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2010.06.12
『パリ、テキサス』という映画のこと
この映画には随分と有名なシーンというか、舞台設定があって、それは、主人公の男が息子と一緒に、別れた奥さんを捜しにヒューストンの町にやってきて、そこで彼女が働いている「のぞき部屋」のシーンだ。
男は、かつて一緒に暮らした女と、「のぞき部屋」で「再会」する。
この「のぞき部屋」は、マジックミラーで仕切られた部屋になっている。
マジックミラー越しに、暗い方から明るい方を見ることはできるのだけれど、逆に明るい方から見るとガラスは鏡になっていて暗い方を見ることはできない。
つまり「のぞき部屋」は、客は女の人を見ることができるけど、女の人はお客を見ることができない、そういう仕掛けになっている。
そして客は女の人に触れることはできない。
お金を払って、ガラスの向こうの女の人の姿を眺めるだけだ。
この映画を撮ったヴィム・ヴェンダーズという監督はこの「仕掛け」でもって、凡百の映画がいくつものシーンやシーケンスを駆使して「描き」続けてきた、男女のすれ違いだとか、行き違いだとか、(そこにいるのに)とどかないというせつなさだとか、そういったものを、ただ一枚のガラスと明暗のある部屋だけで「写して」みせた。
本当のことをいうと、この映画もまた「凡百の映画」の一本なのかもしれない。
このマジックミラーの装置が、暗い部屋の中でスクリーンに写る「映像」を眺める“ぼくら”と、映画の明るいスクリーンに登場する“彼ら”との、「一方通行」そのままのモデルであるにしても、だ。
どれほどすばらしい映画でも、死にたくなるほど長い大作でも、映画は必ず終わってしまう。
ぼくらが座っていた場所も、やがてうっすらと明るくなる。そしていよいよ席を立ち、ぼくらは明るい場所へ帰って行かなくてはならなくなる。
例えばせいぜい、今見ていた「映像」の記憶が、自然自分をやくざ者のようにふるまわせても、それも明るい場所に眼が慣れる頃には恥ずかしさとに席をゆずって消えてしまう。
「パリ・テキサス」には、劇中、一本の「映画」が登場する。
それは、男と女がまだ一緒に暮らしていた頃、一緒に海に出掛けた時に撮影された8mmフィルムだ。
その映画(フィルム)の中、彼女は笑っている。
男と、彼の息子は、いまここにいない彼女を、スクリーンの上に見ている。
彼女は微笑みかけるだろう、そしてスクリーンのこちらを見ていないだろう。
もちろん、どこにでもある、たわいもないホームムービィだ。
この短い「映画」は、すぐに終わってしまう。
そしてこれを見終えた後、男と息子は、女(妻/母)を探す旅に出るのだ。
やがて男は、ヒューストンの、とある「のぞき部屋」を探し当て、そこで女と「再会」する。
客として、暗い側の部屋に入り、明るい部屋に彼女を見る。
そこで長いこと別れて暮らしていた二人は、その時「同じもの」を見るのだ。
男はガラスを通して女の姿を、そして女も鏡に映った女(自分)の姿を。
そして女は、いつもと同じく、鏡の向こうにいるのが誰か知ることはない。
彼女は、鏡の自分に向かって、実際はその向こうの見えない相手に向かって、自分を見せ続ける。
すべて映画(映像)は、必ず終わる。
人は、映像(映画)の終わった後も、生きなくてはならない。
スイッチを切られた、まだ温もりの残るテレビのブラウン管に写っているのは、たった今までそれを見ていた自分の顔だ。
それが、「映像の終わり」の映像なのだ。
ずっと鏡を見つめ、その向こうで客が見ているものと同じものを見つめ続ける彼女は、「明るい部屋」の住人=映像の囚人であり、あらゆる映像を奪われたったひとつ「映像の終わり」の映像を突きつけられ、そして自らは映像であることを強いられている。
彼女は、だから「映像の終わり」を生きる者だ。
そしてやがて、この映画も終わるだろう。
何度目か「のぞき部屋」に通った男は、最後に女の部屋の明かりを落とさせ、自分の顔に明かりを当てる。
いまや明暗の逆転が起こる。
女ははじめて、ガラスの向こうに男の姿(映像)を見るだろう。
その瞬間、男は鏡に隔てられ、女の姿を失うだろう。
いずれにしろ、二人は抱き合うこともなく、触れることさえない。
出会い、抱き合うのは、物語の最後に至っても母と子であって、男は暗い部屋を去り、ふたたび明るい世界のどこかへと出掛けていく。
映画(映像)を見終えた誰もがそうするように。
そして映画は終わり、ぼくらは男の姿を見失う。
ぼくらには、男がしょぼくれたヒロイックな(つまり自己犠牲的な)選択をしてみせ、彼女を救いだし息子と暮らせるように計らった後に、消え去るかのように見える。
これはもちろん、どこにでもあるメロドラマだろう。
けれども、この映画を見終えたぼくらは、どこへ行くのだろう。
男は、かつて一緒に暮らした女と、「のぞき部屋」で「再会」する。
この「のぞき部屋」は、マジックミラーで仕切られた部屋になっている。
マジックミラー越しに、暗い方から明るい方を見ることはできるのだけれど、逆に明るい方から見るとガラスは鏡になっていて暗い方を見ることはできない。
つまり「のぞき部屋」は、客は女の人を見ることができるけど、女の人はお客を見ることができない、そういう仕掛けになっている。
そして客は女の人に触れることはできない。
お金を払って、ガラスの向こうの女の人の姿を眺めるだけだ。
この映画を撮ったヴィム・ヴェンダーズという監督はこの「仕掛け」でもって、凡百の映画がいくつものシーンやシーケンスを駆使して「描き」続けてきた、男女のすれ違いだとか、行き違いだとか、(そこにいるのに)とどかないというせつなさだとか、そういったものを、ただ一枚のガラスと明暗のある部屋だけで「写して」みせた。
本当のことをいうと、この映画もまた「凡百の映画」の一本なのかもしれない。
このマジックミラーの装置が、暗い部屋の中でスクリーンに写る「映像」を眺める“ぼくら”と、映画の明るいスクリーンに登場する“彼ら”との、「一方通行」そのままのモデルであるにしても、だ。
どれほどすばらしい映画でも、死にたくなるほど長い大作でも、映画は必ず終わってしまう。
ぼくらが座っていた場所も、やがてうっすらと明るくなる。そしていよいよ席を立ち、ぼくらは明るい場所へ帰って行かなくてはならなくなる。
例えばせいぜい、今見ていた「映像」の記憶が、自然自分をやくざ者のようにふるまわせても、それも明るい場所に眼が慣れる頃には恥ずかしさとに席をゆずって消えてしまう。
「パリ・テキサス」には、劇中、一本の「映画」が登場する。
それは、男と女がまだ一緒に暮らしていた頃、一緒に海に出掛けた時に撮影された8mmフィルムだ。
その映画(フィルム)の中、彼女は笑っている。
男と、彼の息子は、いまここにいない彼女を、スクリーンの上に見ている。
彼女は微笑みかけるだろう、そしてスクリーンのこちらを見ていないだろう。
もちろん、どこにでもある、たわいもないホームムービィだ。
この短い「映画」は、すぐに終わってしまう。
そしてこれを見終えた後、男と息子は、女(妻/母)を探す旅に出るのだ。
やがて男は、ヒューストンの、とある「のぞき部屋」を探し当て、そこで女と「再会」する。
客として、暗い側の部屋に入り、明るい部屋に彼女を見る。
そこで長いこと別れて暮らしていた二人は、その時「同じもの」を見るのだ。
男はガラスを通して女の姿を、そして女も鏡に映った女(自分)の姿を。
そして女は、いつもと同じく、鏡の向こうにいるのが誰か知ることはない。
彼女は、鏡の自分に向かって、実際はその向こうの見えない相手に向かって、自分を見せ続ける。
すべて映画(映像)は、必ず終わる。
人は、映像(映画)の終わった後も、生きなくてはならない。
スイッチを切られた、まだ温もりの残るテレビのブラウン管に写っているのは、たった今までそれを見ていた自分の顔だ。
それが、「映像の終わり」の映像なのだ。
ずっと鏡を見つめ、その向こうで客が見ているものと同じものを見つめ続ける彼女は、「明るい部屋」の住人=映像の囚人であり、あらゆる映像を奪われたったひとつ「映像の終わり」の映像を突きつけられ、そして自らは映像であることを強いられている。
彼女は、だから「映像の終わり」を生きる者だ。
そしてやがて、この映画も終わるだろう。
何度目か「のぞき部屋」に通った男は、最後に女の部屋の明かりを落とさせ、自分の顔に明かりを当てる。
いまや明暗の逆転が起こる。
女ははじめて、ガラスの向こうに男の姿(映像)を見るだろう。
その瞬間、男は鏡に隔てられ、女の姿を失うだろう。
いずれにしろ、二人は抱き合うこともなく、触れることさえない。
出会い、抱き合うのは、物語の最後に至っても母と子であって、男は暗い部屋を去り、ふたたび明るい世界のどこかへと出掛けていく。
映画(映像)を見終えた誰もがそうするように。
そして映画は終わり、ぼくらは男の姿を見失う。
ぼくらには、男がしょぼくれたヒロイックな(つまり自己犠牲的な)選択をしてみせ、彼女を救いだし息子と暮らせるように計らった後に、消え去るかのように見える。
これはもちろん、どこにでもあるメロドラマだろう。
けれども、この映画を見終えたぼくらは、どこへ行くのだろう。
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