無知:たのもう、たのもう!
親父:あいつ、このところ来過ぎだろう。家の前で大声出すな。裏へ回れ。今日はなんの用だ?
無知:今日は一年の計を立ててきました。
親父:もう2月半ばだぞ。
無知:今年こそ、英語をものにしたいんです。なんとかしてください。
親父:死ね。
無知:いくらなんでも、あんまりです。
親父:こっちのセリフだ。 お前が欲しいのは、食えば話すのも聞くのも不自由なくなる、ひみつ道具か? そんなものがあるなら、世の語学教師は残らず失業だろう。
無知:大丈夫です、秘密にしておきますから。
親父:世界を出し抜ける秘密がお前なんかのためにまだ残されてると本気で信じているなら、何も言うことはない。有料メルマガに登録しろ、情報商材を買え、そしてカモになれ。
無知:待ってください。努力する気はありますが、やり方が分からないんです。
親父:では、最も大切なことを言ってやろう。まず始めろ、あとはやり続けろ。
無知:当たり前じゃないですか。
親父:そうとも。大抵の人間は途中でやらなくなり、そしてまた思い出したように始めるが、これでは当然同じようなレベルに永遠に留まる。ダイエットと同じことだ。
無知:ぐはっ、血を吐きそうです。……では、やり続けるやり方を教えて下さい。
親父:やれやれ。挫折する人間(つまり大抵の人間)が思い描く成長曲線は、このグラフのように直線的に右肩上がりだ。しかしこれは現実とは違う。最初のうちは努力や学習時間に比例して直線的に上達しているように感じるが、やがて上達の速度は鈍化して、成長曲線はなだらかになる。これが語学学習でよくいう〈中級の壁〉の正体だ。

無知:はじめて聞きました。
親父:ヒトは自分が今どの水準にいるかではなく、自分が持つ基準から見てどれだけ増えたか減ったかに反応して一喜一憂する、度しがたい生き物だ。直線的成長を基準にしてしまうと、上達の鈍化をまるで悪化や損失のように感じることになる。実際はわずかでも進んでいるのもかかわらず、だ。
無知:そりゃ頑張ってるのに、成果が感じられないなら、やめたくもなります。
親父:要するにそういうことだ。学習のコストパフォーマンスばかり気にしてる奴は、自分の伸び悩みに耐えられない。学習にもビギナーズ・ラックみたいなものがあるから、たまたま最初に触れたやり方が合っていて、何よりまだ何にも知らないしできないから、わずかな進歩を大げさに喜んで学ぶのがますますおもしろくなっていく、モチベーションと努力の好循環に入ることだってあるだろう。オレって才能あるんじゃね?状態だな。
無知:待ってました!

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親父:心配するな、こんなものは早晩行き詰まる。ビギナーズ・ラックが見せてくれるのは初心者が行けるところまでだ。成長は鈍化し、努力を続けているはずなのに、伸びなくなる。語学の語彙の例が分かりやすいが、たとえば初心者のうちに学ぶべき語彙は最頻出のものばかりで、学んだことがすぐに使えるし、実際目にもする言葉ばかりだ。語彙力がつけばつくほど、学ぶべき言葉はあまり出会わないものになっていく。学ぶ努力に対してご利益は少ないし、頻繁に合わない言葉は定着だってしにくい。学習が進むほど、学習のコストパフォーマンスが低下していくのはやむを得ない。おまけに実力がつくほど、自分の実力に対する見方はシビアになってくるから、自分ができないことに対する感受性が高まって、これもモチベーションを下げる要因になりかねん。
無知:その〈中級の壁〉はどうやったら超えられるのですか?
親父:造作も無い。続けることだ。よほど理由がないかぎり、やり方も投下する時間も変えない方がいい。あせって学習時間を増やしても、一時的ならともかく長続きしない。〈中級の壁〉は一時しのぎのカンフルでなんとかなるものじゃない。やり方を変えると、そっちの方面で初心者効果が得られて気持ちいいものだから、学習法を取っ替え引っ替えする誘惑には抵抗しにくいものだが、問題の根本的解決になってないのは分かるだろう。もっとも今までの学習法が極端に偏っていた場合は、他のやり方との相乗効果が見込める場合もある。
無知:すいません、最後のはよく分かりません。ちょっとイメージできないというか。
親父:これも語学の例を出すと、ぶっちゃけ語学検定の最初の2つくらいの級だったら、その級のテキストと音声教材使って、ディクテーション一本槍でもなんとかなったりする。で、こいつの場合、いままでディクテーションしかしてこなかった訳だから、行き詰ったら、今度は文法をちゃんとやるとか、別のやり方に取り組む好機だってことだ。最初からバランスよく学習してきた場合は、その限りではない。
無知:結局、どうやったら続けられるか、という話に戻るんですね。
親父:直線な成長曲線と乱高下するリアルなそれのことを思い出すと(google先生に「learning curve」と尋ねるといい)、スランプに陥ったとき少しくらいは慰めになるかもしれん。何かをちゃんと学んだことがある者なら当たり前に知っていることだが、大きく伸びる前には長い停滞があるってことだ。まあ、それも大きく伸びた後だから言える話だけどな。
無知:もっとヤル気が出るような話をしてくださいよ。
親父:まあ、しかし〈中級の壁〉に突き当たり引き返す〈その他大勢〉の人で終わるのも悪い話ばかりじゃない。何でも同じことだが、何かを学び続けることは、それに費やす時間だけ別のものをあきらめ続けることだ。学習のコストパフォーマンスといったが、実際、そいつが判断するのは、それを学ぶことから得られるメリット(それを得られないデメリット)と、その時間を別の何かに費やして得られるメリット(それを得られないデメリット)だからな。たとえ英語に挫折しても、それはお前さんにもっと大事な別の何かがあったということなんだろう。達者でな。
無知:なんで挫折前提なんですか。
親父:学ぶことは結局のところ、自分の馬鹿さ加減と付き合うことだ(慣れ合うことじゃないぞ)。つまり、より長く学ぶことは、それだけ長く自分の頭の悪さに直面し続けることだし、より深く学ぶことは、それだけ深く自分の間抜けさと向かい合うことだ。〈中級の壁〉を超えて向こうへ進む奴の多くは、費やす努力に見合うものが手に入らなくても、他にもっと楽で得な選択肢があったとしても、もうそれを学ぶことを止められないバカだとも言える。才能の限界が見えようと、スランプに陥ろうと、若輩者がどんどん自分を抜いていこうと、病気や事故か何かでそれまで得たたくさんのものを失おうと、もうそれを学ぶことなしにはいられないから続けるんだ。コスパの勘定ができないから馬鹿だし、繰り返し馬鹿であることを自覚させられるから(謙遜抜きに)自画像的にも馬鹿だろう。だが〈中級の壁〉を超えて、ずっと先まで行くのは、そういう馬鹿だ。
(参考記事)
で、小説の文章は、場面、説明、描写からできているという話をしました。
今回は、そのなかで一番難しくて、「もう少し詳しく」というリクエストがあった、描写について考えます。
初級編なので、描写がとことん苦手な人のために、取っ掛かりになる考え方をひとつだけ取り上げます。
思っているまま言葉にしても伝わらない
作文で「(遠足に行きました。)楽しかったです。」とだけ書いて止まってしまう子供たちがいます(小学生並みの感想)。
作文指導だと先生は「どう楽しかったのかを書こう」と促します。
しかし、その子の中では〈楽しかった〉で完結しているので、どうもこうもありません。
これは何も子どもだけの話ではなく、人数で言えば大半の大人がほとんど同じです。
我々はほとんどの時間、世界を要約的に捉えています。
でないと世界から受け取る情報量が多すぎて処理できません。
要約的に捉えた世界を、捉えたままに書き出せば、当然ながら要約的な文章になります。
遠足では色々あったけれど、様々な出来事や印象は混ざり合い、あるいはろ過されて、心に残ったのはただ〈楽しさ〉だけなのだから、心のままに書くならば
「楽しかったです。」
だけで正解なのです。
では何故、要約的に説明する以上の文章表現があるのでしょうか。
それは〈自分の思っていることをそのままに言葉にしても、基本的に相手に伝わらない〉からです。
書くことについて学ぶべき半分は、この一言に尽きます。
自分が〈楽しかった〉から「楽しかった」と書いた。「楽しかった」と書いてあるのだから、読む人もそう思え、〈楽しい〉気分を共有しろ。なんてことが通用するなら、あらゆるノートはデスノートとなり、ドラえもんのひみつ道具「シナリオライター」※を世界中の人が使い放題になるでしょう。そう、ペンと紙さえあれば、世界はあなたのものです。
※「ライター芝居」に登場ー『ドラえもん』てんとう虫コミックス第8巻に収録
しかし他人が書いた「楽しかったです。」という言葉を読んでも、読み手は楽しくもなんともありません。
同様に「花子は誰からも愛される美しい娘だった。」という言葉だけでは、読み手は花子さんを好きになったりしません。ドキドキもしません。
しかし、小学生向けの作文指導では「まず言葉に絶望しろ」と言うわけには行きません。
なので、もう少し具体的なアプローチが採用されます。
五感をつかってみる
一つの出来事について、視覚、聴覚、嗅覚、触覚、(味覚)、で感じられるものを考えます。このワークも、とりあえず最初は出せるだけ出して数を稼ぎましょう。使うかどうかはあとで考えるのです。意識して色んな角度から細かく物事を見る(つまり要約的でない見方で見る)トレーニングです。
・視覚(みるもの)…色、光・影、形
・聴覚(きくもの)…声、音、響き、言葉
・嗅覚(におうもの)…匂い、臭い、香り
・味覚(あじわうもの)…味、歯ごたえ、舌触り
・触覚(ふれるもの)…感触、温度、刺激
さて「描写の書き方」というと、このような五感による表現をむやみに勧めるものが多いようです。
けれども、比喩や他の表現についても同様ですが、感覚表現についても無駄遣いは避けるべきです。使いすぎると飽和して、その価値が減じます。感覚表現のインフレです。
とくに数打てないはずの嗅覚描写を、あちこちで使いまくるのはもったいないです。部屋を移るごとに必ず五感すべてを使って描写するとか、どこにでもある朝食の場面でわざわざ味噌汁や焼き魚の匂いを書き連ねることが本当に必要あるでしょうか?(それが見せ場ならともかく)
そこで何が起こっているか?ー描写を支えるものの見方
〈五感を使う〉で体が温まってきたところで、一歩進んで、もう少し普遍的なアプローチを考えてみます。
ここで導きとなる問いは「そこで何が起こっているか?」です。
単純な例として〈雨降り〉を考えましょう。
教室でなら、教師が生徒に「雨が降るとどうなるかな?」とブレインストーミング的に思いつくかぎり数多く挙げさせます。出てこない場合は「空はどうなる?」「地面はどう?」「人は?」と助け舟を出したりします。
つまり「雨降り」に付随する状況や事象を出せるだけたくさん出すわけです。使うかどうかはあとで考えます。
(空は?)・暗くなる ・雲でいっぱい ・分厚い雲 ・雷ひかる
(地面は?)・濡れる ・べちゃべちゃになる ・水たまりできる
(人は?)・傘をさす ・傘が無いから走る ・屋根のあるところに隠れる
たくさん出たら、分類します。
雨が降る前→降り始め→…→雨上がり…と時間の順番に並べ替えたり、霧雨<小雨<本降り<土砂降り…と雨の強弱で並べたりします。順序×強度で表に整理するのもありです。
ここまでできれば、出てきた表現からいくつか選んで、つなぎ合わせれば、なんとか雨降りの描写っぽいものをつくることができます。たとえば
暗くなってきた。空が厚い雲でいっぱいになる。あちこちで傘が開く。傘のない子が屋根の下へと走り出す。雨が降ってきた。
主題の言葉を使わずに表現する
上の段階ができるようになると、表現したいものを直接的に言葉にせずに表わすことに進めます。
いわゆる「間接描写」というやつです。
たとえば〈雨降り〉を、「雨」や「降る」という言葉を使わずに表現するわけです。
いきなり難しい時は、上の2つのワークをやってみて、描写表現をブレインストーミングなどでリストアップしてから、チャレンジするといいでしょう。
「美しい女」「年老いた男」を抽象描写といますが、これらは何も描写していません。単なる説明です。いやむしろ、文章に登場する女や男について、読者にどう見て欲しいかをあからさまに伝える書き手からの〈お願い〉です※。
※バルザックという、基本的に読者を信用することができなかった小心な作家は、さんざん描写した後で、どうせ読者は書いていることが分からないだろうと、「美しい女」みたいな説明をダメ押ししました。
先に間接描写で地ならししておいて、それでもピンと来ない分かりの悪い読み手のために(要するに)「美しい」のだとダメ押しするとか、先にうっかり「美しい」と書いてしまったなら、後で間接描写で周りを固めて「そういうことなら美しいと認めてやってもいい」と読み手に納得してもらうとするのはバルザックがよくやる手です。
本人は描写によって〈証明〉をやっているのだと思っているのですが、読み手には書き手がここの箇所ではどう思って欲しいのかがあまりに露骨に見えるので、肝心の描写は読み飛ばしても差し支えないことになります。そしてバルザックを読む人は大抵そうするのです。
描写とは、そういったものではなく、その「美しい」「年老いた」といった説明を、言葉によって裏付けるものです。
さっきの例では〈雨降り〉を描写するために、「そこで何が起こっているか?」と自問自答して、〈雨降り〉に付随する現象を集めました。
最後の「雨が降ってきた」というフレーズ抜きでも、多くの人は雨が降ってきたと思うはずです。
「暗くなってきた。空が厚い雲でいっぱいになる。あちこちで傘が開く。傘のない子が屋根の下へと走り出す。」
間接描写を支えるものー認知的根拠
ひとつの言葉は他の言葉とつながっています。
たとえば「雨」という言葉は、「晴れ」や「雪」といった他の天気とつながりを持っていますし、「降る」や「落ちる」「ぱらつく」といった動詞や、「傘」や「合羽」といった名詞、また「沛然と」「潸々と」「蕭々と」「滂然と」といった副詞、「車軸を流すように」「天の底が抜けたように」「バケツを引っくり返したように」といった比喩、「ぱらぱら」「ぽつぽつ」「ぽつりぽつり」「ざあざあ」「ざあっと」「しとしと」「じめじめ」といったオノマトペなどとも関係があります。
われわれのメンタル・レキシコン(頭の中の語彙目録)は、こうしたネットワーク状になっていると考えられています。

したがって「雨」という言葉を使わず、雨を思い浮かばせるためには、メンタル・レキシコンで「雨」と隣接している言葉をいくつか出すのが基本戦略になります。
次の図のそれぞれの円は、雨に関係ある言葉がそれぞれに持つつながり、広がりです。これを重ねることで、すべての円が重なる中心として「雨」が浮かび上がるとことをイメージとして描いてみたものです。

応用例:美人を間接描写する
この方法は(五感を使うアプローチとよりも)応用が効きます。
たとえば「美人」を表現するのに「美しい」という言葉を使わずに表現するのに、このアプローチは使えます※。
※ 元より「美しさ」といったものは、言葉で言うのはとても難しいものです。
形状をどれだけ細かく記述しても、形を伝えられても、美しいと思ってもらえるかは疑問です。努力を費やすべき方向は別にあります。
もう分かりますね?
美人がいるとして、「そこで何が起こっているか?」と自問自答して、付随する現象や出来事を集めてみるのです。
美人の間接表現には、伝統的に2つのアプローチがあります。
ここではそれらを〈白雪姫〉アプローチと〈かぐや姫〉アプリーチと呼んでみます。
〈白雪姫〉アプローチとは、「美人がいるとして、そこで何が起こっているか?」という問いに「同性が嫉妬している」と答えるものです。
白雪姫が7歳になったある日、王妃が魔法の鏡に「世界で一番美しい女は」と訊ねたところ、「それは白雪姫です」との答えが返ってくる。怒りに燃える王妃は猟師を呼び出すと、白雪姫を殺し、証拠として彼女の肺臓と肝臓(※作品によっては心臓となっている)を取って帰ってくるよう命じる。
(引用元:白雪姫 - Wikipedia)
〈かぐや姫〉アプローチとは、「美人がいるとして、そこで何が起こっているか?」という問いに「異性が求愛している」と答えるものです。
翁が見つけた子供はどんどん大きくなり、三ヶ月ほどで妙齢の娘になったので、髪を結い上げる儀式を手配し、裳を着せた。この世のものとは思えない程の美しさで、……(中略)……世間の男は、その貴賤を問わず皆どうにかしてかぐや姫と結婚したいと、噂に聞いては恋い慕い思い悩んだ。その姿を覗き見ようと竹取の翁の家の周りをうろつく公達は後を絶たず、彼らは翁の家の垣根にも門にも、家の中にいる人でさえかぐや姫を容易に見られないのに、誰も彼もが夜も寝ず、闇夜に出でて穴をえぐり、覗き込むほど夢中になっていた。
(引用元:竹取物語 - Wikipedia)
ここまで来ると、単なる描写表現というより、人物造形のためのエピソードの構成の仕方になってきますが、言葉によって何か表現する際に「そこで何が起こっているか?」という問いかけは、様々なレベルで有効であることがわかります。
〈かぐや姫〉アプローチには、求愛者である登場人物たちの行動に、読者にも同調してもらおうという狙いもあります。社会的証明というやつです(他人がどう行動しているかを見て自分がどう振る舞うべきかを決めるのは人間の仕様です)。
読者がヒロインを魅力的であると思ってもらうために、ヒロインを魅力的だと思っている登場人物を複数を出すわけです。
登場人物たちが〈ヒロインを魅力的だと思っている〉ことを描写するためには、さらに「そこで何が起こっているか?」と問い、〈ヒロインを魅力的だと思っている〉はずの彼らはどんな場面でどう行動するかを考えていきます。
(参考記事)