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2011.02.09
サラダからはじめよ/新入生のための一人飯ハック
最も自炊から遠い人にも可能な、小さき最初の一歩を述べる。
多分、初めて一人暮らしする新入生にも役に立つだろう。
「まずい食材はない。
まずい料理があるだけだ」
ミッシェル・サラゲッタ
上にあげた一節から次のことが導き出される。すなわち、
サラダに失敗はない。
なんとなれば、サラダはまだ料理ではないからだ。
サラダは、ほとんど食材そのものである。
食べられるものでつくれば、食べられる範囲におさまると思っていい。
これだけでも、あなたがまずサラダからはじめる十分な理由になるだろう。
サラダを「つくる」のに火はいらない。
熱を加えて、食材が「消し炭」になる恐れがない。
料理下手な人間は、自分でも結果が予想つかないことに向こう見ずにも挑む。
そして食品の域をやすやすと超えてしまうのだが、サラダはあなたをそんなに遠くにまで連れては行かない。
食材を手に入れよう。
そしてそれに味をつけよう。
最初は市販のドレッシングで十分だ。
コンロも電磁調理器も要らない。
誰でもいつでもキッチン・レスでも、サラダはつくれる。
(だから、あなたがまず手に入れるべき調理器具はサラダボウルである。例えばこういうの↓)
料理はすべてサラダのなれの果てである
切るなり、ちぎるなりして食材の形を変えて、
それを調味料(や他の食材)とまぜる。
サラダは、たったこれだけのことでできている。
そして、このプロセスは、ほとんどすべての料理に見られる。
切りもちぎりもしない、調味料も登場しない、そんな料理は想像しがたい。
言うならば、サラダはすべての料理の中にある。
あるいは、こうだ。
すべての料理は、サラダのなれの果てである。
サラダがつくれないのに、他の料理ができることはありえないし、
他の料理ができるのに、サラダが作れないこともありえない。
サラダはフレームワークである
教育関係者の大好きな俚諺に「授人以鱼不如授之以渔」(魚を与えず釣り方を教える)というのがある。
2、3のレシピを提示しても、それは数日もたないだろう。
100のレシピを習得するには何日もかかってしまうだろう。
しかし食べることは日々の営為である。
胃袋はあなたが料理人になるまで待ってはくれない。
サラダは、単に料理のカテゴリーであるだけでなく、ひとつのフレームワークである。
サラダを学ぶことは、個々のサラダのレシピを学ぶことではなく、様々なサラダのレシピを創出する方法を学ぶことなのだ。
サラダという考え方を習得すれば、いくらもレパートリーを生み出すことができる。
食べられるもの×ドレッシング=サラダ
例:レタス×ドレッシング=サラダ
例:(きゃべつ千切り+にんじん千切り)×(酢+塩+砂糖+マヨネーズ)=コールスローサラダ
冒頭に引いたミッシェル・サラゲッタはこんなことも言っている。
トマトに塩をかければサラダになる。
例:トマト×塩=サラダ
これについては、〈原初的サラダ〉の項で取り上げよう。
生では食べられぬものでも、加工(蒸す、煮る、焼く、揚げる……)すれば食べられるのであれば、上の式の「食べられるもの」のところに代入できる。
例:(鶏肉→蒸す→蒸し鶏+トマト)×(ポン酢+ラー油)=蒸し鶏のサラダ
例:(ピーマン→(焼く)→焼きピーマン)×麺つゆ=ピーマンの焼き浸し
我々はこれらも〈サラダ〉として扱う。
日本食の和え物はすべて、そのまま〈サラダ〉と見なすことができる。
したがって、おひたしや酢の物もすべて〈サラダ〉である。
牛肉を焼いてポン酢をかけて食べても〈サラダ〉なのだとしたら、ステーキもまた〈サラダ〉である。
こんなことを許せば、あらゆる料理が〈サラダ〉になるのではないか?
その心意気やよし。
〈サラダ〉概念の順調な拡張を通じて、サラダ入門者は「普通に料理ができる人」になっているだろう。これこそ望むところである。
この話題もまた後ほど展開することにしよう。
また、すでに加工されている缶詰などは、そのまま上の式の「食べられるもの」のところに代入できる。
例:(ゆで大豆(缶詰)+タマネギ+キュウリ+トマト)×(マヨネーズ+塩+コショウ)=大豆サラダ
原初的サラダ
トマトに塩をかけただけでサラダとは乱暴な話だ、と思う人もいるだろう。
しかし人の道を逸したわけではない。
サラダ(フランス語:salade、英語:salad)は、ラテン語の sal(塩)、salare(加塩する)に由来する。
つまり、これこそが純粋なサラダ、サラダの原初形である。
もっとも14世紀末の料理人はすでに、塩の他に油と酢を振りかけて、パセリ、セージ、ネギ、クレッソン、ウイキョウ、ニンニクなどを食べる方法を書き残している。
今で言うフレンチ・ドレッシング(ビネグレットソース)の原型があったという訳だ。
17世紀後半にはすでに、野菜以外にも鶏肉、魚、エビなども用いたサラダが登場している。
サラダの「なんでもあり」は、昨日今日はじまったものではない。
大抵のことをサラダは大目に見る。
しめさばはサラダである
しかしこの3つ(塩、油、酢)を必ず用いなければならない訳ではない。
我々はとってサラダはフレームワークであり、料理の結合術(ars combinatoria)である。
組合せこそ探求すべきものなのだから、味付けについても同じ精神で望むことにしよう。
では酢だけではどうか?
例:塩サバ×酢=→(酢に漬けて半日放置)→しめさば
しめさばである。
より一般的に言えば、「なます」である。
なますは、もともと切り刻んだものをいい、酢とは直接関係がなかった。
中国では割鮮といい、割烹の「割」の方だが、『日本書紀』ではこれに「なますつくる」と訓する。『文選』(6世紀前半)では「アザラケキ ヲ サク」と読ませ、火熱を用いない料理の意味する。
この「なます」から、刺身と酢の物へと分化したのだろうと考えられている。
ここでも材料は、サバに限らない。
食べられるもの×酢(と時間)=なます・酢の物
例:
カキorナマコorイカなどは生のまま×酢(と時間)=なます・酢の物
(アジorサバ×塩)×酢(と時間)=なます・酢の物
オコゼ、コチ、アンコウなどは熱湯をくぐらせて×酢(と時間)=なます・酢の物
エビ、カニ、タコ→(茹でる)→×酢(と時間)=なます・酢の物
野菜→(塩もみするか、軽くゆでて)→×酢=なます・酢の物
大雑把に言えば、サラダと酢の物の違いは、調味料に油があるかないかの差でしかない。
ここにノンオイル・ドレッシングが登場すれば、酢の物とサラダのM&Aは時間の問題である。
業界の住み分けに興味がない我々は、境界付けに力を注ぐよりも、〈サラダ〉の越境をそそのかす方が利が大きい。
なによりも、より多くの料理をより一般的な展望の下に見ることができる。
シンプルなルールは認知資源の面で経済的であり、また実践上もより汎用的である。
すべての料理をサラダと見なす暴論は、材料が入っていれば何だっていいのだから、すべてをミキサーにかけて飲めばよいというミキサージュース原理主義に行き着くのであり、これは料理文化の完全な破壊であるという立論はまだ見たことがないが、我々は組み合わせが生み出す多様性を尊重するのであり(だって飽きるじゃないか)、ビギナーが最も容易にマンネリ・メニューから脱出できる方策として〈サラダ〉というフレームワークを活用するのである。
いわゆるラディカルなサラダ主義に対して、考えるのに便利だからそうする立場を方法論的サラダ主義と呼ぼう。いずれにしろ、料理にはあまり関係のない話だった。
ナムルもユッケもサラダである
塩、酢と来たから、今度は油をメインに据えてみよう。
例:(ゼンマイor大根orほうれん草orもやし)×(ごま油+ごま+塩or醤油+α)=ナムル
ナムルはぶっちゃけ、ごま油を使ったおひたしである。
ここでも、本当は素材ごとに調味料の比率や種類(+αのところ)が違うのだが「しくみ」の説明なので簡単にした。
例:生食用牛肉(薄く刻む)×(ごま油+醤油+にんにく+ショウガ+味噌)=ユッケ
生卵をのせろとか、ゴマをかけろとか、味噌はあんまりだヤンニョムジャンを使え、いやテンメンジャンだ、という意見もあるだろうが、すべて承諾する。
しかしやってることは、レタスにドレッシングをかけたのとそう変わらない。
生食用牛肉を薄く切ってで形を変え、その次に調味料と混ぜている。
ユッケもまた、考え方はサラダでつくることができる。
他のサラダと同様に、食材のところを取り替えれば、別のものができる。
たとえば牛肉のかわりに、マグロでもツナ缶詰でもイカでもタコでもいい。
サラダは何故、独学者にふさわしいか
そろそろまとめに入ろう。
サラダのコツはひとつしかない。
作ったらすぐに食べることだ。
この条件は、作る人=食べる人であるとき、最も確実に達成される。
サラダは、この点でも、独学者にふさわしい。
自立した人間とは畢竟、自分に必要な食べ物を自分で用意できる人間のことである。
これが自己陶冶の前提であり、最初の一歩でもある。
独学者に必要な生活技術は、自炊にはじまる。
ろくなものを食ってないと、確実に体調はおかしくなる。風邪が何日も治らなくなる。出掛ける気力も失われて、心身の状態はスパイラルに悪化していく。
パフォーマンスが落ちてきた、集中力が落ちてきたという自覚があるなら-----集中力とは、ぶっちゃけ体力のことだ-----、薬剤やドリンク剤を口に放り込むよりも、まともに食って寝た方が早い。効果も高い。
最後にこんなものを。
サラダにした後に加熱するものだ。
サラダから、他の料理へ向かうあなたへのはなむけとする。
例:
(1)トマトの中身をスプーンでえぐり取る。
(2)シーチキンとトマトの中身をまぜる。
(2’)(汁は切っておいた方がいい。トマトの中身を包丁で小さなサイコロ型に切ってから混ぜたほうが食感がよいが、必須というほどではない)。
(3)シーチキンとトマトの中身を混ぜたものを、再びトマトの中に戻す。
(4)粉チーズを振り掛ける。
(5)オーブントースターに入れて焼く。
ここまで来ると、料理と呼んでも一応差し支えないだろう。
まだコンロも電磁調理器もいらない。キッチンのないところでも調理可能なレベルである。
※ 本記事は、玉村 豊男『料理の四面体』の「刺身はサラダである」の章について、人に話している時に着想を得た。
例によってうろ覚えで書き出したが、読み返したところ、自炊者にとってのフレームワーク本として推薦できると思う。
より具体的な作業について不安のある場合は、同著者の『男子厨房学(メンズ・クッキング)入門』も手がかりになるかもしれない。
(関連記事)
・サラダの果て、はじまりの料理/新入生のための一人飯ハック 読書猿Classic: between / beyond readers

末尾にあげてる本が難しすぎるとクレームがついたので、オススメ本を追加する。
料理のリテラシー(いろは)の「い」本
当世風キッチンレス・クッカーのための一冊
(やたらとあるシリコンスチーマー関係では数少ないまともな本。友達/恋人も呼べるレシピ)
2回目があるとしたら、まぜごはんの話を書くと思う。
多分、初めて一人暮らしする新入生にも役に立つだろう。
「まずい食材はない。
まずい料理があるだけだ」
ミッシェル・サラゲッタ
上にあげた一節から次のことが導き出される。すなわち、
サラダに失敗はない。
なんとなれば、サラダはまだ料理ではないからだ。
サラダは、ほとんど食材そのものである。
食べられるものでつくれば、食べられる範囲におさまると思っていい。
これだけでも、あなたがまずサラダからはじめる十分な理由になるだろう。
サラダを「つくる」のに火はいらない。
熱を加えて、食材が「消し炭」になる恐れがない。
料理下手な人間は、自分でも結果が予想つかないことに向こう見ずにも挑む。
そして食品の域をやすやすと超えてしまうのだが、サラダはあなたをそんなに遠くにまで連れては行かない。
食材を手に入れよう。
そしてそれに味をつけよう。
最初は市販のドレッシングで十分だ。
コンロも電磁調理器も要らない。
誰でもいつでもキッチン・レスでも、サラダはつくれる。
(だから、あなたがまず手に入れるべき調理器具はサラダボウルである。例えばこういうの↓)
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料理はすべてサラダのなれの果てである
切るなり、ちぎるなりして食材の形を変えて、
それを調味料(や他の食材)とまぜる。
サラダは、たったこれだけのことでできている。
そして、このプロセスは、ほとんどすべての料理に見られる。
切りもちぎりもしない、調味料も登場しない、そんな料理は想像しがたい。
言うならば、サラダはすべての料理の中にある。
あるいは、こうだ。
すべての料理は、サラダのなれの果てである。
サラダがつくれないのに、他の料理ができることはありえないし、
他の料理ができるのに、サラダが作れないこともありえない。
サラダはフレームワークである
教育関係者の大好きな俚諺に「授人以鱼不如授之以渔」(魚を与えず釣り方を教える)というのがある。
2、3のレシピを提示しても、それは数日もたないだろう。
100のレシピを習得するには何日もかかってしまうだろう。
しかし食べることは日々の営為である。
胃袋はあなたが料理人になるまで待ってはくれない。
サラダは、単に料理のカテゴリーであるだけでなく、ひとつのフレームワークである。
サラダを学ぶことは、個々のサラダのレシピを学ぶことではなく、様々なサラダのレシピを創出する方法を学ぶことなのだ。
サラダという考え方を習得すれば、いくらもレパートリーを生み出すことができる。
食べられるもの×ドレッシング=サラダ
例:レタス×ドレッシング=サラダ
例:(きゃべつ千切り+にんじん千切り)×(酢+塩+砂糖+マヨネーズ)=コールスローサラダ
冒頭に引いたミッシェル・サラゲッタはこんなことも言っている。
トマトに塩をかければサラダになる。
例:トマト×塩=サラダ
これについては、〈原初的サラダ〉の項で取り上げよう。
生では食べられぬものでも、加工(蒸す、煮る、焼く、揚げる……)すれば食べられるのであれば、上の式の「食べられるもの」のところに代入できる。
例:(鶏肉→蒸す→蒸し鶏+トマト)×(ポン酢+ラー油)=蒸し鶏のサラダ
例:(ピーマン→(焼く)→焼きピーマン)×麺つゆ=ピーマンの焼き浸し
我々はこれらも〈サラダ〉として扱う。
日本食の和え物はすべて、そのまま〈サラダ〉と見なすことができる。
したがって、おひたしや酢の物もすべて〈サラダ〉である。
牛肉を焼いてポン酢をかけて食べても〈サラダ〉なのだとしたら、ステーキもまた〈サラダ〉である。
こんなことを許せば、あらゆる料理が〈サラダ〉になるのではないか?
その心意気やよし。
〈サラダ〉概念の順調な拡張を通じて、サラダ入門者は「普通に料理ができる人」になっているだろう。これこそ望むところである。
この話題もまた後ほど展開することにしよう。
また、すでに加工されている缶詰などは、そのまま上の式の「食べられるもの」のところに代入できる。
例:(ゆで大豆(缶詰)+タマネギ+キュウリ+トマト)×(マヨネーズ+塩+コショウ)=大豆サラダ
原初的サラダ
トマトに塩をかけただけでサラダとは乱暴な話だ、と思う人もいるだろう。
しかし人の道を逸したわけではない。
サラダ(フランス語:salade、英語:salad)は、ラテン語の sal(塩)、salare(加塩する)に由来する。
つまり、これこそが純粋なサラダ、サラダの原初形である。
もっとも14世紀末の料理人はすでに、塩の他に油と酢を振りかけて、パセリ、セージ、ネギ、クレッソン、ウイキョウ、ニンニクなどを食べる方法を書き残している。
今で言うフレンチ・ドレッシング(ビネグレットソース)の原型があったという訳だ。
17世紀後半にはすでに、野菜以外にも鶏肉、魚、エビなども用いたサラダが登場している。
サラダの「なんでもあり」は、昨日今日はじまったものではない。
大抵のことをサラダは大目に見る。
しめさばはサラダである
しかしこの3つ(塩、油、酢)を必ず用いなければならない訳ではない。
我々はとってサラダはフレームワークであり、料理の結合術(ars combinatoria)である。
組合せこそ探求すべきものなのだから、味付けについても同じ精神で望むことにしよう。
では酢だけではどうか?
例:塩サバ×酢=→(酢に漬けて半日放置)→しめさば
しめさばである。
より一般的に言えば、「なます」である。
なますは、もともと切り刻んだものをいい、酢とは直接関係がなかった。
中国では割鮮といい、割烹の「割」の方だが、『日本書紀』ではこれに「なますつくる」と訓する。『文選』(6世紀前半)では「アザラケキ ヲ サク」と読ませ、火熱を用いない料理の意味する。
この「なます」から、刺身と酢の物へと分化したのだろうと考えられている。
ここでも材料は、サバに限らない。
食べられるもの×酢(と時間)=なます・酢の物
例:
カキorナマコorイカなどは生のまま×酢(と時間)=なます・酢の物
(アジorサバ×塩)×酢(と時間)=なます・酢の物
オコゼ、コチ、アンコウなどは熱湯をくぐらせて×酢(と時間)=なます・酢の物
エビ、カニ、タコ→(茹でる)→×酢(と時間)=なます・酢の物
野菜→(塩もみするか、軽くゆでて)→×酢=なます・酢の物
大雑把に言えば、サラダと酢の物の違いは、調味料に油があるかないかの差でしかない。
ここにノンオイル・ドレッシングが登場すれば、酢の物とサラダのM&Aは時間の問題である。
業界の住み分けに興味がない我々は、境界付けに力を注ぐよりも、〈サラダ〉の越境をそそのかす方が利が大きい。
なによりも、より多くの料理をより一般的な展望の下に見ることができる。
シンプルなルールは認知資源の面で経済的であり、また実践上もより汎用的である。
すべての料理をサラダと見なす暴論は、材料が入っていれば何だっていいのだから、すべてをミキサーにかけて飲めばよいというミキサージュース原理主義に行き着くのであり、これは料理文化の完全な破壊であるという立論はまだ見たことがないが、我々は組み合わせが生み出す多様性を尊重するのであり(だって飽きるじゃないか)、ビギナーが最も容易にマンネリ・メニューから脱出できる方策として〈サラダ〉というフレームワークを活用するのである。
いわゆるラディカルなサラダ主義に対して、考えるのに便利だからそうする立場を方法論的サラダ主義と呼ぼう。いずれにしろ、料理にはあまり関係のない話だった。
ナムルもユッケもサラダである
塩、酢と来たから、今度は油をメインに据えてみよう。
例:(ゼンマイor大根orほうれん草orもやし)×(ごま油+ごま+塩or醤油+α)=ナムル
ナムルはぶっちゃけ、ごま油を使ったおひたしである。
ここでも、本当は素材ごとに調味料の比率や種類(+αのところ)が違うのだが「しくみ」の説明なので簡単にした。
例:生食用牛肉(薄く刻む)×(ごま油+醤油+にんにく+ショウガ+味噌)=ユッケ
生卵をのせろとか、ゴマをかけろとか、味噌はあんまりだヤンニョムジャンを使え、いやテンメンジャンだ、という意見もあるだろうが、すべて承諾する。
しかしやってることは、レタスにドレッシングをかけたのとそう変わらない。
生食用牛肉を薄く切ってで形を変え、その次に調味料と混ぜている。
ユッケもまた、考え方はサラダでつくることができる。
他のサラダと同様に、食材のところを取り替えれば、別のものができる。
たとえば牛肉のかわりに、マグロでもツナ缶詰でもイカでもタコでもいい。
サラダは何故、独学者にふさわしいか
そろそろまとめに入ろう。
サラダのコツはひとつしかない。
作ったらすぐに食べることだ。
この条件は、作る人=食べる人であるとき、最も確実に達成される。
サラダは、この点でも、独学者にふさわしい。
自立した人間とは畢竟、自分に必要な食べ物を自分で用意できる人間のことである。
これが自己陶冶の前提であり、最初の一歩でもある。
独学者に必要な生活技術は、自炊にはじまる。
ろくなものを食ってないと、確実に体調はおかしくなる。風邪が何日も治らなくなる。出掛ける気力も失われて、心身の状態はスパイラルに悪化していく。
パフォーマンスが落ちてきた、集中力が落ちてきたという自覚があるなら-----集中力とは、ぶっちゃけ体力のことだ-----、薬剤やドリンク剤を口に放り込むよりも、まともに食って寝た方が早い。効果も高い。
最後にこんなものを。
サラダにした後に加熱するものだ。
サラダから、他の料理へ向かうあなたへのはなむけとする。
例:
(1)トマトの中身をスプーンでえぐり取る。
(2)シーチキンとトマトの中身をまぜる。
(2’)(汁は切っておいた方がいい。トマトの中身を包丁で小さなサイコロ型に切ってから混ぜたほうが食感がよいが、必須というほどではない)。
(3)シーチキンとトマトの中身を混ぜたものを、再びトマトの中に戻す。
(4)粉チーズを振り掛ける。
(5)オーブントースターに入れて焼く。
ここまで来ると、料理と呼んでも一応差し支えないだろう。
まだコンロも電磁調理器もいらない。キッチンのないところでも調理可能なレベルである。
※ 本記事は、玉村 豊男『料理の四面体』の「刺身はサラダである」の章について、人に話している時に着想を得た。
例によってうろ覚えで書き出したが、読み返したところ、自炊者にとってのフレームワーク本として推薦できると思う。
より具体的な作業について不安のある場合は、同著者の『男子厨房学(メンズ・クッキング)入門』も手がかりになるかもしれない。
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末尾にあげてる本が難しすぎるとクレームがついたので、オススメ本を追加する。
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2回目があるとしたら、まぜごはんの話を書くと思う。
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