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    『独学大全』という本を書きました。
    2020年9月29日、ダイヤモンド社から刊行します(電子書籍は10月21日配信予定です)。

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    タイトル:独学大全 絶対に「学ぶこと」をあきらめたくない人のための55の技法
    著  者:読書猿
    発  行:ダイヤモンド社
    判  型:A5変型判
    分  量:788ページ
    価  格:2,800円+税
    ISBN:9784478108536
    発売予定:2020年9月29日(書籍)
         2020年10月21日(電子書籍)



     独学に必要と思われる、ほぼすべての技術を盛り込むために、自分が過去に書いたものを含めて、古典文献からSNS上での発言にいたるまで幅広く渉猟しました。
     こうして集めた先人の知見を55の技法にまとめ、「何故学ぶのか」(動機付けと継続に関する技法)、「何を学ぶのか」(学習資源と資料を探し出し吟味する技法)、「どのように学ぶのか」(読み、記憶し、理解するための技法)の3部構成に配しました。
     付録の第4部では、独学を学ぶ基礎となる、母語(国語)、外国語、数学を学ぶことを扱い、この本で紹介した技法をどのように組み合わせて独学を進めていくかの事例を示しています。
     前々作『アイデア大全』、前作『問題解決大全』と同様、ハウツー(やり方)のみならず、その背景を掘り下げた〈道具箱としての人文書〉となっていると思います。

     『独学大全』の具体的内容については、末尾の資料編、「目次」と「困りごと索引」をご覧ください。



     以上で、新著刊行についての告知としては、必要最小限のことをお伝えしたと思います。

     以下では、ある意味余分なもの、著者がなぜこんなものを書いたのか、頭の中と胸の内について、いくつか書いてみたいと思います。




    なぜ「大全」という本を書くのか?

     よく尋ねられる質問に「なぜお前の書く本は『大全』などと名乗るのか?」というものがあります。
     おそらくその質問には
    「お前なんかが『大全』なんて大げさなタイトルをつけて恥ずかしくないのか。それで全部書いたつもりか?」
    「ただ雑多な技法を数を揃えて並べただけの書物が「大全」などと名乗ってよいのか?」
    という含みがあるのだと思います。

     実は、今回の本の企画を進める中で、「『大全』というタイトルはやめないか」という提案がありました。「同じようなタイトルの本が増えていて紛れるから、差別化のために」といった理由だったと思います。
     しかし、せっかくの提案に対して
    「なんで僕の方が逃げなきゃいけないんですか?」
    と生意気なことを言って、『独学大全』という題を押し通しました。

     先程の「お前なんかが『大全』なんて大げさなタイトルをつけて恥ずかしくないのか。それで全部書いたつもりか?」「ただ雑多な技法を数を揃えて並べただけの書物が「大全」などと名乗ってよいのか?」という問いは、3年半、この本を書きながらずっと、繰り返し自分の胸の中に持ち続けてきた問いです。
     それだけ、独学の本を書くにあたって「全部書く」ことに、そして集めた要素を組織立てて構成することに、こだわって来ました。
     言い換えれば、従来の類書(勉強本や独学指南書)には欠けたもの、足りないものがある、と思っていました。
     これはまた、もう一つの問い、「世の中には既に数え切れないほどの勉強本や独学指南書があるのに、何故いまさら新しい本を書くのか?」に対する私の応答でもあります。

     もうひとつ、ずっと意識してきた書物にトマス・アクィナスの『神学大全』があります。
     邦訳で全45巻あるこの大著は、当該分野(神学)についてのあらゆる議論を収め注解したものであるだけでなく、あくまで初学者のための書物であることを貫いています。
     トマスはその序文で、これまでの類書が、神学上の知識・議論をただ集めただけで、見通しのよいように整理されてもいなければ、体系づけられてもいないことを非難し、初学者をいたずらに迷わせるばかりであると指弾します。そして、これこそが自分が『神学大全』を書こうとする理由だと述べ、この大著をはじめるのです。



    従来の勉強本に何が足りないのか?

     では、従来の勉強本は足りないのはいったい何なのでしょうか?
     確かに勉強本は、いろんな勉強のやり方を手を変え品を変え提供してくれますが、その最大の問題であり限界は、ハウツー本である(でしかない)ことだと思います。
     そこにはHow to learn(どのように学ぶべきか)はあっても、What to Learn(何を学ぶべきか)そしてWhy to Learn(何故学ぶべきか)は望むべくもありません。

     けれども、独学者にとっては、これでは不十分だと思います。
     独学者は、誰かに教材を与えられてそれを学ぶのではなく、「何を学ぶか」から「どんな教材をつかってどのように学ぶか」まで自分で決める(多くは決めなくてはならない)からです。
     自分が知りたい/学びたいものは一体何か、それには何を学べばいいのか、そうしたことはどこを探せば分かるのか。これらの疑問に誰かが答えてくれることを、独学者の多くは期待できません。ならば、こうした問いに答えるための知識や情報、そして技術が、独学者のための学習本には必要なはずです。

     そして、もっと大切なことがあります。
     何かを学ぶことは、多くの場合、長期に及ぶ大事業となります。
     しかしヒトという生き物は、体温を一定に保つメカニズムは持っていても、意志を保つ機能を持ちません。
     独学者にとっての最大の困難は、学び方が分からないというより、いろんな外的内的な要因から学び続けることができず、途中で挫折してしまうことです。
     こうした最も大切な点を多くの学習本は等閑視します。

     これには「商品としての学習本」に付随する理由があると思います。
     多くの実用書、ビジネス書は、実のところ、実際に役立つノウハウを提供するというより、「これをやれば自分もうまくいくのだ」という心地よい気持ちを売っている商品です。
     こうしたポジティブ・バイアスを強いられることから、多くの学習本は、挫折のようなネガティブなイベントを取り扱いません。
     読者は、こうして本を読んでは試しはするものの、いつしか学ぶことを中断してしまい、忘れた頃にまた別の学習本を手にする、そんな繰り返しに陥ります。

     『独学大全』の最初に書きましたが、誰にも見張られず進捗を管理されない独学は、ほとんどの場合、途中で挫折します。
     本当に役に立つ独学本を書くのであれば、この事実から始める他ないと思います。

     中断を含む恣意に流れやすいことは、独学の欠点ではありますが、しかしまた、独学の自由(何をどのように学ぶか自分で決める)の裏面にあるもの、すなわち独学の本質に根ざすものです。
     学び始めることも、やめることも、独学者自身が決めることができるからこそ、独学の完遂率は、例えば学校で学ぶことよりも低いものにとどまります。
     (現代の教育工学と情報技術を駆使したMOOCの完遂率が、たとえば戦前日本の通信教育、早稲田講義録の完遂率とほとんど同じ10%前後であることは、独学者にとっても参考になるかもしれません)。

     ここで独学の先人である、本居宣長の言葉に耳を傾けましょう。


    詮ずるところ学問は、ただ年月長く倦うまず怠おこたらずして、はげみつとむるぞ肝要にて、学びやうは、いかやうにてもよかるべく、さのみかかはるまじきこと也。いかほど学びかたよくても、怠りてつとめざれば、功はなし。

    (ようするに、学問は、ただ年月長く倦まず怠らず、励みつとめることが肝要なのだ。学び方はどのようであってもよく、さほどこだわることはない。どんなに学び方がよくても、怠けてしまってはその成果はおぼつかない。)

    本居宣長『うひ山ぶみ』』(講談社学術文庫、2009)、53 ‐54頁



     宣長もいうとおり、どのように学ぶは、学び続けることと比べれば、些事にすぎません。どれだけうまく学んでも、学ぶことをやめてしまえば何もなすことはかなわないからです。
     『独学大全』では三部構成のうち、第一部をこの問題の解決に当てました。
     ここに集めた「つづけるための技術」を実践することを通して、独学者は繰り返し「自分は何故学んでいるのか」に立ち返ることになります。
     あえて高らかにビジョンなどかかげなくとも、周囲に色よい顔をされないにもかかわらず学び始めた人の胸には、その人を学ぶことに向かわせた何かが宿っています。そしてこの小さな何かこそ、挫折した場合にも人を再び学ぶことに立ち戻らせるものに他なりません。
     学ぶことのはじまり、その小さなきっかけに、自分が行動する理由を繰り返し結びつけ再組織化することで、人は自らを独学者として育てていくのです。



    「学習法」とはどんな技術か?

     「学習本」について、もうひとつ指摘しておくべきことがあります。
     実用書のすべてが「ポジティブな勘違い」だけを提供するわけではないように(つまりいくらか役に立つノウハウについても提供するように)、「学習本」もまた実際に役立つ学習法についても提供します(本によって当たり外れは当然ありますが)。

     しかし、これら役立つ学習法は、その本質上、脳をだます技術、誤動作させるテクニックに他なりません。
     このことをもう少し詳しく検討するために、「我々(ヒト)はなぜ勉強が苦手なのか」について考えてみましょう。

     我々の多くは、少なからぬ時間、学校で学んだ経験を持っています。
     そしてまた、長い時間かけて学校で学んだことを、あまりよく覚えていないという経験を共有してもいます。
     あるいはまた、一生懸命学んだことなのに、日をおいて確かめてみると、驚くほど多くを忘れていることに愕然とすることがあります。
     「忘れるのは人間の仕様だ」と言いたくなるほどです。

     しかしヒトは、あらゆることを忘れてしまう訳ではありません。
     極端な例を出しましょう。
     ガルシア効果として知られているものですが、ヒトは食べて身体の調子が悪くなった食べ物をたった一回で覚え、生涯これを忘れません。
     食あたりしたという出来事を「アタマ」が忘れてしまっても、その食べ物を見ただけで気分が悪くなり口に入れれば吐き気を覚えるなど「カラダ」が覚えているのです。

     学校で学んだこと、あるいは、自ら本などから学ぶものとの違いは、この「記憶」が生き物としての生存に直結する情報である点です。
     これに対して、我々が学校で学んだり、本を読むことで知る情報の多くは、「生き物としての生存」という観点からすれば、不可欠のものではありません。
     思えば、文字や書かれたものから学ぶことは、高々数千年前に始まった「新しい」技術です。
     長い進化の過程で獲得されたと考えられるヒトという生き物の生得能力(生まれつきもっている能力)がカバーする範囲の「外」にあったとしても不思議ではありません。

     私たちは文字を、読み書きすることを、後天的に学習する必要があります。

     我々は生得能力がカバーする「生存に直結する情報」ならば容易に学習できますが、カバ一外の事項についてはその限りではありません。
     ヒトが文字を発明し、それ以降に蓄積できるようになった知識は、我々が生得能カを獲得した長い進化の歴史で考えれば、つい最近に登場した新参者であり、生まれつき備わっている能力でカバーできるものではありません。
     我々が普通「勉強する」対象は、こうした文字で書かれたものや、それによって蓄積が可能になった知識です。つまり生き物としてのヒトからすれば、取り扱うのが得意とはいえない情報です。
     むしろ自然には身につかないものであるからこそ、ヒトは学校を含む様々な教育の方法や仕組みを「人工物」として作りあげたとも言えます。

     ここまで来れば、「学習法」がなぜ脳をだます技術であるのかが理解できます。
     たとえば、覚えにくいものを覚えやすくする工夫の数々は、生存にとっては大して重要でない情報を、さも重要なように見せかけるトリックからできています。
     もっとも単純で「学習法」と呼ぶのもおこがましいほど広く頻用される方法に「繰り返し」という方法について考えてみましょう。
     我々の祖先が長い時間をかけて、今我々が有するような生得能力を獲得した環境では、複製技術は存在しませんでした。
     同じものに繰り返し出会ったならば、それは、実際にまた出会う確率の高いことを、つまり記憶すべき価値があることを意味しました。
     現代では、繰り返し同じ情報と出会うと、記憶するばかりか真実であるとすら思ってしまう認知バイアス(真理の虚偽効果)が、我々にあることが分かっています。
     このヒトの仕様は、教育・学習の分野だけでなく、むしろプロパガンダや広告の分野で古くから利用されてきました。

     「学習法は、脳を誤動作させるテクニックである」という見立ては、上記の考察からも分かるように、一方では、教育や学習の分野以外にも、ヒトにとっては覚えるのに苦手な情報を覚えやすくするための知見が存在することを示唆します。
     ひどい言い方をすれば、ヒトをだましたり操ったりすると言われる「悪いテクニック」は(それが本当に有効なのであれば)学習法に善用できる可能性があります。
     要は『影響力の武器』や『プロパガンダ』が学習の手引となる訳です。

     しかしもう一方では、「勉強本」の限界についても、この見立ては光を当てます。
     「誤動作させるテクニック」にできるのは、学習者を(たとえば記憶マシンや半自動的なパターンマッチング機械として)「調教する」ことであっても、学ぶ人を賢くするためのことではありません。
     あるいは盲目的な記憶マシンやパターンマッチング機械を、我々は賢いとは思いません。

     しかし本来、我々が何かを学ぶのは、先人が重ねてきた知的営為を自らの力とし、自分一人だけでは理解できなかったはずのものを理解し、不可能だったことを可能にするためです。
     その意味で、以前よりいくらかましな者になること、賢くなることを求めて人は学びます。
     学ぶことを、他の知的営為と陸続きである場所へ、つまり本来あるべきところへ、連れ戻すためには、「勉強本」に書いてある学習法だけでは足りません。


    賢くなるための独学書

     以上のことから、独学者に必要な書物は、「学習法」を提供する以上のものになる(そうあるべきだ)と思われます。

     大して賢くもなければ勤勉でもない自分(読書猿)に、そんな大層なものが書けるのか。
     逆説的ですが、あまり賢くなく怠け者であるからこそ、私にはいくらかの勝算のようなものがありました。
     たとえば、本を読むこと一つとっても、私は自分がどれだけ読めない人間であったかを覚えています。
     続けて読める時間はせいぜいが20分間くらいで、1冊の本を読み通すのに平気で5年くらいかかっていました。当然、圧倒的多数の書物は最後まで読めず、途中で放り出していました。

     その後、いくらかマシな読み手になった経過を、その過程で重ねた試行錯誤を、その途中で感じた悩みや嘆きを、そして助けとなった先人の知恵を、私は記録してきました。
     そして、そうした記録を基にして他の人にも使えるようにまとめた記事を、このブログにも書いてきました。

     私は相変わらず賢くありませんが、いくらかマシになるために重ねた試行錯誤と、そこから生まれた工夫を伝えることはできると思います。
     そしてまた、私には、こうした仕事を請け負うだけの義務もあると思います。何故なら、私は多くの先人からそのための知恵と知見を受け取ってきたし、そのため相当な知的債務超過の状態にあるからです。

     『独学大全』という本を書き終えて、私は自分がやっていることの意味と意義をかつてより理解したように思います。
     これまで私は、自分の仕事を「知識の灌漑工事」のようなものだと思ってきました。遠くにある知識の「水源」から、人々のところまで「水」を引いてくる仕事です。
     私はこの言い方を、フットボール(サッカー)の中で使われた最も美しい言葉の一つだと思う、イビチャ・オシムの「水を運ぶ者」という言葉から思いつきました。
     フィールドを駆け回ってどこへでも顔を出し、他の人がよい仕事をできるように「つなぐ」仕事です。
     才能や能力に恵まれた人たちのように最前線に立って「点を取る」ことはできませんが、人々がいなくなってしまった「スペース」を埋め、「ルーズボール」を拾い、それを必要とする誰かにつなぐことならできるかもしれません。

     思うに、人文の知が、人々の忘れたもの忘れたいものを覚えておき、必要なら掘り起こして、現にあるのと異なる可能性を示すことができるのは、この種の知的営為が人々の忘れがちな「知の静脈機能」を担ってきたからでしょう。それは人々が捨てたもの/忘れたものを回収して、新しく生まれ変わるのを助ける仕事です。
     私が行うべき仕事はおそらくはそうしたものであり、この度生まれた『独学大全』も、確かにそうした私のような人間が書くべき仕事だったのかもしれません。
     というのも、独学もまた、我々の社会で必ずしも祝福されたものではないからです。
     やむを得ず行うもの、もしでき得るなら正規の学習機会の方を選ぶべきであり、本来なら選ぶべきでないもの。少なからぬ人たちは独学をそのように考えています。


     私は『独学大全』という本を、こんな一文から書き始めました。

    「独学者とは、学ぶ機会も条件も与えられないうちに、自ら学びの中に飛び込む人である。」

     多くの独学者と同様、私もまた、他に選びようがないまま独学をはじめ、続けてきました。
     独学は、学習に必要な様々な資源(時間、資料、……)から遠ざけられた人にとっての最後の砦であり、学ぶ機会を奪われた人にとっての最後の希望です。
     学ぶことが、先人が重ねてきた知的営為に自らをつなぎ、それらを「外部足場Scaffold」として自身の認知的能力と非認知的能力を支え、独力では達し得なかったところまで自分の思考と行動を高めることであるとしたら、そして、この知的営為が、限られた人たち/恵まれた特定の人たちにだけ許された「特権」ではないのだとしたら、独学という学び方が我々にとって確かに可能であると言えなくてはなりません。

     今私は、その道行きはおしなべて困難であり、多くは挫折に終わることを認めながらも、そして多くの場合祝福されないものであることを承知の上で、独学は可能だと言いたいと思います。

     そう言い切れるだけの書物を、ようやくつくることができました。

     殺青ここに成る。『独学大全』完成です。
     


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    タイトル:独学大全 絶対に「学ぶこと」をあきらめたくない人のための55の技法
    著  者:読書猿
    発  行:ダイヤモンド社
    判  型:A5変型判
    分  量:788ページ
    価  格:2,800円+税
    ISBN:9784478108536
    発売予定:2020年9月29日(書籍)
         2020年10月21日(電子書籍)








    資料編


     『独学大全』目次


    無知くんと親父さんの対話0 無知をどうにかしたいんです
    序 文 学ぶことをあきらめられなかったすべての人へ

    本書の構成と取説

    第1部 なぜ学ぶのかに立ち返ろう
    <独学の足場を作るために>

    第1章 志を立てる
    無知くんと親父さんの対話1 学ぶことをやめない理由は何か
    技法1 やる気の資源を掘り起こす「学びの動機付けマップ」

    第2章 目標を描く
    無知くんと親父さんの対話2 夢は巨人の肩の上で見る
    技法2 学びの出発点を見極める「可能の階梯」
    技法3 学びの地図を自分で描く「学習ルートマップ」

    第3章 動機付けを高める
    無知くんと親父さんの対話3 まずは1分間、勉強しろ
    技法4 未来のミニチュアを組み立てる「1/100プランニング」

    技法5 重い腰を蹴っ飛ばす「2ミニッツ・スターター」

    第4章 時間を確保する
    無知くんと親父さんの対話4 何を捨て、何を選ぶか
    技法6 自分も知らない自分の行動を知る「行動記録表」
    技法7 クズ時間を生まれ変わらせる錬金術「グレー時間クレンジング」
    技法8 打ち込むためにトマトを回せ「ポモドーロ・テクニック」

    第5章 継続する
    無知くんと親父さんの対話5 挫折する人が考えること
    技法9 怠けることに失敗する「逆説プランニング」
    技法10 日課を習慣の苗床にする「習慣レバレッジ」
    技法11 やめられない、続かないを資源にする「行動デザインシート」
    技法12 独学の進捗と現在地を知る「ラーニングログ」

    第6章 環境を作る
    無知くんと親父さんの対話6 強い意志よりサボらない仕組み
    技法13 他人は意志にまさる「ゲートキーパー」
    技法14 会えない者を師と仰ぐ「私 淑」
    技法15 共に読むことが開く知的共同体「会 読」
    コラム 金のない独学者に何ができるか

    第2部 何を学べばよいかを見つけよう
    <何を学ぶか自分で決める>

    第7章 知りたいことを発見する
    無知くんと親父さんの対話7 悩みをぜんぶ書き出せ
    技法16 脳内知識の棚卸し「カルテ・ クセジュ」
    技法17 古代弁論術に始まる自己問答「ラミのトポス」
    技法18 知的多角測量法「NDCトラバース」

    第8章 資料を探し出す
    無知くんと親父さんの対話8 「ググる」以外の武器を手に入れよう
    技法19 思い付きの検索を卒業する「検索語みがき」
    技法20 知の分類の航海術「シネクドキ探索」
    技法21 巨人の肩によじのぼる「文献たぐりよせ」
    技法22 調べものの航海日誌「リサーチログ」

    第9章 知識への扉を使う
    無知くんと親父さんの対話9 古典はあなたのために書かれていない
    技法の前に 運に頼らない本の選び方
    技法23 第一のレファレンスツール「事典」可能性としての博識
    技法24 第二のレファレンスツール「書誌」調査の達人からの贈り物
    技法25 第三のレファレンスツール「教科書」入門書・事典・書誌を兼ねた独学者の友
    技法26 欲しい書物と出会う技術「書籍探索」
    技法27 知の最前線に向かう「雑誌記事(論文)調査」
    コラム 知のライフサイクル

    第10章 集めた資料を整理する
    無知くんと親父さんの対話10 最速の素人になる
    技法の前に 点の読書から線の読書、面の読書へ
    技法28 多くの文献を一望化する「目次マトリクス」
    技法29 文献のネットワークを掌握する「引用マトリクス」
    技法30 文献の群れを貫通して読む「要素マトリクス」

    第11章 情報を吟味する
    無知くんと親父さんの対話11 「トンデモ知識」につかまらないために
    技法31 デマの矛盾をあぶり出す「タイム・スケール・マトリクス」
    技法32 トンデモ主張を暴き出す「四分割表」
    技法33 主張の根拠を掘り起こす「トゥールミン・モデル」


    第3部 どのように学べばよいかを知ろう
    <学び方を学ぶこと>

    第12章 読む
    無知くんと親父さんの対話12 様々な読み方で再読する
    技法34 知らずに使っている最速の読書法「転 読 Flipping 」
    技法35 必要なものだけを読み取る「掬 読 Skimming 」
    技法36 文献と対話する「問 読 Q&A Reading 」
    技法37 決まった時間で読み終える「限 読 Timed Reading 」
    技法38 読書技術の静かな革命「黙 読 Silent Reading 」
    技法39 身体に刻む読書の原初形態「音 読 Reading Aloud 」
    技法40 読み手を導く読書の手すり「指 読 Pointing Reading 」
    技法41 読むことを考えることに接続する「刻 読 Marked Reading 」
    技法42 精緻に読むことに引き込む読書の補助輪「段落要約 Paragraph Summarizing 」
    技法43 難所を越えるための認知資源を調達する「筆 写 Scribing 」
    技法44 すべての読書技術で挑む精読の到達点「注 釈 Annotating 」
    技法45 思考訓練としての訳読「鈴木式6分割ノート」
    技法46 逆境を乗り越える要約注釈術「レーニンノート」

    第13章 覚える
    無知くんと親父さんの対話13 記憶の術(アート)よりマネジメント
    技法47 記憶法のコーディネートでメタ記憶を鍛える「記憶法マッチング」
    技法48 記憶障害の臨床でも用いられる文章記憶法「PQRST法」
    技法49 学習前後に描くことで準備する/定着する「プレマップ&ポストマップ」
    技法50 古代ギリシア発祥のイメージ技法「記憶術(ニーモニクス)」
    技法51 復習をモジュール化する記憶マネジメント法「35ミニッツ・モジュール」

    第14章 わからないを克服する
    無知くんと親父さんの対話14 「わからない」と共に旅をする
    技法52 思考の過程を声にする「シンクアラウド Think Aloud 」
    技法53 わからなくても迷わない「わからないルートマップ」
    技法54 解いた自分を資源とする「違う解き方」

    第15章 自分の独学法を生み出す
    無知くんと親父さんの対話15 独学者として人生を歩む
    技法55 自分という学習資源「メタノート」

    第4部 独学の「土台」を作ろう
    <あらゆるものを学ぶ土台になる力>

    国語独学の骨法
    1 読めないことを自覚する
    2 おなじみ同士の言葉・概念の組み合わせを蓄える
    3 論理はそもそも対話である
    4 チャリティの原理 Principle of Charity
    ある独学者の記録 国語

    英語(外国語)独学の骨法
    1 ロンブ・カトーの分数式
    2 挫折なき塗り壁式学習法
    3 子ども辞典と事典はツールであり教材である
    4 会話、スモールトークを超えて
    ある独学者の記録 英語

    数学独学の骨法
    1 数学にネイティブスピーカーはいない
    2 想像力を止め、手を動かす
    3 理解は遅れてやって来る
    4 数学書は「終わり」から書かれている
    5 証明の読み書き(リテラシー)を身に付ける
    ある独学者の記録 数学

    あとがき
    索 引
    写真提供、引用元一覧

    独学困りごと索引




     『独学大全』独学困りごと索引

    『独学大全』は当初から大部な書物となることが予想されたので、34ページに及ぶ索引の他に、独学者やこの本の読者が出会うであろう主だった〈困りごと〉に対して、すぐさま該当ページが開けるよう、巻末の折込み(3つ折りで両面あります)として「独学困りごと索引」をつけました。
    『独学大全』が何の役に立つのか知りたい方に有用だと思ったので、その内容を公開します。


    困りごと索引_ウェブ用-1
    (クリックして拡大)


    困りごと索引_ウェブ用-2
    (クリックして拡大)