
禁煙:ええ、実はね。アメリカにMIT(マサチューセッツ工科大学)って学校があるけど、60年以上も昔、電気工学の学生としてやってきたジェイ・ライト・フォレスターって人がいてね。戦争中、兵器に自動調整装置を応用する研究室で働いていて、その絡みで戦後も軍のためにコンピュータ(Whirlwind)を開発したり、半自動な防空システム(SAGE)をつくったりしたんだけど、大きなプロジェクトを経験したせいか、進歩を阻害するのは技術的な問題よりも組織運営の問題の方だって痛感したみたい。電気回路や自動調節装置を扱うやり方で組織のマネジメントをモデル化できないかと考え出したの。
少女:リーダーって大変なんですね。
禁煙:ちょうどある大企業で雇用が短い周期で上下する問題があって、みんなは「これは景気が上下するせいだ、つまり組織の外に原因があるから、一企業には解決不可能だ」って言い張ったんだけど、フォレスターさんはそのアップダウンは組織の内から生まれていることを証明したの。
少女:ダイエットのモデルから、体重とやる気のアップダウンが生まれたみたいに?
禁煙:このときのモデルづくりの方法が、やがて企業だけじゃなくて世界とか都市とかいろんなものに応用されるようになって、その後、システム・ダイナミクスと呼ばれるようになるのだけれど。今じゃアメリカだと高校生やもっと下の学校でもやってるみたい。
少女:フォレスターさんもバスタブを使ったんですか?
禁煙:もう少しだけ抽象化したものだったけどね。今日〈バスタブ〉と呼んでたものを〈レベル変数〉、〈蛇口〉と言ってたものを〈レイト変数〉、と言い換えれば、フォレスターさんたちが使った、システム・ダイナミクスでモデルを記述するストック・フロー・ダイアグラムになるわ。というより話は逆で、ストック・フロー・ダイアグラムの、日常的で身近な〈たとえ〉として使われるのがバスタブ・ダイヤグラムなんだけどね。もともとメタファーに過ぎなかったものを、調子に乗って作ってもらったの。
少女:フローと風呂(バス)をかけてるんですか?
禁煙:それは気付かなかったわ。珍しいね、オチは地口オチ?
少女:二秒で忘れて。……でも、これがなんで微分方程式と関係あるんですか?
禁煙:バスタブというメタファーの利点は、微分と積分を、(単位時間に)〈入ってくる/出て行く水の量〉と〈バスタブに貯まる水の量〉っていう日常的に目にするものに置き換えてくれることね。それぞれストックとフローを表しているから当然といえば当然だけど。
少女:ストックとフローってよく聞くけど、よく分かってない気がします。
禁煙:語れば長いけれど、例を上げておくとこんな感じかしら。
少女:じゃあどれがストックでどれがフローなのかを整理して、その間の関係を矢印で結べば、バスタブ・モデルが作れるってことですか。
禁煙:そう。しかも下の4つの表現(バスタブ、ストック・フロー・ダイアグラム、積分方程式、微分方程式)は、同じ内容を表してるの。

(from Sterman, J. (2000). Business dynamics: Systems thinking and modeling for a complex world. Boston: Irwin/McGraw-Hill. p.194 FIGURE 6-2 Four equivalent representations of stock and flow structure - Each representation contains precisely the same information.)
◯バスタブ・モデルをコンピュータ上で動かす
少女:えーと、つまりバスタブをつかって現象のモデルが作れたら、微分方程式も立てられるってことですか?
禁煙:あと、システム・ダイナミクスのソフトを使えば、手を濡らさずにシミュレーションもできちゃう。ダイアグラムをお絵かきすれば、あとはお任せできるソフトがSTELLA / iThinkとかPowerSimとかいくつかあるけど、今回はネットからダウンロードできて個人用・教育用なら無料で使えるVensim PLE(http://vensim.com/free-download/)というソフトを使ってみたんだけど。
少女:ああ、そういうのがあるから中学・高校でシステム・ダイナミクスできるのかな。実際、何してるんですか?
禁煙:「システム・ダイナミクス」って独立した教科があるんじゃなくて、他の科目の内容に結びついてるみたいね。理科や歴史の授業で、環境問題とか文明のモデルをつくったりはもちろんあるけど、今日みたいに数学の授業に使ったり、英語(日本の国語科みたいなの)では文学作品を読んだり。
少女:いや、文学にシミュレーションもバスタブもいらないでしょ?
禁煙:有名なのだと(MIT のオンライン教材集Road Maps: A Guide to Learning System Dynamicsにも採用されてる)、ハムレットが復讐心をこじらせて王さま(クローディアス)を殺すまでのモデルとか。見てのとおり、ストック(私たちがいうところのバスタブ)4つでできてるんだけど。

(クリックで拡大)
(Hopkins, P. L. “Simulating Hamlet in the Classroom”, System Dynamics Review V8 N1, Winter 1992を元にVensim PLE用に改変)
少女:いったい何の意味が?
禁煙:登場人物の感情の高まりを視覚化して時間的変遷を詳細に検討できるとかもあるけれど、一旦モデルを作ってしまえば、モデルやパラメーターを変更して「もし~だったら、どうなったか?」をいくらでも検討できる、というのも大きいわね。
少女:いやシェイクスピアをマルチエンディングにしても……。事業計画とか政策立案の話だったら、確かにそういうのが必要だってわかるんですけど。
禁煙:理解の仕方っていろいろあると思うけど、感情移入して追体験するのもひとつなら、対象にいろいろ働きかけて返ってきた反応を通して知るというのもひとつ。一目見ればわかるシンプルなものならいいけど、相手が複雑なものだと〈やり取り〉を通して分かることも多いって感じかしら。
少女:うーん、いままで文学とか苦手だった子には、ちょっとウケよさそうかな。
禁煙:実験する学問でも、やっている人にとっては、論文に書ける完成品の実験よりも、そこに至るまでのいわば試作品の実験を繰り返してるうちにいろいろ分かってくるものが大事ってところがあるけど。システム・ダイナミクスに限らず、この手のシミュレーションって、社会とか生態系とか実験が難しいもの相手の、実験の代用品ってところがあるの。
少女:あー、でも、なんかの現象からバスタブ・モデルを自分で組み立てられる気がしません。
禁煙:ご希望なら、モデルの作り方は別にやってもいいわね。
(参考文献)
高校の数学の先生が書いた、システム・ダイナミクス・ソフト(この本ではSTELLAを使用)を使った数学の授業の作り方。
Fisher, D. M., & High Performance Systems, Inc. (2001). Lessons in mathematics: A dynamic approach : with applications across the sciences. Lebanon, N.H.: isee Systems.
上の本が入手できなかったので、(だいぶ違うけど)次の本を参考にした。
なお、Diana M.Fisher の別著 Fisher, D., & isee systems (Firm). (2007). Modeling dynamic systems: Lessons for a first course. Lebanon, N.H.: isee systems. については以下の邦訳がある。
この分野の定番教科書。
以下は上の本の翻訳のはずだが、肝心のシミュレーションやモデリングについての記述をごっそり削除している(なんと1000ページを超える原著が500ページ未満の邦訳になるのだから、どれだけのものを省いたか)。
著者スターマンは「システム原型(system archetypes)だ、システム思考だなんて分かった気になってちゃダメ。普通の人は何本もある微分方程式を頭の中だけでは解けないんだから、ちゃんとシミュレーションしなきゃ。」と苦言を呈していたはずだが気のせいだったか。
ダイエット関連では次の文献を参考にした。ウェイト・マネジメントにシステム・ダイナミクスをガチに導入してる。
浅学非才のうえ寡聞にして、システム・ダイナミクスといえば自治体の作りっぱなしモデルとか『成長の限界』のあれとか大雑把なマクロ・モデルに違いないという(1970年代で時間が止まったような)偏見があったので、新鮮だった。
しかし考えてみれば、アウトカムはきっちり数値で出るし、関連する要因は生化学から社会行動まで多分野に渡るし、そのどれにもフィードバックがかかっているしで、システム・ダイナミクスで扱うにはうってつけのテーマである。
ひょっとすると、ちゃんとしたデータが揃いにくい資源・環境系や、実践しようと思えばエラくなるしかない経営系の事例よりも、この身一つあれば(あと体脂肪計付き体重計があれば、血糖値計があれば言うことなし)がんがん測れて実践できる(しかも不断に我が身に返ってくる=否応なくフィードバックしてくる)ウェイト・マネジメントの方が、システム・ダイナミクスの入門には適しているのではないかとさえ思えてきた。
Abdel-Hamid, T. K. (2009). Thinking in circles about obesity: Applying systems thinking to weight management. New York: Springer.
オンラインで読めるものでは
・U.S. Department of Energy's Introduction to System Dynamics
合衆国エネルギー省提供のオンラインブック。システム・ダイナミクスの歴史から基礎から説き語り。コンパクト。
・Road Maps A Guide to Learning System Dynamics
初等・中等教育におけるシステムダイナミックスの活用と学習者中心の学習を奨励・支援するCreative Learning Exchangeのサイトにある教材集。かなりのボリューム。
・System Dynamics Self Study - MIT OpenCourseWare
システム・ダイナミクスの総本山MITスローン経営大学院が提供する自習用オープンコースウェア。
(今回使ったソフトVensim PLEについて)
・個人・教育用なら無料で使える(よく本に付いてくるようなお試し版ではなく、モデルの作成も保存も自由にできる)WINDOWS版とMAC版がここからダウンロードできる。
http://vensim.com/free-download/
・マニュアルの邦訳やモデリング・ガイドなど、参考になる日本語ドキュメント(313頁もある)は日本未来研究センターの次のページからダウンロードできる。
http://www.muratopia.net/sd/documents/Vensim6UsersGuide.pdf
・本家のオンラインヘルプ(英語)はここ
https://www.vensim.com/documentation/index.html
・自分でシステム・ダイナミクスのモデルをつくるときに役立つ、よく使うパターンを集めたのがこれ。
なお、この文献にまとめられた全パターンをモデル・ファイルにしたものがVensim PLEにも付属している(Helpフォルダ>Modelフォルダ>Moleculesフォルダ内)。
Jim Hines(1996->2005), Molecules of Structure Building Blocks for System Dynamics Models.
http://www.systemswiki.org/images/a/a8/Molecule.pdf
・事例集 Tom Fiddaman's System Dynamics Model LibraryにはVensimでつくられた様々なモデル(資源・環境系と経営・経済系のモデルが多い)を集められている。
http://www.metasd.com/models/index.html
少女:わー、ちっちゃいお風呂。禁煙さん、それ何ですか? ドール・ハウスの?
禁煙:ああ、これ。ううん、教材。友達に作ってもらったの。

少女:小さい蛇口もついてるんですね。……教材って何の?
禁煙:小学生に微分方程式を体験してもらう教材なの。
少女:ええっ、微分どころか方程式も習ってないんですよ。
禁煙:むかしシーモア・パパートって人も、数学をさんざん習わないと微分方程式にたどり着けないなんてダメすぎる、小さい子どもこそ味わうべきなんだ、といつも言ってたわ(それでLOGOってコンピュータ言語を作ったのだけど)。
少女:じゃあ、私にも分かりますか?
禁煙:試しに遊んでみる? デジタル表示が三つついているでしょ。
少女:はい。〈入る蛇口〉と〈出る蛇口〉と、あと〈バスタブ〉って書いてあります。
禁煙:〈バスタブ〉の数字は、文字通りバスタブに今入っている水の量を表してるの。〈入る蛇口〉の数字は1秒間にバスタブに水が入ってくる量を表してて、〈出る蛇口〉の方で1秒間にバスタブから水が出ていく量ね。二つの蛇口は、どちらも数値をセットすれば、入ってくる量/出ていく量を決められるの。
少女:わかります。
禁煙:あと毎回写実的(?)に描くと大変だから、簡略化した描き方をするわね。四角の箱が〈バスタブ〉、〈バスタブ〉に入ってくる矢印の真ん中にある小さな三角形の頭を付き合わせたようなのが〈入る蛇口〉を表してると思ってね。〈バスタブ〉から出ていく矢印についてるのが〈出る蛇口〉ね。

少女:説明おしまい?
禁煙:まだ少しあるけれど、あとはキッチンに持っていって実際に動かしながらにしましょうか。
少女:じゃあ〈入る蛇口〉を10にセットします。〈出る蛇口〉はゼロで。このバスタブ、何リットル入るんですか?

禁煙:1リットルで、この表示だと1000で一杯ね。
少女:じゃあ、1000÷10=100だから、水を入れ始めて100秒後にバスタブは一杯になります。

禁煙:じゃあ〈入る蛇口〉を10、〈出る蛇口〉を6にセットしましょう。

少女:入ってくるのが1秒あたり10で、出ていくのが1秒当たり6だから10-6=4で、1秒当たり4だけ増えます。1000÷4=250だから、250秒後にバスタブは一杯になります。……で?
◯指数関数的減少のモデル
禁煙:確かにこれだけだと、あまりにもつまらないわね。
少女:小さい頃に、こういう問題やった気がします。
禁煙:そこで取り出したのが、このコード。蛇口の裏に差し込むところがあるんだけど。
少女:何に使うんですか?
禁煙:〈入る蛇口〉や〈出る蛇口〉の数字は、今は人間がセットしてそのまま変わらなかったけれど、このコードをつなぐと、その数字を刻々とセットしなおしてくれる、というかコントロールしてくれるの。…バスタブは一杯になったかしら。
少女:なりました。
禁煙:〈バスタブ〉から〈出る蛇口〉へコードをつないで、〈バスタブ〉=バスタブの水の量が減るにしたがって〈出る蛇口〉も減らすようにしてみるわ。
少女:こんな感じですか?

禁煙:ええ。……はい、これを使って。
少女:何ですか? タイマー?
禁煙:1秒間隔でピッ、ピッと鳴らすわね。子どもたちには班に分かれてもらって、時間を計る役と、1秒ごとに〈バスタブ〉の表示を読み上げる役と、書き取る役を分担して、どんな風に水が減っていくかグラフを書いてもらうんだけど。
少女:確かに一人でやるのは大変です。……できました、こんな感じですか。


禁煙:うん、なかなか。実は今のが、応用例をいっぱい載せてる本なら、最初の方に出てくる微分方程式を、バスタブで表したものなの。
少女:え、どこが?
禁煙:見かけはずいぶん違っているけどね。今のモデルのポイントは、「水が減っていく速さは、バスタブに残っている水の量に比例する」ってこと。バスタブに入っている水の量をグラフにすると、最初は急な下り坂だけどだんだんなだらかになっていってるよね。
少女:応用例って言ったけど、今のは何かの役に立つんですか?
禁煙:たくさんあるけど、たとえば薬の血中濃度の変化のモデルで服用計画を考えたり、物の冷め方(温度の変化)のモデルで死亡推定時刻を計算したり。薬を服用してすぐで血中濃度が高いほど、その変化(下がり方)は激しいし、熱いモノほど温度は速く下がってしまうの。
少女:だから右下がりのグラフはだんだんゆるやかになるんですね。
禁煙:あとダイエットとかもそうね。同じ努力をしても体重が減るほど、減り方はゆるやかになる(下のグラフの青線)。ヒトは無意識に同じ努力には同じ結果が出るはずだと、グラフで言うと直線で描ける変化をイメージしてしまう(下のグラフの赤線)から、しばらくダイエットを続けていると効果がなくなったと思ってやる気がくじけちゃう。ほんとはちゃんと同じだけ効いてるからこそ、そういう変化になるんだけど。

少女:ええっ、これって学校で教えた方がいいんじゃ。
禁煙:ん?食いついた?
少女:というか、微分方程式というより、それって「残っている量に比例して減っていく」現象のモデルなんじゃ?
禁煙:ええ、そのとおり。だからいろんなところにこの種の現象は見つかるわ、自然にも社会にも。モデルとしてはとてもシンプルだけど、ダイエッターが勘違いするように、ヒトの量の感覚とは異なるものだから、数学の使い甲斐があるところなのだけれど。
◯指数関数的増加のモデル
少女:バスタブで作れるモデルって他にもあるんですか?
禁煙:ええ、もちろん。じゃあ今度は、〈バスタブ〉から〈入る蛇口〉へコードをつないで、バスタブの水の量が多いほど、ますます入ってくる水の量が増えるのを作ってみようか。

少女:これも何かの現象のモデルになるんですか。
禁煙:一番身近なのは複利計算かな。預金とか借金とか。
少女:まだ借金があるほどの甲斐性はないです。複利って何でしたっけ?
禁煙:たとえば一年間で1%の利子で100万円預けるとするわね。1年後には100万円の1%が利子となって加わり、預金残高は100+1=101万円に増える。次の年は、101万円の1%、つまり10,100円が利子にとなって加わり、預金残高は1,010,000+10,100=1,020,100円になる。……以下、繰り返しね。
少女:預金残高×利率=利子だから、預金残高=バスタブの水の量が多いほど、ますます入ってくる水の量が増えるちゃう。
禁煙:同じように1秒ごとに〈バスタブ〉の数字を書き取ってグラフにしてみて。
少女:今度はどんどんと坂がきつくなる上り坂みたいなのになりました。

禁煙:他には、「ネズミ算」って言葉があるけど、親ネズミの数に比例して子ネズミが生まれるとすると、ネズミが増えれば増えるほど、増え方が激しくなる。食料が十分な場合、生物はこんな増加の仕方をするわね。細菌とかホテイアオイとか。
少女:ホテイアオイって水草ですか?
禁煙:ええ。世界十大害草とか世界の外来侵入種ワースト100にも選ばれてて「青い悪魔」なんて呼ぶ人もあるくらい。寒さに弱くて冬はほとんど枯れるけど、ちょっとでも残っていると翌年にはまた大繁殖する。ああ池に少し浮いてるなあと思ってたら、いつの間にか池全面を覆っててびっくりしたりしない? この種の現象も、ヒトの数量の感覚からすると意外に感じるから「ネズミ算」なんて特別な言い回しがあるのね。
◯日常感覚とそれ以上をつなぐ
少女:これも前に禁煙さんが言ってた、日常の感覚を越えたものだから数学が役に立つって場面ですか?
禁煙:ええ。今のところでポイントは、「預金残高が多いほどほど利子も多い」「親が多いほど、生まれる子も多い」ってところは日常の感覚の通りだってこと。
少女:バスタブ・モデルが、日常感覚とそれを越えたものをつないでる?
禁煙:そして微分方程式の役目も、バスタブ・モデルのそれと同じだってこと。なぜ物理法則をはじめとして、科学の基本方程式の多くが微分方程式で書かれているのか、ここに理由があるの。
少女:微分方程式が、日常感覚とそれを越えたものをつないでる? うーん、微分方程式を知らないから、それがどう日常感覚とつながっているのか分からないです。
禁煙:たとえば止まったものに力を加えると動き出すよね。それまで速度ゼロだったのに動くってことは加速したってこと。より強い力だとそれだけ大きく加速するし、より重いものだとそんなに加速しない。
少女:うーん、そこだけ取り出したら、確かに日常の感覚ですけど。
◯空気抵抗のない落下運動
禁煙:たとえば空気抵抗がないところで物を落とすと、重力で引っ張られ続けるから、一定の度合いで速度は増加していく。速度が上がるってことは、1秒当たりに進む距離がどんどん増えていくってこと。さて、これのバスタブ・モデルをつくろうか。
少女:ええっ、見当もつかない。
禁煙:ちなみに速度が一定の割合で増加していくグラフはこんな感じ。

少女:一番最初のバスタブの水の量のグラフみたいですね。
禁煙:ええ。一つ目のバスタブに〈速度〉って名札をつけておくわね。
少女:一定の割合で増加していくから、〈入る蛇口〉は最初に決めた数値に固定ですよね。どうしましょう?
禁煙:物を落とす話をしてたから、重力加速度にちなんで9.8にしときましょうか。
少女:速度がどんな風に増えていくかはバスタブ・モデルで表現できましたけど、この後は?
禁煙:ここにもうひとつバスタブを用意してみたわ。二つ目のバスタブに〈進んだ距離〉って名札をつけておくわね。
少女:あとは、このコードだけど、ふたつバスタブがあるから、コードでつなぐってことは予想がつくんですけど。あと、〈進んだ距離〉バスタブの〈入る蛇口〉ってまだ考えてなかったです。
禁煙:というか、それがほとんど答えね。
少女:そうか。貯まって〈進んだ距離〉になるものって……1秒あたり進む度合いって〈速度〉だもの。
〈進んだ距離〉バスタブの〈入る蛇口〉は速度だ。じゃあ、〈バスタブ〉に〈速度〉って名札をつけた一つ目のバスタブと、二つ目の〈入る蛇口〉をコードでつなぎます。

禁煙:じゃあ、バスタブ・モデルを動かしてみましょうか。二つ目のモデルの〈バスタブ〉の値を1秒ごとに記録してね。
少女:できました。

禁煙:これが世界最初の微分方程式だって人もいるわ。落体の運動を研究している時にガリレオが解いたんだけど。
◯空気抵抗のある落下運動
少女:学校では
禁煙:数式のかたちで答えが得られると後で応用しやすいからね。でも、やぼったいバスタブ・モデルにもいいことがあるわ(といっても微分方程式なら当然できることだけど)。いまの2個のバスタブで作った落下運動のモデルだけど、コード1本追加すれば、「空気抵抗がある落下運動」のモデルに改造できるの。
少女:どうしたらいいんですか?
禁煙:ヒント。空気抵抗は、小さな物体がゆっくり動くときには、速度に比例すると考えていいの。速度が二倍になれば空気抵抗も二倍ね。
少女:空気抵抗って減速させるんですよね。今は一個目のバスタブに入っている水の量が速度を表してたから、このバスタブから出ていく=速度をおとすって考えればいいのかな?
禁煙:そのとおり。
少女:じゃあ、〈速度〉って名札をつけたから〈出る蛇口1〉へコードをつなぎます。

禁煙:大正解。じゃあ、またグラフを書いてもらえる? 今度は速度がどんなふうに変化するかを知りたいから、〈速度〉って名札をつけた〈スタック〉の数値を1秒ごとに書きとめてね。

少女:こんなグラフになりました。速度の上がり方は最初は急だけど、どんどんなだらかになっていきますね。
禁煙:うん。高い雲から落ちてくる雨粒は、地上につくころはほとんど加速せずに(速度のグラフがずいぶんなだらかになったところね)、大きさによってだいたい同じ速度におちついて落ちてくるわ。直径1ミリメートルでは毎秒約4メートル、5ミリメートルでは毎秒約9メートルぐらいかしら。
少女:雨が突き刺さらなくてよかったです。
◯ダイエットとやる気のモデル
禁煙:せっかくバスタブを2つ使うモデルが出たから、値が増えたり減ったりを繰り返すモデルも作っておこうか。
少女:実はもうちょっと着いていけなくなってるんですけど。
禁煙:普通はバネの話なんかするんだけど、せっかくだしリバウンドのモデルにしようね。
少女:えっ、狙い撃ち?
禁煙:1つめのバスタブに〈超過体重〉という名札をつけましょう。
少女:超過体重って?
禁煙:理想体重よりどれだけ重いかってこと。当然、理想体重より軽くなったら超過体重としてはマイナスにあるわ。
少女:えーと、バスタブだからマイナスの数とか表せないんじゃ?
禁煙:ほんとはね。少しズルをして、バスタブのデジタル表示をいじってちょうど半分水が入ったときに0と表示するようにしておくの。こうすつとー500から+500までの数字が扱えるわ。
少女:もう一つのバスタブは?
禁煙:〈やる気〉という名札をつけておきましょうか。こちらもマイナスの値が扱えるようにしておくの。
少女:ダイエットのやる気ってことですか?
禁煙:やる気が高いときはダイエットに一生懸命取り組むから体重の減り方が大きい、と考えるのはいいかしら?
少女:ええ。
禁煙:ではもうひとつ。現実的にはもっといろいろありそうだけど、ここは単純に、体重が重いほどより強く動機付けられてやる気も高まる、と考えましょうか。逆に体重が軽くなってくるとやる気も減ってく、ってことね。
少女:じゃあ〈やる気〉のバスタブから〈体重減少〉の蛇口へコードをつなぎます。それから〈超過体重〉のバスタブから〈やる気増加〉の蛇口へもコードをつないで、と。これでいいですか。

禁煙:これもグラフを描いてみましょうか。
少女:体重もやる気も上がったり下がったりを繰り返すグラフになりました。体重のアップダウンをやる気のアップダウンが追いかけてるみたい。あ、でも、これ……

禁煙:なあに?
少女:今のバスタブ・モデルには、さっき出た〈体重が減るほど減り方がゆるやかになる〉って話が入ってませんよね?
禁煙:じゃあ、さっきみたいに〈超過体重〉のバスタブから〈体重減少〉の蛇口にコードをつなぎましょうか。

少女:うーん、こんなグラフになりました。やっぱり体重のアップダウンをやる気が追いかけてるんですけど、アップダウンは同じ大きさじゃなくて形もなんか違いますね。ちょっと言葉で言い表すのは難しいです。

禁煙:このあたりまで来ると、自然言語でなかなか表現できないから、モデルを使って考える甲斐があるって思わない?
◯バスタブ・モデルの正体
少女:バスタブやコードを増やせば、もっと複雑なモデルも作れますか。
禁煙:ええ。たとえばさっきの、2つのバスタブで速度と位置を表すモデルを組み合わせて、車間距離のシミュレーションとかね。

(クリックで拡大)
(岡野 道治他(1997)『理工系システムのモデリング学習 : STELLAによるシステム思考』牧野書店,星雲社 (発売), p78-79 図4-10,4-12を元にVensim PLE用に改変)
少女:えーと、速度と位置を表すバスタブ2つが1セットで、車1つ分なんですね。
禁煙:ええ。とりあえず3台分で作ってみたけれど、後続車は前の車の車間距離と速度の差を見てアクセルやブレーキを踏む(加速や減速する)けれど、車によって対応の遅れに差がある場合ね。先頭車は時速10キロから徐々に加速して、後続車はぶつからないように(「車の位置」のグラフが交差すると、そこでぶつかることになるんだけど)、速度を合わせていく感じになったわ。

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禁煙:こんな風にどんどん組み合わせればいいって言えばいいんだけど、ただ弱点があってね。
少女:なんですか?
禁煙:マイナスの値が使えないってのはさっきのトリックで何とかなったけど、現実問題として水の量を計っているから精度がよくないの。あとバスタブやコードがたくさんになると扱いが大変だし、場所はとるし、今みたいに水浸しになるし。見た目もやってることもベタだから、その点は分かりやすいのだけど。
少女:やってることはシンプルなんだから、コンピュータの上でできたら、バスタブもコードもいくらでも増やせそうだけど。というか、もうあるんじゃないですか?
禁煙:ええ、実はね。アメリカにMIT(マサチューセッツ工科大学)って学校があるけど、60年以上も昔、電気工学の学生としてやってきたジェイ・ライト・フォレスターって人がいてね。戦争中、兵器に自動調整装置を応用する研究室で働いていて、その絡みで戦後も軍のためにコンピュータ(Whirlwind)を開発したり、半自動な防空システム(SAGE)をつくったりしたんだけど、大きなプロジェクトを経験したせいか、進歩を阻害するのは技術的な問題よりも組織運営の問題の方だって痛感したみたい。電気回路や自動調節装置を扱うやり方で組織のマネジメントをモデル化できないかと考え出したの。
少女:リーダーって大変なんですね。
禁煙:ちょうどある大企業で雇用が短い周期で上下する問題があって、みんなは「これは景気が上下するせいだ、つまり組織の外に原因があるから、一企業には解決不可能だ」って言い張ったんだけど、フォレスターさんはそのアップダウンは組織の内から生まれていることを証明したの。
少女:ダイエットのモデルから、体重とやる気のアップダウンが生まれたみたいに?
禁煙:このときのモデルづくりの方法が、やがて企業だけじゃなくて世界とか都市とかいろんなものに応用されるようになって、その後、システム・ダイナミクスと呼ばれるようになるのだけれど。今じゃアメリカだと高校生やもっと下の学校でもやってるみたい。
少女:フォレスターさんもバスタブを使ったんですか?
禁煙:もう少しだけ抽象化したものだったけどね。今日〈バスタブ〉と呼んでたものを〈レベル変数〉、〈蛇口〉と言ってたものを〈レイト変数〉、と言い換えれば、フォレスターさんたちが使った、システム・ダイナミクスでモデルを記述するストック・フロー・ダイアグラムになるわ。というより話は逆で、ストック・フロー・ダイアグラムの、日常的で身近な〈たとえ〉として使われるのがバスタブ・ダイヤグラムなんだけどね。もともとメタファーに過ぎなかったものを、調子に乗って作ってもらったの。
少女:フローと風呂(バス)をかけてるんですか?
禁煙:それは気付かなかったわ。珍しいね、オチは地口オチ?
少女:二秒で忘れて。……でも、これがなんで微分方程式と関係あるんですか?
禁煙:バスタブというメタファーの利点は、微分と積分を、(単位時間に)〈入ってくる/出て行く水の量〉と〈バスタブに貯まる水の量〉っていう日常的に目にするものに置き換えてくれることね。それぞれストックとフローを表しているから当然といえば当然だけど。
少女:ストックとフローってよく聞くけど、よく分かってない気がします。
禁煙:語れば長いけれど、例を上げておくとこんな感じかしら。
フロー | →累積(積分)→ | ストック |
一定期間内に流れた量 | ある一時点において貯蔵されている量 | |
時間を計る単位を変更することで値の変わる変数 | 時間を計る単位の変更によって値の変わらない変数 | |
国民所得 | 国富 | |
預金・引き出し | 預金残高 | |
生産・出荷 | 在庫調 | |
雇入れ・解雇 | 従業員数 | |
速度 | 距離 | |
加速度 | 速度 | |
力 | 運動量 | |
電流 | 電気量 | |
熱伝導率 | 熱量 | |
原子核崩壊率 | 原子核数 | |
化学反応速度 | 濃度 | |
データ伝送レート | データ伝送量 |
少女:じゃあどれがストックでどれがフローなのかを整理して、その間の関係を矢印で結べば、バスタブ・モデルが作れるってことですか。
禁煙:そう。しかも下の4つの表現(バスタブ、ストック・フロー・ダイアグラム、積分方程式、微分方程式)は、同じ内容を表してるの。

(from Sterman, J. (2000). Business dynamics: Systems thinking and modeling for a complex world. Boston: Irwin/McGraw-Hill. p.194 FIGURE 6-2 Four equivalent representations of stock and flow structure - Each representation contains precisely the same information.)
◯バスタブ・モデルをコンピュータ上で動かす
少女:えーと、つまりバスタブをつかって現象のモデルが作れたら、微分方程式も立てられるってことですか?
禁煙:あと、システム・ダイナミクスのソフトを使えば、手を濡らさずにシミュレーションもできちゃう。ダイアグラムをお絵かきすれば、あとはお任せできるソフトがSTELLA / iThinkとかPowerSimとかいくつかあるけど、今回はネットからダウンロードできて個人用・教育用なら無料で使えるVensim PLE(http://vensim.com/free-download/)というソフトを使ってみたんだけど。
少女:ああ、そういうのがあるから中学・高校でシステム・ダイナミクスできるのかな。実際、何してるんですか?
禁煙:「システム・ダイナミクス」って独立した教科があるんじゃなくて、他の科目の内容に結びついてるみたいね。理科や歴史の授業で、環境問題とか文明のモデルをつくったりはもちろんあるけど、今日みたいに数学の授業に使ったり、英語(日本の国語科みたいなの)では文学作品を読んだり。
少女:いや、文学にシミュレーションもバスタブもいらないでしょ?
禁煙:有名なのだと(MIT のオンライン教材集Road Maps: A Guide to Learning System Dynamicsにも採用されてる)、ハムレットが復讐心をこじらせて王さま(クローディアス)を殺すまでのモデルとか。見てのとおり、ストック(私たちがいうところのバスタブ)4つでできてるんだけど。

(クリックで拡大)
(Hopkins, P. L. “Simulating Hamlet in the Classroom”, System Dynamics Review V8 N1, Winter 1992を元にVensim PLE用に改変)
少女:いったい何の意味が?
禁煙:登場人物の感情の高まりを視覚化して時間的変遷を詳細に検討できるとかもあるけれど、一旦モデルを作ってしまえば、モデルやパラメーターを変更して「もし~だったら、どうなったか?」をいくらでも検討できる、というのも大きいわね。
少女:いやシェイクスピアをマルチエンディングにしても……。事業計画とか政策立案の話だったら、確かにそういうのが必要だってわかるんですけど。
禁煙:理解の仕方っていろいろあると思うけど、感情移入して追体験するのもひとつなら、対象にいろいろ働きかけて返ってきた反応を通して知るというのもひとつ。一目見ればわかるシンプルなものならいいけど、相手が複雑なものだと〈やり取り〉を通して分かることも多いって感じかしら。
少女:うーん、いままで文学とか苦手だった子には、ちょっとウケよさそうかな。
禁煙:実験する学問でも、やっている人にとっては、論文に書ける完成品の実験よりも、そこに至るまでのいわば試作品の実験を繰り返してるうちにいろいろ分かってくるものが大事ってところがあるけど。システム・ダイナミクスに限らず、この手のシミュレーションって、社会とか生態系とか実験が難しいもの相手の、実験の代用品ってところがあるの。
少女:あー、でも、なんかの現象からバスタブ・モデルを自分で組み立てられる気がしません。
禁煙:ご希望なら、モデルの作り方は別にやってもいいわね。
(参考文献)
高校の数学の先生が書いた、システム・ダイナミクス・ソフト(この本ではSTELLAを使用)を使った数学の授業の作り方。
Fisher, D. M., & High Performance Systems, Inc. (2001). Lessons in mathematics: A dynamic approach : with applications across the sciences. Lebanon, N.H.: isee Systems.
![]() | Lessons in mathematics: A dynamic approach Diana M.Fisher High Performance Systems 発売元サイトで詳しく見る |
上の本が入手できなかったので、(だいぶ違うけど)次の本を参考にした。
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なお、Diana M.Fisher の別著 Fisher, D., & isee systems (Firm). (2007). Modeling dynamic systems: Lessons for a first course. Lebanon, N.H.: isee systems. については以下の邦訳がある。
![]() | システムダイナミックスモデリング入門―教師用ガイド Diana M.Fisher,豊沢 聡 カットシステム 売り上げランキング : 297160 Amazonで詳しく見る |
この分野の定番教科書。
![]() | Business Dynamics: Systems Thinking and Modeling for a Complex World [With CDROM] John D. Sterman McGraw-Hill Europe 売り上げランキング : 57882 Amazonで詳しく見る |
以下は上の本の翻訳のはずだが、肝心のシミュレーションやモデリングについての記述をごっそり削除している(なんと1000ページを超える原著が500ページ未満の邦訳になるのだから、どれだけのものを省いたか)。
著者スターマンは「システム原型(system archetypes)だ、システム思考だなんて分かった気になってちゃダメ。普通の人は何本もある微分方程式を頭の中だけでは解けないんだから、ちゃんとシミュレーションしなきゃ。」と苦言を呈していたはずだが気のせいだったか。
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ダイエット関連では次の文献を参考にした。ウェイト・マネジメントにシステム・ダイナミクスをガチに導入してる。
浅学非才のうえ寡聞にして、システム・ダイナミクスといえば自治体の作りっぱなしモデルとか『成長の限界』のあれとか大雑把なマクロ・モデルに違いないという(1970年代で時間が止まったような)偏見があったので、新鮮だった。
しかし考えてみれば、アウトカムはきっちり数値で出るし、関連する要因は生化学から社会行動まで多分野に渡るし、そのどれにもフィードバックがかかっているしで、システム・ダイナミクスで扱うにはうってつけのテーマである。
ひょっとすると、ちゃんとしたデータが揃いにくい資源・環境系や、実践しようと思えばエラくなるしかない経営系の事例よりも、この身一つあれば(あと体脂肪計付き体重計があれば、血糖値計があれば言うことなし)がんがん測れて実践できる(しかも不断に我が身に返ってくる=否応なくフィードバックしてくる)ウェイト・マネジメントの方が、システム・ダイナミクスの入門には適しているのではないかとさえ思えてきた。
Abdel-Hamid, T. K. (2009). Thinking in circles about obesity: Applying systems thinking to weight management. New York: Springer.
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オンラインで読めるものでは
・U.S. Department of Energy's Introduction to System Dynamics
合衆国エネルギー省提供のオンラインブック。システム・ダイナミクスの歴史から基礎から説き語り。コンパクト。
・Road Maps A Guide to Learning System Dynamics
初等・中等教育におけるシステムダイナミックスの活用と学習者中心の学習を奨励・支援するCreative Learning Exchangeのサイトにある教材集。かなりのボリューム。
・System Dynamics Self Study - MIT OpenCourseWare
システム・ダイナミクスの総本山MITスローン経営大学院が提供する自習用オープンコースウェア。
(今回使ったソフトVensim PLEについて)
・個人・教育用なら無料で使える(よく本に付いてくるようなお試し版ではなく、モデルの作成も保存も自由にできる)WINDOWS版とMAC版がここからダウンロードできる。
http://vensim.com/free-download/
・マニュアルの邦訳やモデリング・ガイドなど、参考になる日本語ドキュメント(313頁もある)は日本未来研究センターの次のページからダウンロードできる。
http://www.muratopia.net/sd/documents/Vensim6UsersGuide.pdf
・本家のオンラインヘルプ(英語)はここ
https://www.vensim.com/documentation/index.html
・自分でシステム・ダイナミクスのモデルをつくるときに役立つ、よく使うパターンを集めたのがこれ。
なお、この文献にまとめられた全パターンをモデル・ファイルにしたものがVensim PLEにも付属している(Helpフォルダ>Modelフォルダ>Moleculesフォルダ内)。
Jim Hines(1996->2005), Molecules of Structure Building Blocks for System Dynamics Models.
http://www.systemswiki.org/images/a/a8/Molecule.pdf
・事例集 Tom Fiddaman's System Dynamics Model LibraryにはVensimでつくられた様々なモデル(資源・環境系と経営・経済系のモデルが多い)を集められている。
http://www.metasd.com/models/index.html
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