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     史上最も大きな図書館はどの図書館だろうか?


     所蔵数なら現代の、数千万冊の書籍や各種資料など一億点を超えるアメリカ議会図書館を筆頭に、各国が誇るナショナル・ライブラリを越えるものはない。
     
     単に建物としても見ても、É. L. ブレーの王立図書館計画案 (1784) は巨大すぎるが故に空想のままで終わったが、19世紀にはこの空想を受け継いで、ロンドンに大英博物館の円形閲覧室 (S. スマーク設計,1856) やパリのビブリオテーク・ナシヨナル (H. ラブルースト設計,1868) のような巨大図書館が、次々実現している。
     
     しかし真の意味で〈巨大〉だといえる図書館は、現在のイラン・イラク地域を支配したイスラム王朝であるブワイフ朝(932年 - 1062年)で宰相(ワズィール)を務めた、アブドゥル・カセム・イスマイル・イブン・ハッサン・アバッド(c.938-995)(むしろサヒブ・イブン・アバッドとして知られる)の個人図書館だと思われる。
     
     ブワイフ朝は10世紀後半、アドゥッド・アル=ダウラが君主(大アミール)の時代に最盛期を迎えた。
     この図書館の主は、アドゥッドのあとを継いだムアイヤド・アル=ダウラに仕え、ムアイヤドの死後には、かつてアドゥッド・アッダウラと争って負け、ニーシャープールに逃れていたファフル・アル=ダウラを後継者として迎えて、その宰相として国政を担った。
     
     文化の保護者として、そして自身も文人として知られるこの宰相は稀代の愛書家であり、その蔵書は117,000を数えたと言われる(同時代のパリにあった書物はすべて合わせても5000ほどであったことと比較されたい)
    Fischer, S. R. (2003). A history of reading. London: Reaktion., p.156.
     
     しかし宰相の図書館には壁もなければ柱もなく、蒼穹がその天蓋であり、床はどこまでも続く砂の海、書架はアルファベット順を守って並んで歩くよう訓練された、400頭とも500頭とも伝えられるラクダ達だった。
     宰相が赴く先々にどこまでも付き随い、求める本が手に取れるよう書架自体が読み手に駆け寄った。
     

    camel.jpg



     移動図書館のはじまりとしてよく語られる(oft-told story)、このあまりに魅力的な伝説は、Maureen Sawaの"The Library Book: The Story of Libraries from Camels to Computers a book for young readers"(邦訳:『本と図書館の歴史』)という絵本や、アイザック・アシモフの"Book of Facts"(邦訳:『アシモフの雑学コレクション』翻訳・編集:星新一))、更にSteven Roger Fischerの" A History of Reading"やHawkins, Brian L and Battin, Patricia の"Camel Drivers and Gatecrashers"にも紹介されている。


     さて、
     ここで筆をおさめれば、『水滸伝』を70回本で読み、『銀河英雄伝説』をヤン・ウェンリーが死ぬ手前で読むのをやめる類の喜びが得られるだろう。
     伝説を追いすぎることは、逃げ水(road mirage)に近づくがごとき失望をもたらすことは、古人の教えるところである。
     けれども人は知りたがりの動物であり、図書館は知的好奇心に仕えるために存在する。
     甘美な夢が霧散し、ラクダの書架が走り去ろうとも、ページをめくる手はとめられない。
     
     この伝説に言及する上述の文献たちは、伝説であるが故に、その典拠を示していない。
     ただひとつSteven Roger Fischerの" A History of Reading"には、このエピソードを紹介するところに註がついていて、次なる文献をあげている(巻数、ページ数は記されていない)。
     
     Edward G. Browne, A Literary History of Persia, 4vols (London,1902–24).

     その著者、エドワード・グランビル・ブラウン(1862‐1926)は、ペルシア語写本の綿密な研究に基づく文献学的方法を駆使した学風で、イラン学の基礎を築いたイギリスのオリエント学者であり、上記の書『ペルシア文学史』は22年がかりで出版された、彼の記念碑的著作である。

    ※テヘランには彼の彼の名を冠した通りがあり、立像もある。


     このくらい古くて有名な書だと、パブリック・ドメインで手に入る可能性がある。
     " A History of Reading"の註では、この大著のどこにその記載があるか定かでないが、Internet Archiveで発見できた4つの巻すべてを探すことは、かつてほど手間のかかることではない。
     名前の表記やラテン文字化が上記の英語文献とは異なっていたが、全文検索のありがたさ、Sahib Ismail Abbad (A.D.936-995)の項目に、伝説の元になったと思われる記述を発見した。

     時代背景として、ブワイフ朝は、西方のハムダーン朝,東方のジヤール朝,サーマン朝と抗争を繰返していたが、とくにファフル・アル=ダウラと彼の宰相はとりわけサーマン朝のホラサン方面への侵攻を押し進めていたことがある(下図参照)。


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     ブラウンは、この宰相と同時代人であるサアーリビー(961―1038)の『ヤティーマッ・ダフル(時代にたぐいなきもの)』(詩人の逸話・伝記を含む名詩選)や、イブン・ハッリカーン(1211―82)の伝記事典である『ワファヤート・アル・アアヤン・ワ・アンバー・アブナー・アッザマーン(当代名士没年録)』を典拠に次のようにいう。
     
     His love of books was such that, being invited by the Sdminid King Nuh II b. Mansur to become his prime minister, he excused himself on this ground, amongst others, that four hundred camels would be required for the transport of his library alone.
    サーマン朝のナスル2世(914年 - 943年)から自分の宰相となるよう誘いがあった時、自分の図書館を運ぼうとすれば、それだけでラクダ400頭が必要だから、という理由で断った。彼の書物にかける愛情は、これほどまでのものだった。


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    →Hawkins, Brian L and Battin, Patricia の"Camel Drivers and Gatecrashers"を収録。
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