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    司書:何かお探しですか?

    少女:あ、こんにちは、先生。

    司書:このあたりの棚でお会いするのは初めてですね。

    少女:ええ、ちょっと数学でひどい点数とっちゃって。

    司書:何か参考になりそうなものは見つかりましたか?

    少女:・・・ごめんなさい、本当は先生が声をかけてくれるのを待っていました。

    司書:失礼ですが、数学をあまりお好きでないようですね。

    少女:大嫌いです。何でやらなきゃいけないのか全然分かんないです。何やってるのか、段々分からなくなるのもあるけど。

    司書:なるほど。

    少女:……今までは、やり方を丸覚えしてやり過ごしてきたんですけど、なんか、それでいいのかな、って最近思えてきて。……ちょっとスランプなんです。

    司書:それはちょうどよい機会なのかもしれませんね。

    少女:あの、機会って何の?

    司書:ご迷惑でなければ、ひとつ提案があるのですが。

    少女:はい!ありがとうございます。

    司書:実はこの図書館の常連の方なのですが----どこかでお会いになったことがあるかもしれません----ちょうど今のあなたと同じぐらいの頃に、数学にひどく苦しめられたそうです。もっとも彼女の場合は、数学嫌いが高じて、最後には数学と連れ添うことになったのですが。

    少女:お気の毒です。

    司書:もし良ければお会いになりませんか? ええ、今日は朗読ボランティアで図書館にいらしているはずです。






    少女:あの、はじめまして。

    禁煙:まあ、あなたが? どうぞ、おかけになって。いつも事典の坊やといっしょにいるお嬢さんね。

    少女:事典の、って・・・ああ。

    禁煙:小さい頃から百科事典に首っ引きだったから、常連さんの間で誰彼なしにそう呼ぶようになったの。

    少女:そうなんですか。えーと・・・。

    禁煙:私のことは「禁煙さん」と呼んでください。

    少女:え、禁煙してるんですか?

    禁煙:ええ。

    少女:? えーと・・・。

    禁煙:数学がお嫌いなのね?

    少女:はい、ものすごく。あの、禁煙さんは……

    禁煙:今のあなたぐらいだったかしら、私も「なんでこんなもの勉強しなきゃならないんだ!?」って噛み付いたことがあったわ。その相手が悪かったのね、きっと。

    少女:それって、もしかして?

    禁煙:ふふ。どんな答えが返ってきたと思う?

    少女:・・・論理的思考力がどうのこうの・・・とか?

    禁煙:答えは3つあったの。もっと具体的なのと、もっと抽象的なのと、それにもうひとつ、少しおかしなのが。

    少女:具体的ってどういう?

    禁煙:数学を学ぶ理由は、微分方程式(という言葉)の読み書きができるようになるため。

    少女:へ?

    禁煙:科学のミニマムな作業言語だから、できないと入口(力学)でこける。強制振動のところで確実にこける。イメージだけで理解できるほどサイエンスはゆるくありません、っていうの。

    少女:具体的といえば具体的ですけど、もっとこう、数学っていろいろあるんじゃ?

    禁煙:少なくとも学校数学はそう組み立ててあるって。

    少女:微分方程式を知らないせいか、全然ピンと来ません。というか将来、理系に進まない人はどうすれば?

    禁煙:足し算引き算も、九九も分数も、文字式も方程式も、いろんな関数も、その微分積分も、すべては微分方程式をやるための準備。ベクトルと行列、これらを一般化した線形代数は、線形微分方程式を解くための強力なツールだし、フーリエ変換(級数)、ラプラス変換はもともと微分方程式を解くために開発された手法。フーリエ級数の(復元の)一意性の問題から集合論ははじまった。多くの人は準備の途中でやめてしまうから、結局何のために数学を学ぶのか永遠に分からない。

    少女:わあ言い切った。・・・あの、抽象的な方の答えは?

    禁煙:自然言語(ことば)では伝えきれないことを伝えるため。

    少女:美人に言われると、なんかドキドキします。

    禁煙:だから、日本語に訳さず理解できるなら、そうした方がいい。

    少女:え、数学の話ですよね? 「日本語に訳すな、英語のまま理解しろ」じゃなくて?

    禁煙:ええ。

    少女:英語だったらまだ、なんとなく分かるんですけど。

    禁煙:数学でも、元々は自然言語(ことば)をつかって数や図形をあつかっていたわね。後になって、もっと簡潔に表せる表現手段として、数を記号で表現するやり方や数式の書き方なんかが生まれたのだけれど。

    少女:はい、それは分かります。

    禁煙:自然言語(ことば)から離陸することで、数学はそれまでよりずっと複雑で込み入ったことを扱ったり考えたりできるようになったの。

    少女:うーん、数学の歴史というか、お話としてはきっとその通りなんだろうと思うんですけど。それを実感するには、さっき微分方程式が出たけど、もっと難しい数学が分からないとダメですか?

    禁煙:ニュートン算ってご存知?

    少女:受験のとき、やりました。仕事算の親戚みたいなの。

    禁煙:ニュートン算の元は、ニュートンが作った代数の教科書Arithmetica Universalis(1707)(→ラテン語英語)だと言われているわ。ニュートンは、自然言語(ことば)で考えると大変だけど、方程式という数学の表現を使って自然言語(ことば)から離陸すると、簡単に解ける例としてこの例題をつくったというのね。

    少女:今では、解き方を知らないと面倒すぎてお手上げのお受験算数です。

    禁煙:他には、そうね、マイナスとマイナスを掛けると何故プラスになるのかと考えたり、誰かに尋ねたりしたことはない?

    少女:うーん、そんなに悩んだわけじゃないけど。でも、自分ではうまく説明できないです。

    禁煙:数学が分からないと感じると、人は〈分かりやすい説明〉を求める。これは自然なことね。そして〈分かりやすい説明〉というのは、多くの場合、自然言語(ことば)への言い換え、そして日常体験から類推できる範囲への移しかえのことだったりするの。

    少女:あ、前に、・・・えーと、友達が、数学の入門書には〈分かる本〉と〈解ける本〉があって、みんなが読みたがるのは〈分かる本〉の方だと言ってたんです。今の話って・・・

    禁煙:ええ、似ていると思うわ。

    少女:友達は〈解ける本〉を優先しろ、って言ってたんですけど。

    禁煙:「日本語に訳すな、英語のまま理解しろ」でいうとね、学び始めの頃は、英語の単語を日本語の単語と結びつけて理解しようとする。例えば英語の「is」は日本語の「~である」だとかね。けれども英語と日本語は別のものだし、対応付けしようとしてもムリが出てくるでしょ。今の例でも「is」を本当に理解しようとすれば、英語の中で、「is」という単語がどんな働きをするか、他の単語とどんな関係を結ぶかを見ていかないといけないでしょう。同じように、最初は「3-2=1」を、最初は日本語の「3から2を引くと1である」と翻訳して理解するけれど、「-」マイナスを理解するには、数学の中でどんな働きをするかを見ていくの。

    少女:どうしてですか?

    禁煙:そうしないと「マイナスにマイナスをかけるとプラス」というのが何故なのか分からない、みたいなことになるのかしら。

    少女:じゃあ、ひょっとすると、むりやり自然言語(ことば)に訳して理解しようとするのが、かえって数学を難しくしてるってことですか?

    禁煙:「マイナスの数」というのがすでに、自然言語(ことば)から離陸した、数学の世界の表現だと思わない?

    少女:「マイナス」を負債や損失だと〈翻訳〉してたから、「負債に負債かけてなんでプラスになるの?」みたいなことになってたんですか?

    禁煙:数学の中でだけ考えれば「マイナスにマイナスをかけるとプラス」は、そんなに難しくも複雑でもなく導き出せる。むしろ導けてしまうからこそ、みんな困っちゃったのね。

    少女:ええ?そうなの?

    禁煙:たとえば、−1×−1=1だと

     

    どんな数でも、その数から同じ数を引くとゼロになるから

     (-1)-(-1)=0 …(1)  
     

    またマイナスの数を加えることは、対応するプラスの数を引くことに等しいので、(-1)から(-1)を引いたものは、(-1)+1に等しいから(1)は(2)のように書き換えられる。
     
     (-1)+1=0 …(2)


    (2)の両辺に同じ数をかけてもイコールのままだから

     {1+(-1)}×(-1)=0×(-1)…(3)
     
     
    (3)の左辺については分配法則を適用し、(3)の右辺については、どんな数でもゼロをかけるとゼロになることを使うと、(3)は(4)のように書き換えられる。
     
     {1×(-1)}+{(-1)×(-1)}=0…(4)
     
     
     どんな数と1をかけてもその数のままだから1×(-1)=-1より、(4)は(5)に書き換えられる。
     
     -1+{(-1)×(-1)}=0 …(5)
     
     両辺に同じ数1を加えても、イコールは変わらないから、(5)は(6)に書き換えられる。
     
     -1+1+{(-1)×(-1)}=0+1 …(6)
     
     (3)から-1+1=0。またどんな数と0を足してもその数のままだから0+1=1となり、(6)は(7)に書き換えられる。
     
     0+{(-1)×(-1)}=1 …(7)
     
     どんな数でも、その数にゼロを足しても、その数のままだから、(7)は(8)に書き換えられる。
     
     (-1)×(-1)=1  …(8)

     これが、我々が証明したかったものである。
     
     


    少女:すみません。ちんぷんかんぷんです。・・・きっと数学的には間違ってないというか、飛躍があるとかズルしてるって思ってる訳じゃないんですけど。いったい何をやってるかが追え切れないというか、着いていけないって感じです。

    禁煙:「ある数から同じ数を引くとゼロになる」みたいな、誰もが認めてくれそうな当たり前のところからスタートして、どれも既に知っている数学中のルールだけをつかって、(-1)×(-1)=1にたどり着いただけど。最初と最後はともかく、その途中で〈何をやってるか〉が分からなくなる感じがする?

    少女:はい。さっぱり。

    禁煙:ひょっとすると、証明の途中に登場する式が何なのか=何を表しているのか=自然言語や日常体験で対応するのは何なのかが〈分からない〉のかしら?

    少女:・・・って、あ、これも自然言語(ことば)に翻訳しようとしてるからですか?

    禁煙:半分はそう。もう半分は・・・「こんなの自分では思いつかない」という感じもある?

    少女:あ、それもあります。

    禁煙:どうすれば思いつくようになるのかは、次のステップでやりましょう。今は自然言語(ことば)に移そうと悪戦苦闘するかわりに、数学の中で数学のルールだけを(飛躍やズルなしに)使うことで、「マイナスにマイナスをかけるとプラス」という、自然言語(ことば)に翻訳しづらい事柄を示すことができたことを寿ぎましょう。

    少女:これがさっき言ってた、「自然言語(ことば)から離陸することで、数学はそれまでよりずっと複雑で込み入ったことを扱ったり考えたりできるようになった」例ですか?

    禁煙:まだとても単純だけれどね。さっき言ったように、〈マイナスの数〉というものが、自然言語(ことば)からちょっと〈離陸〉したところがあるわ。「マイナス2個のりんご」なんてなさそうだし。数学の歴史でも(少なくともヨーロッパでは)、中々認められなくて、マイナスの数は「ばかげたもの」「存在しないもの」という扱いを長い間受けてきたの。

    少女:そうなんですか。

    禁煙:けれども、既に長い間使ってきた数式の変換規則やその他の数学のルールをつかって、例えば一次方程式の解を求めようとすると、マイナスの数がどうしても登場する。それから、どうしても(-1)×(-1)は1になる。そうでないと、今度は長年使ってきた数式の変換規則の方を変えなくてはならなくなる。

    少女:つまり〈マイナスの数〉を認めるか、数学のルールを変えるか、どっちを選ぶかということになって、〈マイナスの数〉を認める方を選んだってことですか?

    禁煙:実際には、どちらかを選ぶことなく、さっきもいったように〈マイナスの数〉「ばかげたもの」「存在しないもの」として「なかったことにする」というのがよく取られた手だけれど。けれども今となって振り返れば、長年使ってきた数学のルールの方ははそのまま持ち越しつつ、新しい対象を追加する形で、数学は発展してきたように見えるわね。他にも二次方程式を解くことで出てきた虚数(二乗するとマイナスになる数)だとか、自然言語(ことば)にうまく翻訳できないから、長い間数学者にも「ばかげたもの」「存在しないもの」という扱いを受けたものは多いわ。

    少女:でも、その数学の〈発展〉っていうのは、今の話だと、数学が自然言語(ことば)から離陸して、ますます離れていくことなんですよね?

    禁煙:より遠くへ飛ぶためにより高く飛ぶ、と言い切ることができれば良いのだけれど。それでも数学は、自然言語(ことば)や日常体験という地面から離陸することで、地面を行ったのでは渡れなかった〈向こう側〉だとか、歩いては一生かけても行き着かなかった〈遠いところ〉に向かうための乗り物になれるかもしれない。

    少女:うーん、それでもやっぱり自然言語や日常体験という地面にしがみついちゃいそうです。

    禁煙:飛ぶ練習をするのに、何度でも地面に帰ってくるのは当然。数学でやってることを自然言語(ことば)に翻訳するのを全否定している訳じゃないの。自然言語から離陸することを恐れないのと、自然言語に着陸することを厭わないのは、同じコインの両面だから。それに、翻訳を読んで面白かったから原書を読んでみたいと思うことだってあるもの。

    少女:あ、面白い翻訳ってのを、まず読んでみたいです。

    禁煙:そうねえ。面白い話題を紹介する本はたくさんあって、数学を学ぶ動機づけにはなるけれど、数学ならではのトピックを扱ったものだと、途中に降り立つ地面がないところを飛んでいくものが多いの。

    少女:オーバーシー(over sea)?

    禁煙:だから前提と結論だけは自然言語(ことば)に翻訳してあるけれど、途中経過は省略してある読み物になっちゃう。じゃないものは、途中のところはしっかり数学語で書いてあったり。

    少女:うう。やっぱり自分で飛ばなきゃいけないんですね。

    禁煙:〈解ける本〉という話をしてくれたわね。数学を学ぶのにくりかえし問題を解くことはきっと、数学の〈用例〉に数多く接することで、そうして自然言語(ことば)で息継ぎするのを少なくしても、ずっと数学の中に潜って進めるようになる練習なのかもしれないわ。

    少女:うーん、先は長いって感じです。

    禁煙:英語でも「I love you.」というのを「私はあなたを愛する」といちいち訳して理解してないでしょ? 繰り返すうちに、やがて数学のルールの一部でも〈自然なもの〉と感じられるようになればなるだけ、自然言語(ことば)へ翻訳するという苦労の多い努力をなるべく介さずに、数学で書かれたものを理解できるようになるのじゃないかしら。

    少女:そうでしょうか? ・・・友達も「理解は後からついてくる」って言ってたけど。

    禁煙:それから自然言語(ことば)の方だって他の言語から〈外来語〉を取り入れていくように、数学から自然言語が学ぶこともあるかもしれない。温度の表し方だとか帳簿で負債を表すやり方を経由して慣れたから、今は日常会話でマイナスを使っても、それほど地面から離れた感じはしなくなっていない?

    少女:じゃあ、虚数とかも、そのうち……って無理かな、やっぱり。

    禁煙:ふふ、どうかしらね。

    少女:…‥あの、禁煙さんが「なんでこんなもの勉強しなきゃならないんだ!?」って噛み付いた時、3つの答えが返ってきたって。

    禁煙:そう、3つめの答えがまだだったわね。

    少女:はい。どんな答えだったんですか?

    禁煙:「今日話したことも、二次方程式の解き方も、忘れてしまってかまいません」

    少女:え、それはまずいでしょ?

    禁煙:「あなたが忘れても、私が覚えていますから」

    少女:……。

    禁煙:「あなたや私が忘れてしまっても、一生使わないと呪っても、私達が知識を失わないのは、誰かが覚えていてくれるからです。二次方程式の解き方を忘れても、このことは忘れないでください。これで今日の授業を終わります。」


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