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2012.04.13
サラダの果て、はじまりの料理/新入生のための一人飯ハック
サラダからはじめよ/新入生のための一人飯ハック 読書猿Classic: between / beyond readers

の続きである。
言ってることは面倒くさいが、やってることは簡単な、自炊の話を続けよう。
サラダに失敗はない。
なんとなれば、サラダはまだ料理ではないからだ。
すべての料理の中にサラダがあり、あらゆる料理はサラダの成れの果てである。
そしてサラダという考え方(フレームワーク)を理解することは、数十数百のレシピを知ることに匹敵する(料理の組合せ論的転回Combinatoric turn)、というのが前回のあらすじだった。
しかし自炊の道は、はじまったばかりである。
料理の四面体でいえば、我々はまだ、その最底辺にようやく取りついたに過ぎない。

(玉村豊男『料理の四面体』鎌倉書房1980→中公文庫2010)
我々はまだ火を知らない。
四面体を駆け上り、レパートリーを立体化するには、加熱(熱を加えること)に着手しなければならない。
今ここに、料理がはじまる。
火が水に服従し、砂糖がとけるのを待たなければならない(ボーヴォワール)
最も枢要な点を先取りして述べておこう。
まったく同じ働きかけでも、順序を変えると、まるで違ったものとなることがある。
靴下を履いてから靴を履くのと、靴を履いてから靴下を履く(履こうとする)ことは同じでない。
加熱してから混ぜるよりも、混ぜてから加熱する方が難しい。
理由のひとつは、素材はそれぞれに個性を持ち、熱の通り具合ひとつとっても同じではないからだ。
あっという間に熱が通る食材Aと徹底的に熱を加えなければ食えない食材Bがあるとしよう。
加熱してから混ぜるならば、問題は生じない。食材Aには短い時間を、食材Bには長い時間をかけて、それぞれに熱を加えて食べることができるようにしてから、しかるのち混ぜれば良い。
食べられるものを(あるいは個別に加熱・加工して、食べられるようにしてから)混ぜればよかったサラダは、この範囲におさまるものであった。
しかし混ぜてから加熱する場合は、問題が生じる。
何の工夫もなければ、すでに混ぜられた食材には同じだけ熱が加えられることになり、最も悪いケースを想定するなら、食材Aは熱を加え過ぎで黒こげ、一方では食材Bは生焼けという、どじっ子料理の典型ができあがる。
これを避けるためには、熱の通り具合を最適化するために、材料の切り方・大きさを変え、または調理の順序や混ぜるタイミングを工夫したりする。空気や水や油や蒸気の、それぞれの熱伝導率の違いも利用できる。
ここまで来るともう、どこから見ても真っ当な料理である。
火を制するものは、料理を制する。
しかし未だ火を知らないサラダ人に、いきなり火を征服せよ、と言っても無理がある。
我々はまだ、二つの足で立ち上がったばかりなのだ。
我々はまず、サラダの延長線上にあるもののうち、最も手前にあるもの、加熱はするが火加減を考えなくても構わないものから着手するだろう。
絶望という名のパスタ
もしもあなたがヨーロッパの都市(たとえばロンドンを想定している)に独居し、バカ高くまずい外食に別れを告げ自炊をはじめるなら、とりあえずの最適解は、パスタを安く買い込むことだと知るだろう。
湯さえ沸かせれば、パスタは作れる。
ヤカンや電気ポットですら可能である。
ロングパスタだと、はみ出す?ふたが閉まらない? はみ出さないようにポキリと折ってから茹でればいいのだ。
作り方はシンプル、パスタとソースをそれぞれ(加熱して)食べられるようにした後に、まぜるだけである。
したがってパスタは、我々が乗り越えようとしたサラダと料理の境界よりも手前に存在する。
つまりパスタは、まがうことなくサラダである。
イタリア語であるパスタ(pasta)の原義は、英語 paste (ペースト)、フランス語 pate (パテ)と同じく、俗ラテン語の pasta (生地、練りもの)である。
小麦粉などを主体とした練り物(生パスタ)、およびそれを乾燥した製品(乾燥パスタ)の両方を指し、 日本語の「麺」にのように細長い形状にこだわらない。
ロングパスタのひとつであるスパゲッティ Spaghetti(spagoスパーゴ(紐(ひも))にettoという縮小辞をつけた言葉)や最も細いカペッリーニ、ショートパスタの一種マカロニ、ペン先のように斜めに切られたペンネ、縁が波打った板状のパスタであるラザーニェ、団子状のニョッキ、 デュラムセモリナ粉に水をふりかけて粟粒大に丸めたクスクスなども、みなパスタである。
パスタの種類に応じた加熱方法をとり(袋その他に加熱時間を含めて書いてあるはず;スパゲッティなら1リットル当り一つまみの塩を加えて水を沸騰させ、その中で12~3分間茹でればいい)、あとはその時々の好みのソースとからめて食べればよい。
どんなパスタに、何をソースにしてからめるかによって、無限の可能性が開けていることが即座に理解されるだろう。
極端に言えば、そのまま食べてもいい。
まずい? 食べずに死んだ者は多いが、まずいものを食べて死んだ者はいない。
最低のパスタにも、いくつか足し加えるだけで、名前のついたものになる。
何も足さないパスタに、たとえば油を加えよう。風味のある油を使えば、それだけで完成だ。
ニンニクとトウガラシを油で炒め、風味付けしたものを使おう。この油に、固ゆでした(少し早めに湯から引き上げた)パスタを投じて炒めれば、それだけでアーリオ・オリオ・ペペロンチーノ(ペペロンチーノと略される)になる。
まともに食材がない絶望的な状況でもつくれることから、「絶望のパスタ」の二つ名を持つ。
「最低」から「絶望」へとよじ登るためには、少しの油とひとかけらのニンニク、1本のトウガラシがあればよい。
ニンニク+トウガラシ+油+スパゲッティ→スパゲッティ・ペペロンチーノ
トマト・ソースをベースにトウガラシを加えれば、アラビアータになる。
トマトソース+トウガラシ+スパゲッティ→スパゲッティ・アラビアータ
パスタはもともと、イタリア半島南部を起源とする、この程度に簡素なもの(味付け炭水化物)に過ぎなかった。
半島北部へ伝わるにつれ、たとえば食通の町ボローニャでフランスの煮込み料理(ラグー)と交雑することで、ラグー・アッラ・ボロニェーゼ、いわゆるミートソースが生まれた。
イギリスには二つのソースと三百の宗教がある。フランスには二つの宗教しかないが、三百を超えるソースがある(タレーラン)
いくら無限の組合せがあるといってもパスタばかりではやるせない、どうしても米の飯が食べたいという怨嗟の声が聞こえてくる。
ジャポニカ米と水が手に入るなら、今日では、どのようなうっかり者にも、ほとんど誰にも、米をたくことはできる。
炊飯器という、史上最も完成された自動調理装置のおかげである。
「untouched by human hands」というコンセプトからすれば、未来からやって来たと考えてもおかしくないくらいのガジェットであるが、1955年にはすでに、四季のある日本の寒暖差を克服し、スイッチを入れるだけで自動的に炊き上がる電気炊飯器が商品化されてる。
火を制する、という人類史的偉業に挑む前に、火加減を丸投げできる炊飯器という〈ひみつ道具〉をとことん使い切るといったアプローチがあってもいい。
その気になれば炊飯器でチョコレートケーキだって焼けるが、最初からそんな変化球(というか違う球技)ではなく、まずはどの機種にも登載されている標準機能で米を炊こう。
計量カップなどで米の量を計り、米の量に応じた水を、釜の内側にある該当する目盛りまで入れれば、あとはスイッチを入れるだけでいい。わざわざ書くまでもないかもしれない。
サラダの公式に従い、素材(ここでは米)を先に加熱し食べられる状態にする。つまり米を炊く。
ここに食べられる他の食べられる素材を混ぜれば、炊いた米のサラダ=混ぜごはんができ上がる。
食べられるもの同士を混ぜ合わせるだけであり、その後に熱を加えたりしないので、よほどのことがない限り失敗はない。
つまり料理未満のもの=サラダの域にとどまるものだと言える。
間違いが生じるとしたら、手わざに起因するものではなく、プランニングに責を求めるべき場合が大半だろう。
例えば〈イチゴの混ぜごはん〉のようなものは(グレープフルーツの炊き込みご飯などと同様に)、失敗というより残念というべきである。
食べられるものの世界に戻ろう。
炊いた米に、市販の寿司の素を混ぜれば、五目ずし(ちらし寿司)ができる。
レディメイドを許容しない立場ならば、新鮮な鶏卵を好みの調味料とともにかき回して、炊いた米にかければ卵かけご飯となる。
これだけで1年が満たされるほどの奥行きがある。
青菜を刻んで混ぜれば、菜飯(なめし)になる。
ワカメやちりめんジャコや昆布茶、ゆかり(赤シソを原料にしたふりかけ。この名称自体は、ふりかけで有名な三島食品の商標である)、その他ふりかけを混ぜ込んだものはポピュラーだろう。
コンビーフを混ぜれば、ビルマでイギリス軍捕虜に大人気のコンビーフ混ぜご飯になる。(出典:会田雄次『アーロン収容所』中公新書)
ヒジキやタケノコをあらかじめ炊いておき、炊いた飯に混ぜるのも可だ。
前回つくったナムルを白飯にのせて混ぜて食うのがビビンバ(ピビムパプ)である。
琉球王国の宮廷料理のひとつである菜飯(セーファン)は、白飯の上に卵焼き、人参・椎茸などの野菜の煮物、茹でた青菜類を綺麗に盛り付ける。食べる際に、豚肉や鰹節から取って醤油などで味付けしただし汁を上からかけ、茶漬けのようにして食べるものである。
エジプト料理のコシャリは、ヒヨコ豆、レンズ豆をミックスし揚げた玉ねぎとトマトソースをご飯にかけて食べる混ぜご飯である(米だけでなくパスタにもいける)。
混ぜご飯の最高峰としては、タイを三枚におろし、濃いめの照焼きにして骨をとり細かく切り、飯の炊き上がったところへこれを加え、飯櫃(めしびつ)に移すときにかき混ぜて食べる鯛めしがある。
サブカテゴリーとして〈茶漬け〉というファストフードがあるが、こちらは混ぜるまでもなく、米飯の上に何か乗っけて、茶や湯をぶっかければいい。
ほとんどの人は、ことさら茶づけを料理とは考えないかもしれないが、バリエーションだけはいくらでも増やすことができる。
その意味で、サラダと同じく、料理未満の料理、すなわち〈限界料理〉の一員であることは言を待たない。箸も休まない。
ここまではまだ、(広義の)サラダの領海内である。
料理に向かって、一歩を踏み出す時が来た。
三度炊く 飯さえ硬し軟らかし 思うままにはならぬ世の中(北大路魯山人)
実のところ、炊飯器を用いるならば、火加減を丸投げできるために、ほとんど何の工夫もせずに、加熱の順序を変えることが可能である。
すなわち、炊いてから混ぜるのではなく、その逆に米と具を混ぜた上で炊飯器で炊けば、今度は炊き込みご飯ができあがる。
加熱する→混ぜる 混ぜる→加熱する
混ぜご飯 炊き込みご飯
五目ずし(ちらしずし) 五目ごはん(かやくご飯)
混ぜるものは、一種類でも多種類でもよい。
一種類ものでよくつくられる炊き込みご飯には、まつたけ飯、くり飯、たけのこ飯、芋飯、きのこ飯、たい飯、かき飯などがあるが(いずれもお品書きに書き連ねられる水準に達している)、世界には熱を加えれば食べられるものは無数に存在する。切り刻むことができさえすれば、いくらも組合せはあり得えよう。
味付けは、塩味(ないし出汁系)としょうゆ味系が2大系統だが、クリ、青豆、菜類など、炊き込む材料の色を美しく出したいときは塩味(ないし出汁系)に、マツタケ、シメジ、タケノコ、とり肉、魚貝などはしょうゆ味にすることが多い。
もちろん色の濃淡に拘らなければ、しょう油・みりん・酒…と自分で合わせ調味料を作らなくても、すでに出しその他が配合された《めんつゆ》1本で代用することができる。
めんつゆは、炊き込みご飯から煮物、炒め物と、和風っぽいテイストの料理全般に使えるしょう油系のノンオイル・ドレッシングである。
やや甘いので、すっきりした味を追求したいときは《ポン酢しょう油》がいい。これも鍋物から炒め物まで使うことができる。
マツタケ+米+めんつゆ→炊飯→まつたけご飯
シメジ+米+めんつゆ→炊飯→しめじご飯
タケノコ+米+めんつゆ→炊飯→たけのこご飯
あさり+米+めんつゆ→炊飯→あさりご飯
鶏肉・ヒジキ・刻みきつね・にんじんなど+米+めんつゆ→炊飯→かやくご飯
_____+米+めんつゆ→炊飯→_______ご飯
めんつゆに含まれる濃口醤油の代わりに、白醤油や淡口醤油をもちいた《白だし》がある。
素材の色や風味を損なわずに料理を仕上げることができるもので、主に煮物や吸い物濃縮めんつゆを用いるが、これも同じく炊き込みご飯に用いることができる。
湯葉+米+白だし→炊飯→湯葉ご飯
サトイモ+米+白だし→炊飯→さといもご飯
______+白だし→炊飯→_____ご飯
混ぜご飯から炊き込みご飯への道程は、サラダの限界を踏み越えるための、最もやさしいルートである。
混ぜご飯することが可能なもののほとんどが、〈炊く〉と〈混ぜる〉を入れ替えるだけで、そのまま炊き込みご飯に転化する(火の通りやすい青菜や、水を吸ってとんでもないことになるワカメなどは炊いてから混ぜる方が良い)。
加えて、混ぜご飯/炊き込みご飯には、これまで(パスタを含む)サラダにはなかった特性を持っている。
合わせ鏡的なサラダの多様性の中に佇む魂に冷水をかけるつもりで言うならば、サラダにあった根本的欠点に対するひとつの解答を携えている。
サラダにあった根本的欠点とは何か?
それは作ったらすぐに食べなくてはならないこと、つまり作り置きができないことである。
サラダにおいては、調理と食事は、時間的にも空間的にも隣接している必要があった。
すべての時間を自分の裁量で処分できる牧歌的時代であれば、このことは大きな問題とはならなかっただろう。
しかし近代とは、望む望まないにかかわらず、自分の時間の大部分が、自分の裁量に服さない時代である。
我々は、生活のあらゆる場面で他のものに合わせて行動することを強いられる。
調理と食事の分離ができてはじめて、自炊は近代的段階に達する。
《あらかじめ作っておく》ことができるおかげで、自炊者は調理と食事のタイミングをそれぞれ自由に設定できるようになる。
これは、慢性的な時間不足の状態に置かれる近代人にとって、自炊のための必須条件のひとつである。
混ぜご飯/炊き込みご飯がサラダと異なる点は、つくってから時間が経ってもおいしいことである。ちらし寿司などは、ある程度時間が経った方が味が馴染んでよいくらいである。
冷凍庫と電子レンジが使える環境ならば、一人で食べきれないほど作ったら、おにぎりにして冷凍しておく。調理する時間や気力がないときの良い中継ぎになる。
これに加えて、炊き込みご飯ならば、炊飯器のタイマー機能を生かせば、米と具と調味料を釜に《仕掛けておく》だけで、好きな時刻に調理が自動的に行われ、作りたてが食べられる。
しかしながら混ぜご飯/炊き込みご飯自体は、白ご飯ほどにはもたないという限界を持っている。
本格的な〈作り置き〉を扱うには、稿を改める必要があろう。
ただしパスタや米はそもそも乾物=保存食であることは、心に刻んでおいて損はない。
チャーハンの陽のもとに
先に加熱を済ませておく〈混ぜご飯〉、混ぜた上で加熱するが加熱具合は丸投げできる〈炊き込みご飯〉と来たライス三部作も、とうとう最後の段階にたどり着いた。
我々自身の手で火加減を操り、加熱しながら混ぜる〈焼き飯〉に触れて、コンロとフライパンを使う次回以降の〈普通の料理〉への橋渡しとしよう。
恐れることはない。
可能な限りサラダのように作ることが成功の秘訣である。
つまり、先にできる加熱はすべて済ましておいて、混ぜるときの加熱は最小限にすること。
もっともシンプルな(具材の少ない)ネギ卵チャーハンで説明しよう。
1.フライパンに油を多めに入れて、刻んだネギを炒める。色が変わってしまうまで(こげた感じになるまで)炒めていい。それができたら、ネギと油を別の器に移して、フライパンを空ける。
2.また油を引き、卵を2~3個投じてかき回す。これは熱を加えすぎない。多少固まってきたら、フライパンを火からおろして余熱で仕上げるくらいでいい。半熟ぎみの方があとで混ぜやすい。これも別のさらに移して、フライパンを空ける。
3.冷やご飯をフライパンに投じて、切るように混ぜる。冷えて固まったものをほぐすのだが、これが面倒であれば、冷やご飯を電子レンジで温めてから、フライパンに投じるといくらか楽である。それが面倒なときは、冷ご飯の後にフライパンに少量の水を入れて、その熱湯化+水蒸気でもって冷やご飯をほぐす。力自慢は、何も考えず、ヘラで冷ご飯と格闘してもいい。
4.ほぐれかけたら、フライパンにしょう油を投じる。これも水分なので、冷ご飯がほぐれるのに役立つ。先に炒めた、ネギ+油、半炒り卵を投じて、火の上のフライパン上で全体をガシガシ混ぜていく。多少のコゲは、焼き飯の華だから気にせず混ぜ炒める。コゲをわざとできるように焼けたフライパン面にご飯を押し付けて焼きを入れる人もいる。
つまり、ネギ(油)と卵を食べられる状態に近づけるべく、先に熱を加えておくのがポイントである。
ここまででほぼ、各素材は食べられる状態になっているから、ぶっちゃけ混ざりさえすれば、最低限の要件は満たされる。
具材を増やしたい場合は、2.と3.の間に加熱しておき、最後に一緒に投下すればいい。
すなわち全体加熱の具合は「好みの問題」にほぼ限定される。
繰り返すが、まずい料理を食べて死んだ者はいない。
それでも、できるだけうまいものを食べたいのも人間の仕様だ。
上記のネギ卵チャーハンは、第1段階のネギを油で炒めるところでほぼ成否が決定する。
ここで腹がなるような香りがたちのぼるなら、あと必要なのは、かき混ぜるための少しの腕力だけだ。

の続きである。
言ってることは面倒くさいが、やってることは簡単な、自炊の話を続けよう。
サラダに失敗はない。
なんとなれば、サラダはまだ料理ではないからだ。
すべての料理の中にサラダがあり、あらゆる料理はサラダの成れの果てである。
そしてサラダという考え方(フレームワーク)を理解することは、数十数百のレシピを知ることに匹敵する(料理の組合せ論的転回Combinatoric turn)、というのが前回のあらすじだった。
しかし自炊の道は、はじまったばかりである。
料理の四面体でいえば、我々はまだ、その最底辺にようやく取りついたに過ぎない。

(玉村豊男『料理の四面体』鎌倉書房1980→中公文庫2010)
我々はまだ火を知らない。
四面体を駆け上り、レパートリーを立体化するには、加熱(熱を加えること)に着手しなければならない。
今ここに、料理がはじまる。
火が水に服従し、砂糖がとけるのを待たなければならない(ボーヴォワール)
最も枢要な点を先取りして述べておこう。
まったく同じ働きかけでも、順序を変えると、まるで違ったものとなることがある。
靴下を履いてから靴を履くのと、靴を履いてから靴下を履く(履こうとする)ことは同じでない。
加熱してから混ぜるよりも、混ぜてから加熱する方が難しい。
理由のひとつは、素材はそれぞれに個性を持ち、熱の通り具合ひとつとっても同じではないからだ。
あっという間に熱が通る食材Aと徹底的に熱を加えなければ食えない食材Bがあるとしよう。
加熱してから混ぜるならば、問題は生じない。食材Aには短い時間を、食材Bには長い時間をかけて、それぞれに熱を加えて食べることができるようにしてから、しかるのち混ぜれば良い。
食べられるものを(あるいは個別に加熱・加工して、食べられるようにしてから)混ぜればよかったサラダは、この範囲におさまるものであった。
しかし混ぜてから加熱する場合は、問題が生じる。
何の工夫もなければ、すでに混ぜられた食材には同じだけ熱が加えられることになり、最も悪いケースを想定するなら、食材Aは熱を加え過ぎで黒こげ、一方では食材Bは生焼けという、どじっ子料理の典型ができあがる。
これを避けるためには、熱の通り具合を最適化するために、材料の切り方・大きさを変え、または調理の順序や混ぜるタイミングを工夫したりする。空気や水や油や蒸気の、それぞれの熱伝導率の違いも利用できる。
ここまで来るともう、どこから見ても真っ当な料理である。
火を制するものは、料理を制する。
しかし未だ火を知らないサラダ人に、いきなり火を征服せよ、と言っても無理がある。
我々はまだ、二つの足で立ち上がったばかりなのだ。
我々はまず、サラダの延長線上にあるもののうち、最も手前にあるもの、加熱はするが火加減を考えなくても構わないものから着手するだろう。
絶望という名のパスタ
もしもあなたがヨーロッパの都市(たとえばロンドンを想定している)に独居し、バカ高くまずい外食に別れを告げ自炊をはじめるなら、とりあえずの最適解は、パスタを安く買い込むことだと知るだろう。
湯さえ沸かせれば、パスタは作れる。
ヤカンや電気ポットですら可能である。
ロングパスタだと、はみ出す?ふたが閉まらない? はみ出さないようにポキリと折ってから茹でればいいのだ。
作り方はシンプル、パスタとソースをそれぞれ(加熱して)食べられるようにした後に、まぜるだけである。
したがってパスタは、我々が乗り越えようとしたサラダと料理の境界よりも手前に存在する。
つまりパスタは、まがうことなくサラダである。
イタリア語であるパスタ(pasta)の原義は、英語 paste (ペースト)、フランス語 pate (パテ)と同じく、俗ラテン語の pasta (生地、練りもの)である。
小麦粉などを主体とした練り物(生パスタ)、およびそれを乾燥した製品(乾燥パスタ)の両方を指し、 日本語の「麺」にのように細長い形状にこだわらない。
ロングパスタのひとつであるスパゲッティ Spaghetti(spagoスパーゴ(紐(ひも))にettoという縮小辞をつけた言葉)や最も細いカペッリーニ、ショートパスタの一種マカロニ、ペン先のように斜めに切られたペンネ、縁が波打った板状のパスタであるラザーニェ、団子状のニョッキ、 デュラムセモリナ粉に水をふりかけて粟粒大に丸めたクスクスなども、みなパスタである。
パスタの種類に応じた加熱方法をとり(袋その他に加熱時間を含めて書いてあるはず;スパゲッティなら1リットル当り一つまみの塩を加えて水を沸騰させ、その中で12~3分間茹でればいい)、あとはその時々の好みのソースとからめて食べればよい。
どんなパスタに、何をソースにしてからめるかによって、無限の可能性が開けていることが即座に理解されるだろう。
極端に言えば、そのまま食べてもいい。
まずい? 食べずに死んだ者は多いが、まずいものを食べて死んだ者はいない。
最低のパスタにも、いくつか足し加えるだけで、名前のついたものになる。
何も足さないパスタに、たとえば油を加えよう。風味のある油を使えば、それだけで完成だ。
ニンニクとトウガラシを油で炒め、風味付けしたものを使おう。この油に、固ゆでした(少し早めに湯から引き上げた)パスタを投じて炒めれば、それだけでアーリオ・オリオ・ペペロンチーノ(ペペロンチーノと略される)になる。
まともに食材がない絶望的な状況でもつくれることから、「絶望のパスタ」の二つ名を持つ。
「最低」から「絶望」へとよじ登るためには、少しの油とひとかけらのニンニク、1本のトウガラシがあればよい。
ニンニク+トウガラシ+油+スパゲッティ→スパゲッティ・ペペロンチーノ
トマト・ソースをベースにトウガラシを加えれば、アラビアータになる。
トマトソース+トウガラシ+スパゲッティ→スパゲッティ・アラビアータ
パスタはもともと、イタリア半島南部を起源とする、この程度に簡素なもの(味付け炭水化物)に過ぎなかった。
半島北部へ伝わるにつれ、たとえば食通の町ボローニャでフランスの煮込み料理(ラグー)と交雑することで、ラグー・アッラ・ボロニェーゼ、いわゆるミートソースが生まれた。
イギリスには二つのソースと三百の宗教がある。フランスには二つの宗教しかないが、三百を超えるソースがある(タレーラン)
いくら無限の組合せがあるといってもパスタばかりではやるせない、どうしても米の飯が食べたいという怨嗟の声が聞こえてくる。
ジャポニカ米と水が手に入るなら、今日では、どのようなうっかり者にも、ほとんど誰にも、米をたくことはできる。
炊飯器という、史上最も完成された自動調理装置のおかげである。
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「untouched by human hands」というコンセプトからすれば、未来からやって来たと考えてもおかしくないくらいのガジェットであるが、1955年にはすでに、四季のある日本の寒暖差を克服し、スイッチを入れるだけで自動的に炊き上がる電気炊飯器が商品化されてる。
火を制する、という人類史的偉業に挑む前に、火加減を丸投げできる炊飯器という〈ひみつ道具〉をとことん使い切るといったアプローチがあってもいい。
その気になれば炊飯器でチョコレートケーキだって焼けるが、最初からそんな変化球(というか違う球技)ではなく、まずはどの機種にも登載されている標準機能で米を炊こう。
計量カップなどで米の量を計り、米の量に応じた水を、釜の内側にある該当する目盛りまで入れれば、あとはスイッチを入れるだけでいい。わざわざ書くまでもないかもしれない。
サラダの公式に従い、素材(ここでは米)を先に加熱し食べられる状態にする。つまり米を炊く。
ここに食べられる他の食べられる素材を混ぜれば、炊いた米のサラダ=混ぜごはんができ上がる。
食べられるもの同士を混ぜ合わせるだけであり、その後に熱を加えたりしないので、よほどのことがない限り失敗はない。
つまり料理未満のもの=サラダの域にとどまるものだと言える。
間違いが生じるとしたら、手わざに起因するものではなく、プランニングに責を求めるべき場合が大半だろう。
例えば〈イチゴの混ぜごはん〉のようなものは(グレープフルーツの炊き込みご飯などと同様に)、失敗というより残念というべきである。
食べられるものの世界に戻ろう。
炊いた米に、市販の寿司の素を混ぜれば、五目ずし(ちらし寿司)ができる。
レディメイドを許容しない立場ならば、新鮮な鶏卵を好みの調味料とともにかき回して、炊いた米にかければ卵かけご飯となる。
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青菜を刻んで混ぜれば、菜飯(なめし)になる。
ワカメやちりめんジャコや昆布茶、ゆかり(赤シソを原料にしたふりかけ。この名称自体は、ふりかけで有名な三島食品の商標である)、その他ふりかけを混ぜ込んだものはポピュラーだろう。
コンビーフを混ぜれば、ビルマでイギリス軍捕虜に大人気のコンビーフ混ぜご飯になる。(出典:会田雄次『アーロン収容所』中公新書)
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ヒジキやタケノコをあらかじめ炊いておき、炊いた飯に混ぜるのも可だ。
前回つくったナムルを白飯にのせて混ぜて食うのがビビンバ(ピビムパプ)である。
琉球王国の宮廷料理のひとつである菜飯(セーファン)は、白飯の上に卵焼き、人参・椎茸などの野菜の煮物、茹でた青菜類を綺麗に盛り付ける。食べる際に、豚肉や鰹節から取って醤油などで味付けしただし汁を上からかけ、茶漬けのようにして食べるものである。
エジプト料理のコシャリは、ヒヨコ豆、レンズ豆をミックスし揚げた玉ねぎとトマトソースをご飯にかけて食べる混ぜご飯である(米だけでなくパスタにもいける)。
混ぜご飯の最高峰としては、タイを三枚におろし、濃いめの照焼きにして骨をとり細かく切り、飯の炊き上がったところへこれを加え、飯櫃(めしびつ)に移すときにかき混ぜて食べる鯛めしがある。
サブカテゴリーとして〈茶漬け〉というファストフードがあるが、こちらは混ぜるまでもなく、米飯の上に何か乗っけて、茶や湯をぶっかければいい。
ほとんどの人は、ことさら茶づけを料理とは考えないかもしれないが、バリエーションだけはいくらでも増やすことができる。
その意味で、サラダと同じく、料理未満の料理、すなわち〈限界料理〉の一員であることは言を待たない。箸も休まない。
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ここまではまだ、(広義の)サラダの領海内である。
料理に向かって、一歩を踏み出す時が来た。
三度炊く 飯さえ硬し軟らかし 思うままにはならぬ世の中(北大路魯山人)
実のところ、炊飯器を用いるならば、火加減を丸投げできるために、ほとんど何の工夫もせずに、加熱の順序を変えることが可能である。
すなわち、炊いてから混ぜるのではなく、その逆に米と具を混ぜた上で炊飯器で炊けば、今度は炊き込みご飯ができあがる。
加熱する→混ぜる 混ぜる→加熱する
混ぜご飯 炊き込みご飯
五目ずし(ちらしずし) 五目ごはん(かやくご飯)
混ぜるものは、一種類でも多種類でもよい。
一種類ものでよくつくられる炊き込みご飯には、まつたけ飯、くり飯、たけのこ飯、芋飯、きのこ飯、たい飯、かき飯などがあるが(いずれもお品書きに書き連ねられる水準に達している)、世界には熱を加えれば食べられるものは無数に存在する。切り刻むことができさえすれば、いくらも組合せはあり得えよう。
味付けは、塩味(ないし出汁系)としょうゆ味系が2大系統だが、クリ、青豆、菜類など、炊き込む材料の色を美しく出したいときは塩味(ないし出汁系)に、マツタケ、シメジ、タケノコ、とり肉、魚貝などはしょうゆ味にすることが多い。
もちろん色の濃淡に拘らなければ、しょう油・みりん・酒…と自分で合わせ調味料を作らなくても、すでに出しその他が配合された《めんつゆ》1本で代用することができる。
めんつゆは、炊き込みご飯から煮物、炒め物と、和風っぽいテイストの料理全般に使えるしょう油系のノンオイル・ドレッシングである。
やや甘いので、すっきりした味を追求したいときは《ポン酢しょう油》がいい。これも鍋物から炒め物まで使うことができる。
マツタケ+米+めんつゆ→炊飯→まつたけご飯
シメジ+米+めんつゆ→炊飯→しめじご飯
タケノコ+米+めんつゆ→炊飯→たけのこご飯
あさり+米+めんつゆ→炊飯→あさりご飯
鶏肉・ヒジキ・刻みきつね・にんじんなど+米+めんつゆ→炊飯→かやくご飯
_____+米+めんつゆ→炊飯→_______ご飯
めんつゆに含まれる濃口醤油の代わりに、白醤油や淡口醤油をもちいた《白だし》がある。
素材の色や風味を損なわずに料理を仕上げることができるもので、主に煮物や吸い物濃縮めんつゆを用いるが、これも同じく炊き込みご飯に用いることができる。
湯葉+米+白だし→炊飯→湯葉ご飯
サトイモ+米+白だし→炊飯→さといもご飯
______+白だし→炊飯→_____ご飯
混ぜご飯から炊き込みご飯への道程は、サラダの限界を踏み越えるための、最もやさしいルートである。
混ぜご飯することが可能なもののほとんどが、〈炊く〉と〈混ぜる〉を入れ替えるだけで、そのまま炊き込みご飯に転化する(火の通りやすい青菜や、水を吸ってとんでもないことになるワカメなどは炊いてから混ぜる方が良い)。
加えて、混ぜご飯/炊き込みご飯には、これまで(パスタを含む)サラダにはなかった特性を持っている。
合わせ鏡的なサラダの多様性の中に佇む魂に冷水をかけるつもりで言うならば、サラダにあった根本的欠点に対するひとつの解答を携えている。
サラダにあった根本的欠点とは何か?
それは作ったらすぐに食べなくてはならないこと、つまり作り置きができないことである。
サラダにおいては、調理と食事は、時間的にも空間的にも隣接している必要があった。
すべての時間を自分の裁量で処分できる牧歌的時代であれば、このことは大きな問題とはならなかっただろう。
しかし近代とは、望む望まないにかかわらず、自分の時間の大部分が、自分の裁量に服さない時代である。
我々は、生活のあらゆる場面で他のものに合わせて行動することを強いられる。
調理と食事の分離ができてはじめて、自炊は近代的段階に達する。
《あらかじめ作っておく》ことができるおかげで、自炊者は調理と食事のタイミングをそれぞれ自由に設定できるようになる。
これは、慢性的な時間不足の状態に置かれる近代人にとって、自炊のための必須条件のひとつである。
混ぜご飯/炊き込みご飯がサラダと異なる点は、つくってから時間が経ってもおいしいことである。ちらし寿司などは、ある程度時間が経った方が味が馴染んでよいくらいである。
冷凍庫と電子レンジが使える環境ならば、一人で食べきれないほど作ったら、おにぎりにして冷凍しておく。調理する時間や気力がないときの良い中継ぎになる。
これに加えて、炊き込みご飯ならば、炊飯器のタイマー機能を生かせば、米と具と調味料を釜に《仕掛けておく》だけで、好きな時刻に調理が自動的に行われ、作りたてが食べられる。
しかしながら混ぜご飯/炊き込みご飯自体は、白ご飯ほどにはもたないという限界を持っている。
本格的な〈作り置き〉を扱うには、稿を改める必要があろう。
ただしパスタや米はそもそも乾物=保存食であることは、心に刻んでおいて損はない。
チャーハンの陽のもとに
先に加熱を済ませておく〈混ぜご飯〉、混ぜた上で加熱するが加熱具合は丸投げできる〈炊き込みご飯〉と来たライス三部作も、とうとう最後の段階にたどり着いた。
我々自身の手で火加減を操り、加熱しながら混ぜる〈焼き飯〉に触れて、コンロとフライパンを使う次回以降の〈普通の料理〉への橋渡しとしよう。
恐れることはない。
可能な限りサラダのように作ることが成功の秘訣である。
つまり、先にできる加熱はすべて済ましておいて、混ぜるときの加熱は最小限にすること。
もっともシンプルな(具材の少ない)ネギ卵チャーハンで説明しよう。
1.フライパンに油を多めに入れて、刻んだネギを炒める。色が変わってしまうまで(こげた感じになるまで)炒めていい。それができたら、ネギと油を別の器に移して、フライパンを空ける。
2.また油を引き、卵を2~3個投じてかき回す。これは熱を加えすぎない。多少固まってきたら、フライパンを火からおろして余熱で仕上げるくらいでいい。半熟ぎみの方があとで混ぜやすい。これも別のさらに移して、フライパンを空ける。
3.冷やご飯をフライパンに投じて、切るように混ぜる。冷えて固まったものをほぐすのだが、これが面倒であれば、冷やご飯を電子レンジで温めてから、フライパンに投じるといくらか楽である。それが面倒なときは、冷ご飯の後にフライパンに少量の水を入れて、その熱湯化+水蒸気でもって冷やご飯をほぐす。力自慢は、何も考えず、ヘラで冷ご飯と格闘してもいい。
4.ほぐれかけたら、フライパンにしょう油を投じる。これも水分なので、冷ご飯がほぐれるのに役立つ。先に炒めた、ネギ+油、半炒り卵を投じて、火の上のフライパン上で全体をガシガシ混ぜていく。多少のコゲは、焼き飯の華だから気にせず混ぜ炒める。コゲをわざとできるように焼けたフライパン面にご飯を押し付けて焼きを入れる人もいる。
つまり、ネギ(油)と卵を食べられる状態に近づけるべく、先に熱を加えておくのがポイントである。
ここまででほぼ、各素材は食べられる状態になっているから、ぶっちゃけ混ざりさえすれば、最低限の要件は満たされる。
具材を増やしたい場合は、2.と3.の間に加熱しておき、最後に一緒に投下すればいい。
すなわち全体加熱の具合は「好みの問題」にほぼ限定される。
繰り返すが、まずい料理を食べて死んだ者はいない。
それでも、できるだけうまいものを食べたいのも人間の仕様だ。
上記のネギ卵チャーハンは、第1段階のネギを油で炒めるところでほぼ成否が決定する。
ここで腹がなるような香りがたちのぼるなら、あと必要なのは、かき混ぜるための少しの腕力だけだ。
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