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     いつもはブログの更新をtwitterでつぶやくのだが、逆をやってみる。



    経緯と背景

     おまえのブログの書き方は間違っていると言われたことがある。

     前にどうやってブログを書いているかについて書いた時だ。




     どこがどう間違っているといわれたか、簡単にまとめると、

    ・一つのブログに人が割く時間はせいぜい数分なのだから、その時間で読めない長い記事はダメだ。

    ・長い記事を書くために長い時間がかかるなんて論外だ。

    ・ネタは小出しにして、長いものは切り分けて、まず記事の数を稼げ。

    ・そして更新頻度を上げろ、週1回しか更新しないのはブログじゃない。

    というような話だった。


     あれから随分になるが、申し訳ないことに、ますます逆の方向に行っている。
     記事の長さは長く、更新間隔はさらに長くなっている。

     今のところ改める予定はない。
     「やりたいようにやる」という積極的な理由よりも、
     「ああはなりたくない」というものを避ける算段や工夫を重ねていったら、こうなってしまったので中々修正がきかないのだ。

    (ついでに言うと、いま延々とあること(クーンの記事の後始末のアレ)を調べものを続けていて、そっちに時間を取られてしまってますますブログの更新が減っている)。


     しかし気にはなっていた。

     とくにこれから何か読もうと思っている人向きに書いている記事もあって、そういう人が初めて目にするこのブログの記事が長すぎるせいで回れ右してしまうのは避けたいと思っていた。

     それで、ほとんどブログ更新のお知らせにしか使っていないTwitterを使うことにした。

     140文字以内という縛りなら、さすがにもう少し自制するのではないかと思ったのだ。


     さきほどいくつかサンプルを作って流してみたので紹介する。


    ◯一行要約

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    長い長いといわれるブログの記事を1行ないし1枚にまとめたもの。
    図表の画像を使うという、やや反則技を使えば、大抵の記事は要約可能かもしれない。



    ◯一行書評

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    書評というより惹句だが、本当に好きな書物ほど、うまく言葉が出てこない。
    こういうのを、ちゃんと書けるようになりたいというワナビーな期待を込めて。



    ◯一行名言

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    抜き書きは習慣になっているので、これなら楽そうだと思って。
    モンテーニュの『エッセー』だって、元々は自分用の抜き書き集につけたコメントが肥大化したものだ。
    いわば初心というか、原初状態に戻った心持ちで。
    普通は偉い人や有名な人の言葉を引いてくるのだが、ブログ記事から直に引いてしまった。
    まったく名言ではないが、リサイクルだし、迷惑はかけていない。



    ◯一行知識

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     昔から漫画雑誌の隅っこに書いてある、ああいう役に立たない雑知識が子供の頃から大好きなので。

     上のは、本当はもう少し続きがあって、東部中世ドイツ語のSchmettenは、どうやらチェコ語のsmetanaから来ていて、こいつがボヘミアからザクセン方言に入って18世紀頃には文語にも取り入れられるようになったらしい。
     smetanaはスメタナ、あの「モルダウ川」(交響詩『わが祖国』より)やオペラ『売られた花嫁』で知られるベドルジハ・スメタナのスメタナである。


     あとは「一行ヘルプ」や「一行ポエム」みたいなのができるかもしれない。

    ◯一行ヘルプ

    tweet5.png



    ◯一行ポエム

    tweet6.png


     他にも1行でできることをいろいろ考えてみる。


     あ、ブログの方も頑張ります。それでは、また。




     







     信じられない話ですが、日本では一時期、文学といえば私小説のことでした。

     笑い事ではなく、その災禍はいまも希薄化しながら続いているとも言えます。
     たとえば作家を〈自由業〉だと考える習慣は、この希薄化した災禍の一部です。
     私小説に反対した後続の作家たちの作品も、読者にはほとんど私小説であるかのように、その生活の反映であるかのように読まれました。
     
     では何故、私小説はそんなにも成功を収めたのでしょうか?
     それを知るには、日本の近代文学の歴史を簡単におさらいする必要があります。
     


    1.戯作者上がりの新聞記者

     江戸時代を通じて、執筆専業で食えたのは滝沢馬琴ひとりでした。
     幕末~明治初期にかけて活躍した仮名垣魯文も、戯作者の兼業としては伝統的な売薬を営み、維新後は商品広告である「引札」の執筆で禄をはんでいました。
     やがて日本でも新聞という新しいメディアがはじまり、その会社員となり定収を得ることで魯文ははじめて安定した生活ができるようになりました。
     この新聞社に雇われ安定収入を得るという作家のビジネスモデルは、尾崎紅葉から夏目漱石に至るまで、明治の作家のスタンダードになります。
     その後、魯文は『仮名読新聞』『いろは新聞』といった新聞を自ら創刊主宰し戯文や続き読物を発表していきます。
     これ以後、少なくとも明治18年頃まで、広く見れば明治の終わり近くまで、文芸作品を書いて生活することは、新聞記者となって新聞に作品を書くこととほぼ同義でした。
     
     
     
    2.学校上がりの言文一致

     こうした新聞という新メディアによって成立した文芸は、担い手を見れば江戸戯作の系譜を引き継ぐものでしたが、それとは別のところから、すなわち高等教育を受け外国語を学び外国文学を学んだ人たちから、新しい動きが生まれました。
     明治18年『小説神髄』を書いた坪内逍遙は江戸戯作に親しんだ後、名古屋県英語学校時代にシェイクスピアを知り、東京開成学校(東京大学)では高田早苗からヨーロッパ文学を学びました。『浮雲』で近代口語文体を完成させた二葉亭四迷は東京外国語学校露語科でロシア文学を学んでいました。



    3.新聞文語小説と徒弟制文壇

     一世を風靡した言文一致運動でしたが、それまでの欧化に対する反動が社会に広がる中、それと連動するかのように文芸でも口語から文語への反動が生じました。
     明治二十年代を席巻したのは、直接に江戸読本と連なるものとは別の、尾崎紅葉たちの文語小説でした。紅葉は、共に「硯友社」を結成した山田美妙と同様、逍遙の『小説神髄』の影響を受け、自身も英語を読み西洋文学を摂取しましたが、井原西鶴に傾倒しその手法と文体を模した風俗写実小説で多くの読者を集めます。
     明治20年帝大在学中に読売新聞社に入社し(同時期、坪内逍遥、幸田露伴も入社しています)、“読売の紅葉か,紅葉の読売か”とまで言われるほど文名を上げ,明治中期の最有力作家となったのです。
     紅葉は、その人気を背景に、弟子の作品に手を入れ自分の名前を冠して発表したり、弟子に発表の機会や新聞社での仕事を世話して文壇に君臨しました。江戸時代、戯作者になるためには、先行の戯作者に弟子入りし、その下で修行を積むのが普通でしたが、明治でもこの時期、紅葉に従った者は作家の道が開け、逆らった者には閉じられました。
     


    4.勤務しない自然主義

     明治36年、尾崎紅葉が亡くなり、紅葉を中心とした文壇は次第に解体していきます。日露戦争を経て、これまでの通俗新聞から脱却しようとしていた朝日新聞は文芸でもこれまでの戯作路線をやめるために、明治36年に二葉亭四迷を、明治40年には英国留学帰りの英文学者で『ホトトギス』で人気を博していた夏目漱石を入社させます。
     一方、紅葉に冷や飯を食わされていた田山花袋が息を吹き返し、ゾラら自然主義文学を矮小に勘違いしつつ、新進の作家と差をつけるために身を切る戦略に出ます。
     すなわち女弟子との、みっともない関係を赤裸々に暴露した『蒲団』で、その後の日本文学に瀰漫する私小説に先鞭をつけました。
     この時期の自然主義文学を担った人たちは、進学率の上昇による読者層の拡大を背景にしたジャーナリズムの発展によって、原稿料が上がり、執筆だけでなんとか食えるようになっていました。つまり先輩の作家たちとは違い、紅葉のような師匠のご機嫌を伺うこともなければ、新聞社の勤め人になることもしなかったのです。
     作家が自由業になる時代がやってきました。
     こうして師弟関係からも労使関係からも〈解放〉された彼らに残った桎梏は、(意識の上では)自分の家族関係だけだったわけです。そこで彼らは社会についてではなく、自分の家族(年長の者は自分の妻子や愛人との関係、年少の者は自分の親との関係)についてだけ書くようになりました。



    5.不満インテリの理想としての小説家

     困ったことに、自分や自分の家族についてだけ書いた私小説は売れてしまいました。
     先ほど触れたように、私小説の登場が、ちょうど工業化が進んだり学校が増えたりして読書人口が増加するタイミングとマッチしたところもありました。
     かつては上の学校へ進むのは、人口全体から見ればごく一部のエリートであり、本を書くのも読むのももっぱらこの人たちでした。
     新しく読書人に加わったのは、学校は出たもののエリートにはなれないインテリたちでした。
     学校が増えたおかげで増加したインテリでしたが、働き口はそれに見合って増えた訳ではありません。学校は出たけれど、思ったほど恵まれた職業につけない人が大部分であり、こうした不満階層が新しい読書人の中心でした。
     不本意な職業につき、生活のためには節を曲げていかねばならない不満なインテリたちは、師弟関係からも労使関係からも〈解放〉されて筆一本で生活できるようになった作家というものに、自分の果たせなかった理想の生活を見い出します(今でもこうしたイメージを抱いて作家を目指す人がいますね)。
     こうした不満なインテリたちが、作家の生活を綴った私小説の読者になりました。彼らが買い支えることで、自由業としての私小説作家の生活は維持されたのです。



    6.私生活の商品化
     
     さて新聞社から給料をもらわなくても作品が売れて食っていけるようになった作家たちは、自分たち同業者の小社会、すなわち文壇をつくります。
     文壇では、自分たちプロの作家が書くような私小説こそが文学なりという認識が高まりました。
     これに対して、そもそも文学なんかやらなくても食えるし社会的に高い地位におれる鴎外や、文学なんかやらなくても帝大教授として食えたくせにユーモア小説やディレッタント向けの書斎小説しか書かない漱石などは、(やっかみもあって)文壇の人たちからはクロウト作家とは見なさなくなりました。
     第二次大戦後まで、今日文豪と呼ばれる鴎外・漱石は終わったコンテンツ扱いでした。
     
     赤裸々告白系の私小説は、志向として反=技巧的でした。
     節を曲げて生きなければならない不満インテリである読者は、作家の〈嘘をつかなくても生きられる生活〉にあこがれたので、文章の技巧より、〈ありのまま〉に実際の生活が書いてあることを求めました。
     しかし実際の生活を技巧なしに〈ありのまま〉に書くことなら、作家でなくてもできます。私小説作家は、〈嘘をつかなくても生きられる生活〉を構成する2つの要求=嘘をつかない+生活できるの両方を満たさなくてはなりません。自分の生活を〈ありのまま〉に書くことによってずっと生活していかなくてはならないのです。
     しかし読者は残酷なもので、ただ赤裸々であることに飽きると、より強い刺激を求めていきます。
     文学上の工夫/技巧なしにこれに応えるためには、何しろ「嘘のない生活」が売り物なので、実際に生活の方をより波乱に満ちたものにするしかありませんでした。
     徳田秋声(この人もかつて紅葉に冷や飯を食わされた一人です)のように、あとで波乱万丈の私小説を書くために、実験としてヤバい恋愛をして、わざわざ人生をメチャクチャにする人まで現れました。



    少女:先生を見てると、物心ついたときから触れている私達の方がネットを使いこなしてない気がします。

    司書:そうでしょうか?

    少女:さっきもそうですけど、どこそこの図書館のアーカイブでこんな資料を見ることができるとか、教えてもらってばかりな気がして。

    司書:それはたまたま私がその資料のことを知っていたからでしょう。

    少女:そうかもしれませんが、「たまたま」じゃない気がするんです。

    司書:では、こういうことかもしれません。インターネットを使い始めたとき「なんと便利なものだろう」と思いながら比べていたのは、足を運んで図書館や文書館へ行き、書誌やカードを繰り書架の前を行ったり来たりしながら文献を探すことでした。半日、時には何日もかかった作業が、すべてではないにしろ自室でほとんど数分でできる(ことがある)、という比較の仕方をしていたのです。

    少女:私達にとっては、最初からそういうものというか、日常になってます。

    司書:ええ。それで思い出したのですが、私たちの世代の人間にとっては、調べ物というのは、どこか〈よそゆき〉の仕事であったように思います。たとえば、図書館で調べものにつかう書物は大抵、個人では揃えるのが難しいような高価なものでした。出始めたころの商業データベースなどもそうです。そして、そんな高い敷居の向こうにあるのは、日常生活では決して目にしないだろう光景や、出会うことがないと思える人の考えであり、知識でした。大げさに言えば、調べ物は日常を越え出る旅のようなものだったのです。そしてインターネットは、これも誇張した表現だと思われるでしょうが、一部ではあってもそんな非日常への回路を自室に引き込んだものに思えました。

    少女:私達にはなんだか実感しにくいです。

    司書:あなたの世代にとっては、ネットは〈普段着〉の世界であり、選択の余地のない日常の延長なのかもしれません。たとえばリプライ(返信)しないことが、対面で話しかけられているのにわざと顔を背けて無視することに等しいような。

    少女:確かにあまりに日常的だから、かえって広がりにくいというのはあるかもしれません。普段ネットを介してやり取りするって、ほとんど会って話をする人だし。

    司書:私たちの場合は、近くにインターネットをしている人はほとんどいませんでした。我々の世代にはやはり、いくらか敷居が高いもので、これも大げさに言えば、わざわざ〈挑戦〉するものでしたから。実際、ネットを介して知り合った人たちはみな遠方に住んでいました。

    少女:さっきの話で言うと、日常生活では会うことのないような人たちとやりとりする手段だったということですか?

    司書:ええ。付け加えるなら、彼らの多くはパソコン通信からのユーザーで、一種の〈刷り込み〉なのでしょうか、「ネットする」というのはパソコンと通信回線を介して何かを「読み書きする」ことだと無意識に思い浮かべるようです。写真や動画を投稿したり見たりするのでなく。そういえば、あなたに魚のおろし方の動画を紹介してもらいましたね。

    少女:そういえば、そんなことも。

    司書:あの時、いくつか魚のおろし方の書物を集めていたのですが、最も参考になったのは、実際に料理人の方が魚に包丁を振るっている映像の方でした。そして自分の探し方もまたbookishなものに偏っていることを思い知りました。

    少女:ええ、そんな。

    司書:もう一つ。ある英文に出てくる「lollipop lady」という言葉の意味を尋ねられたことがあります。辞書を引くと「学童道路横断監視員, `緑のおばさん'」(リーダーズ英和辞典)、「学童交通整理員,緑のおばさん」(ランダムハウス英和大辞典)とあるのですが。

    少女:小学生の登校や下校の時間に横断歩道に立って子どもたちが安全に渡れるよういてくれる人ですね。

    司書:では何故 lollipop なのか分かりますか?

    少女:ランダムハウスには、「lollipop(棒付きキャンディー)に似た標識を持っていることから」ってありますけど、キャンディに似た標識って一体?

    司書:私も同じ疑問を持ちました。氷解したのは、Adrian RoomのDictionary of Britain (Oxford University Press,1986)を翻訳した『英国を知る辞典』(渡辺時夫 監訳、研究社出版, 1988)を見てからです。原著のDictionary of Britainは、当たり前すぎて文献にわざわざ書かれないような、イギリス文化のあらゆる領域における〈日常の秘密〉を解きあかしてくれる辞書ですが、訳者たちは原著にはない写真(イギリス滞在中に訳者たちが撮影したものです)をたくさん翻訳書に追加してくれています。「lollypop lady」の例は、訳者たちの序文にも出てくるのですが、写真を見れば「lollipopに似た標識を持っている」というのは一目瞭然です。


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    少女:ほんとだ。この本、すごく面白いです。

    司書:ですが今では、Googleで単純に「lollipop lady」を検索すれば、辞書や事典とともに画像まで見つかります。

    google_lollipop.png


    少女:簡単すぎて、ちょっとがっかり。旅行に出かけそこなった気分です。

    司書:そう思われるのはおそらく、我々が先に〈寄り道〉をしたからでしょう。旅というなら、行き先に到着することだけが目的ではありませんから。

    少女:『英国を知る辞典』って辞書、知りませんでした。Googleで探していたら、すぐに答えはわかったけれど、この辞書と会うことはなかったと思います。

    司書:検索エンジンのような全文検索が使えない時代には、「それは何に属するのか?」を推測することが探しもの主たるアプローチのひとつでした。「何に属しているか」から「どの本に載っていそうか?」を推測し、その本を一通り見てダメなら次の候補に当たる、という繰り返しです。そこでは〈寄り道〉は、半ば強いられたものでした。ある特定の事項だけを一本釣りで引き上げることはできないかわりに、どんな分野にどんな探し物のツールがあるのかを実地に当たっていく訳です。探しものに関して、あなたと比べて私がより多く持っているとすれば、こうしたまわり道や寄り道の経験なのだろうと思います。