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2012.03.01
誰でも訓練なしにできる→スピードと理解度の両方を高める読書の方法
-----人生は反復であり、そして反復こそ人生の美しさであることを理解しないものは、自ら自分に判決をくだしたも同然で、しょせん逃れられぬ運命、つまり自滅のほかあるまい。(キルケゴール)
読書力の限界を押し上げる方法
読書スキルを高め、読書力の限界を押し上げる最も確実な方法は、こうだ。
再読すること。
ボロボロになりながら読み進み、ヘトヘトになって読み終えた、自分にとっての限界本を、もう一度読むことである。
もう一度読むと、一度目には気付かなかったことに気付く。
読み飛ばしていた箇所、読み取れてなかった意味や連関、といった本の中に〈書いてあること〉もそうだが、一度目には見えなかった議論の飛躍や欠陥などの〈書いてないこと〉にも思い至る。
〈書いてないこと〉のうちでとりわけ重要なのは、最初は歯が立たなかったこの本が二度目となった今では一度目ほどには難しく感じない、という気づきである。
一度目の読みが、あなたを変えたのだ。
読み手として(ほんの少しかもしれないが)向上したのである。
読むことで得られるもののうちでは最上のひとつというべき〈気づき〉を回収すること無く、次の本に向かうことは大きな損失である。
なぜ人は再読しないのか?
読むスピードをあげて、さらに理解度を上げる方法も、上記とほとんど同じである。
一度読んだ(今度は限界本に限らなくていい)本を、もう一度読むこと。
二度読みは読書スピードを高めるトレーニングにもなる。
二度目読みの際のアタマの使い方、読書速度の緩急のつけ方とタイミング、目の置き方や飛ばし方、ページのめくり方など、学ぶことができる点は多い。
短距離ランナーが、自分の体を自転車なんかに引っ張らせてスピードを体に覚えさせるのに似ているかもしれない。
誰でも二度目に読むときは速い。読解も深い。
二度読みは、誰でも何の訓練もなしに取り掛かることができる。
しかしやってる人は意外に少ない。
よく本を読む人は、読みたい本の量が読むことができる量を必ず上回る。
読まれるのを待っている本がたくさんあるために、同じ本を繰り返し読むより、まだ読んでない本を読む方に引っ張られる。
あまり本を読まない人は、一冊を読むのも大変に感じる。
一冊でも本人のとっては長すぎる時間がかかるから、もう一度大変で時間のかかることをわざわざ繰り返そうとは思わない。
しかし二度読みの効用は、それによって失われるものよりも遥かに多い。
・理解は深まる
・読んだ内容が頭に残りやすくなる
・読書スキルが上がる
・二度と読む気にならないような本は最初から手にしなくなる
・本代が減る
・本を置く場所も減る
得失だけでいうなら、消化する本の量を半分にしてでも、二度読みした方がよい。
もちろん実際は、二度読みを習慣にしても、読む本の量は1/2にならない。
短期的には、二度読んだとしても2倍の時間がかかる訳ではないからだ。二度目は一度目ほど時間がかからず読める。後で述べるが、一度目の読みを手早くすまして二度目をじっくり読むやり方もあるが、この場合も普通に読むよりは速く読めるので、やはり2倍の時間はかからない。
長期的には、二度読みは読書スキルをより速く向上させるので、ますます読書速度が上がり、やはり投じた時間よりも大きなリターンがある。
なぜ読書速度とともに理解度が上がるのか?
二度読みが速い理由をもう少し説明しよう。
照明のない夜の道を行くことを想像しよう。
次に何があるか分からないところでは手探りで進むしかない。
本読みも同じことだ。
次に何が書いてあるか分からないところを読むには、おずおずと読書スピードのギアをローに落として進むことになる。
しかも速度が遅くても、この読み方だと理解度も上がらない。
文脈(コンテキスト)についての情報が不足すると、言葉の理解は極端に下がることが知られている。
言葉は様々に解釈できる可能性がある。
文脈(コンテキスト)情報は、その解釈の多すぎる枝(可能性)を刈り込み、検討すべき解釈の数を縮減することに用いられる。
読んでいて理解できないときは、たとえば背景知識などが不足していて、この文脈(コンテキスト)情報が足りないせいで解釈の可能性を絞り込むことができないため、より多くの時間を費やすも様々な解釈を検討するも決着をつけることができず、理解も低いままにとどまることが多い。
様々な解釈を試行錯誤していると、当然読むのに時間もかかる。
本来的に言えば、ある言葉を理解する=解釈を絞り込むためには、その書物全体(さらには関連する文献すべて)の言葉を知る必要がある。
ある箇所の解釈は、別のところの解釈と連動している。
すべての箇所の解釈がつじつまがあったものになるためには、すべてを知らなくてはならない。
しかし書物は、言語の線状性に沿って、順番に読むしかない。
最後まで読まないと、最初の言葉の解釈も確定しないとなれば、ルールを知らないゲームを続けなければならない時のような、宙吊りにされる不快と苦痛が待っている。
大抵の読者はそこまで我慢強くないから、そうした苦痛はできるだけ少ないように書き手は工夫する。
これから詳しく書かれるはずの内容の概略をあらかじめ示すなどして、解釈の前提や手がかりをできる限り明示し、解釈がわき道にそれ誤解が生じたり理解に時間がかかったりすることを減らそうとする。
広く通用するフォーマットに従って文章を構成することも、そのひとつである。何がどこに書かれているか予想がつくようにできれば、解釈の可能性は広がりすぎずに済む。
しかし複雑なことを伝えるようとする文章の中には、ある程度読み進まないと、解釈が確定しないものも、ままある。
これはふつう難解な書物と呼ばれる。
下見読みで〈再読〉を仕込む=デザインする
しかし〈難解〉である理由がわかれば、対策はある。
下見をすればいいのだ。
『本を読む本』でいうところの点検読書である。
まずは構成を頭にいれ、文脈(コンテキスト)をつかんでおく。
次に何が書いてあるか、この部分は他のどの部分と関係しているか、そしてどこをしっかり読むべきか、どこはすばやく通り過ぎればいいかなど、あらかじめ知ってから読む。
これだけで解釈の可能性はいくらか刈り込まれ、処理速度と理解度は格段に上がる。
下見読み自体は、がっつり一回で読み切る場合に比べると、短い時間で済む。
理解が難しい部分は、難しいことが確認できれば、そこで粘らなくても先に進んでいい。
点検に徹することで、ずっと短い時間で済ますこともできる。
どれくらいの時間をかければよいかは、読み手の知識と読書の力量、そして読もうとしている書物による。
親しんだ分野の書物ならば、どれが既知の情報であり、未知の情報が盛り込まれているのはどの部分であるか、目次や見出しを見るだけで判断がつくかもしれない。
この場合は目次を読み、見出しをチェックするだけでも、下見読みの大半が済む。
未知の分野の書物ならば、目次を読むだけでは何が書いてあるか理解することが難しいかもしれない。
こうした場合は目次を見るだけでは、内容的な連関が見えてこないため、構成も頭に入りにくい。
各章の最初と最後、タイトルや目次や見出しに現れる用語が登場する箇所などを拾い読みした方が、余計に時間がかかっても、トータルでは効率が良い。
そして第3の選択肢だが、他の書物によって下見読みする方が(また先に他の書物で下見読みしてからの方が)効率がよい場合がある。
文脈(コンテキスト)をつかむのに、情報の入手先をその本だけに限る必要はない。
有名な古典的書物なら、それについての概説書や入門書が存在する。
未知の分野の書物を読む前に、その分野の概説書や入門書を読んでおくことも役に立つ。この場合は、専門書より敷居の低いビジネス書や子供向けの本なども役に立つ。
そして、何度か書いていることだが、専門事典や百科事典も下見読みに役立つ。何よりありがたいのは、これらの記述は大抵の書物よりずっと短いことだ。複数冊で構成される大型の専門事典は多くないために、百科事典のほうが専門事典よりよほど充実した記述をしている場合があるが、それでも本にして数ページ分で意外なほど豊かな情報が得られる。
下見読みの本旨は、本番の読みに赴いたとき「あ、これはすでに読んだことがある」と思う箇所を、すなわち〈再読〉として読むことができる部分を増やしておくことである。
こういう〈外部支援〉を得て読むやり方は、図書館を味方につけて書物を読む方法だと言える。
これが本来の意味でのExtensive Readingである。
----まことに奇妙なことだが、ひとは書物を「読む」ことはできない、ただ再読することができるだけだ。良き読者、一流の読者、積極的で創造的な読者とは再読者なのである。(ナボコフ)
読書力の限界を押し上げる方法
読書スキルを高め、読書力の限界を押し上げる最も確実な方法は、こうだ。
再読すること。
ボロボロになりながら読み進み、ヘトヘトになって読み終えた、自分にとっての限界本を、もう一度読むことである。
もう一度読むと、一度目には気付かなかったことに気付く。
読み飛ばしていた箇所、読み取れてなかった意味や連関、といった本の中に〈書いてあること〉もそうだが、一度目には見えなかった議論の飛躍や欠陥などの〈書いてないこと〉にも思い至る。
〈書いてないこと〉のうちでとりわけ重要なのは、最初は歯が立たなかったこの本が二度目となった今では一度目ほどには難しく感じない、という気づきである。
一度目の読みが、あなたを変えたのだ。
読み手として(ほんの少しかもしれないが)向上したのである。
読むことで得られるもののうちでは最上のひとつというべき〈気づき〉を回収すること無く、次の本に向かうことは大きな損失である。
なぜ人は再読しないのか?
読むスピードをあげて、さらに理解度を上げる方法も、上記とほとんど同じである。
一度読んだ(今度は限界本に限らなくていい)本を、もう一度読むこと。
二度読みは読書スピードを高めるトレーニングにもなる。
二度目読みの際のアタマの使い方、読書速度の緩急のつけ方とタイミング、目の置き方や飛ばし方、ページのめくり方など、学ぶことができる点は多い。
短距離ランナーが、自分の体を自転車なんかに引っ張らせてスピードを体に覚えさせるのに似ているかもしれない。
誰でも二度目に読むときは速い。読解も深い。
二度読みは、誰でも何の訓練もなしに取り掛かることができる。
しかしやってる人は意外に少ない。
よく本を読む人は、読みたい本の量が読むことができる量を必ず上回る。
読まれるのを待っている本がたくさんあるために、同じ本を繰り返し読むより、まだ読んでない本を読む方に引っ張られる。
あまり本を読まない人は、一冊を読むのも大変に感じる。
一冊でも本人のとっては長すぎる時間がかかるから、もう一度大変で時間のかかることをわざわざ繰り返そうとは思わない。
しかし二度読みの効用は、それによって失われるものよりも遥かに多い。
・理解は深まる
・読んだ内容が頭に残りやすくなる
・読書スキルが上がる
・二度と読む気にならないような本は最初から手にしなくなる
・本代が減る
・本を置く場所も減る
得失だけでいうなら、消化する本の量を半分にしてでも、二度読みした方がよい。
もちろん実際は、二度読みを習慣にしても、読む本の量は1/2にならない。
短期的には、二度読んだとしても2倍の時間がかかる訳ではないからだ。二度目は一度目ほど時間がかからず読める。後で述べるが、一度目の読みを手早くすまして二度目をじっくり読むやり方もあるが、この場合も普通に読むよりは速く読めるので、やはり2倍の時間はかからない。
長期的には、二度読みは読書スキルをより速く向上させるので、ますます読書速度が上がり、やはり投じた時間よりも大きなリターンがある。
なぜ読書速度とともに理解度が上がるのか?
二度読みが速い理由をもう少し説明しよう。
照明のない夜の道を行くことを想像しよう。
次に何があるか分からないところでは手探りで進むしかない。
本読みも同じことだ。
次に何が書いてあるか分からないところを読むには、おずおずと読書スピードのギアをローに落として進むことになる。
しかも速度が遅くても、この読み方だと理解度も上がらない。
文脈(コンテキスト)についての情報が不足すると、言葉の理解は極端に下がることが知られている。
言葉は様々に解釈できる可能性がある。
文脈(コンテキスト)情報は、その解釈の多すぎる枝(可能性)を刈り込み、検討すべき解釈の数を縮減することに用いられる。
読んでいて理解できないときは、たとえば背景知識などが不足していて、この文脈(コンテキスト)情報が足りないせいで解釈の可能性を絞り込むことができないため、より多くの時間を費やすも様々な解釈を検討するも決着をつけることができず、理解も低いままにとどまることが多い。
様々な解釈を試行錯誤していると、当然読むのに時間もかかる。
本来的に言えば、ある言葉を理解する=解釈を絞り込むためには、その書物全体(さらには関連する文献すべて)の言葉を知る必要がある。
ある箇所の解釈は、別のところの解釈と連動している。
すべての箇所の解釈がつじつまがあったものになるためには、すべてを知らなくてはならない。
しかし書物は、言語の線状性に沿って、順番に読むしかない。
最後まで読まないと、最初の言葉の解釈も確定しないとなれば、ルールを知らないゲームを続けなければならない時のような、宙吊りにされる不快と苦痛が待っている。
大抵の読者はそこまで我慢強くないから、そうした苦痛はできるだけ少ないように書き手は工夫する。
これから詳しく書かれるはずの内容の概略をあらかじめ示すなどして、解釈の前提や手がかりをできる限り明示し、解釈がわき道にそれ誤解が生じたり理解に時間がかかったりすることを減らそうとする。
広く通用するフォーマットに従って文章を構成することも、そのひとつである。何がどこに書かれているか予想がつくようにできれば、解釈の可能性は広がりすぎずに済む。
しかし複雑なことを伝えるようとする文章の中には、ある程度読み進まないと、解釈が確定しないものも、ままある。
これはふつう難解な書物と呼ばれる。
下見読みで〈再読〉を仕込む=デザインする
しかし〈難解〉である理由がわかれば、対策はある。
下見をすればいいのだ。
『本を読む本』でいうところの点検読書である。
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まずは構成を頭にいれ、文脈(コンテキスト)をつかんでおく。
次に何が書いてあるか、この部分は他のどの部分と関係しているか、そしてどこをしっかり読むべきか、どこはすばやく通り過ぎればいいかなど、あらかじめ知ってから読む。
これだけで解釈の可能性はいくらか刈り込まれ、処理速度と理解度は格段に上がる。
下見読み自体は、がっつり一回で読み切る場合に比べると、短い時間で済む。
理解が難しい部分は、難しいことが確認できれば、そこで粘らなくても先に進んでいい。
点検に徹することで、ずっと短い時間で済ますこともできる。
どれくらいの時間をかければよいかは、読み手の知識と読書の力量、そして読もうとしている書物による。
親しんだ分野の書物ならば、どれが既知の情報であり、未知の情報が盛り込まれているのはどの部分であるか、目次や見出しを見るだけで判断がつくかもしれない。
この場合は目次を読み、見出しをチェックするだけでも、下見読みの大半が済む。
未知の分野の書物ならば、目次を読むだけでは何が書いてあるか理解することが難しいかもしれない。
こうした場合は目次を見るだけでは、内容的な連関が見えてこないため、構成も頭に入りにくい。
各章の最初と最後、タイトルや目次や見出しに現れる用語が登場する箇所などを拾い読みした方が、余計に時間がかかっても、トータルでは効率が良い。
そして第3の選択肢だが、他の書物によって下見読みする方が(また先に他の書物で下見読みしてからの方が)効率がよい場合がある。
文脈(コンテキスト)をつかむのに、情報の入手先をその本だけに限る必要はない。
有名な古典的書物なら、それについての概説書や入門書が存在する。
未知の分野の書物を読む前に、その分野の概説書や入門書を読んでおくことも役に立つ。この場合は、専門書より敷居の低いビジネス書や子供向けの本なども役に立つ。
そして、何度か書いていることだが、専門事典や百科事典も下見読みに役立つ。何よりありがたいのは、これらの記述は大抵の書物よりずっと短いことだ。複数冊で構成される大型の専門事典は多くないために、百科事典のほうが専門事典よりよほど充実した記述をしている場合があるが、それでも本にして数ページ分で意外なほど豊かな情報が得られる。
下見読みの本旨は、本番の読みに赴いたとき「あ、これはすでに読んだことがある」と思う箇所を、すなわち〈再読〉として読むことができる部分を増やしておくことである。
こういう〈外部支援〉を得て読むやり方は、図書館を味方につけて書物を読む方法だと言える。
これが本来の意味でのExtensive Readingである。
----まことに奇妙なことだが、ひとは書物を「読む」ことはできない、ただ再読することができるだけだ。良き読者、一流の読者、積極的で創造的な読者とは再読者なのである。(ナボコフ)
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