あまり無いことだけど、少し前に「読書猿というブログをやっている」と自己紹介することがあった。
続いて、このブログがどういうものなのか、手短に説明することになった。
正直、このブログのスタイルや取り扱っている内容は、目指してこうなったものではない。
したくないことやできないこと、ああはなりたくないなと思ったこと等を取り除いていって残ったのがこんなもの、という消極的な成り立ちによるので、軸のようなものがない。つまり一言でこうだというのが難しい。
それで結局「とてもささやかな灌漑工事を、スコップと手作業でやっているようなもの」とよく分からないことを言ってお茶を濁した。
「灌漑工事」というイメージは、子供の頃、雨が降るとやっていた、土の上にできた水たまりに取り付いて、手と指で溝を掘り、溝と溝をつないで、自分が思う場所へ泥水を導いていく遊びを思い出して出てきたもので、個人的過ぎて、あまり伝わったようには思えなかった。
しかし改めて言葉にしてみると、このブログでやっていることは、その〈灌漑工事〉だという気もする。どこかに何かをつなぐための水路を掘るみたいなこと。
このブログに書いてあるようなことは、正直なところ、図書館とインターネットが使える環境にあれば、誰にでも書ける程度のものである。
では、書く意味なんて無いと思っているかといえば、そうでもない。
誰でも使える時間は有限であり、一つのブログ記事を書くのに費やした時間の1/1000でも、記事を読んでいる人の時間を節約できるのであれば、少しくらいと意味はあると思う。
自分も、そうして誰かが費やしてくれた時間によって助けられてきたのだから、それくらいはしても罰は当たらないはずである。
そして、とりわけ自分を助けてくれたものに、図書館とインターネットがある。
この二つは、いろんな人の時間と努力と知的営為を、自分に繋ぎ、届けてくれた。
私のように、本を読むのも考えるのも遅い人間には本当にありがたい話で、そこから得た恩恵を、ほんの少しだけ返しているつもりなのである。
どこに返せばいいか本当はよく分からないのだが、だから溝を掘ってどこかにつなげる〈灌漑工事〉ですらないのだが、それでもネット上に放流しておけば、いつか必要な人のところに届くかもしれない。可能性はとても低いが多分ゼロではないだろう。
「知的生命はなぜ我々にメッセージを送ってこないんでしょう?」
「その悩みは、そのまま思春期の悩みだと思わない?」リンダは云った。「遠くから女の子を見つめていたことはない? ただ見つめているだけなのに、コミュニケーションしているつもりになってしまう。そして、むこうはこちらの名前すら知らないのに、何故思いが通じないのだろうと思ってしまう。ぼくは彼女が何時のバスに乗るか、どの教科が得意で、友達とどこで昼食を食べるか知っているのに。ぼくは彼女の家までの道順をそらで云えるのに。ぼくは彼女の好物を知っていて、絵が上手なことを知っていて、合唱コンクールの何列目の何番にいたかまで知っているのに、なんであの娘はぼくのことを知らないのだろう----とね」
「なぜコンタクトしてこないのか? 我々がコンタクトをしようとしたかどうかにその答えはあるでしょう。オズマ計画のように、教室の窓からグラウンドの彼女を見つめていたことはあるわ。でも彼女に話しかけたことはある? 電話はおろか、手紙だって書いたことがない」
「でもボイジャーは?」
「あの気取った判じ物? あんなもの、ヒマラヤの山頂にいる友人に届けと念じて、ミシシッピに瓶を流すようなものよ」
(水見稜『マインド・イーター』「迷宮」)
引用した小説は、ほとんど小説を読めなかった頃に繰り返し読んだ大好きなもの。
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