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     努力は嫌いだった。
     〈努力してもこの程度〉と思い知るのが怖かった。
     だから「努力で得られるものなんて高が知れてる」とうそぶいていた。
     
     勉強は苦手だった。
     やり方が分からなかった。
     それ以上に、勉強したらどうなるのかが想像できなかった。
     
     本を読んでも、集中が切れるまで20分かからなかった。
     だから一冊読み終えるのにほんとに5年くらいかかった。
     大抵の本は読み終わらないままだった。


     本を読むのが苦手だったから読書猿ははじまった。

     何故そうなのか、今でもうまく言葉にできないけれど、いくらかでも人に手渡すように言うことができるとすれば、次のようになる。


     弱点というのは多分、能力や才能、その他機会や資源の不足だけから、できているのではない。

     それだけのことなら、人は忘却の淵に沈め、沈めたことすら忘れて、生きることができる。
     イソップ寓話の狐のように、〈あのブドウは酸っぱい〉というレッテルを貼ることだってできる。
     手の届かないものは軽蔑し、できないことは〈取り組む価値がないもの〉と言い張ることで、やりすごすことだってできる。
     現に我々の誰もが、自分にできないことの多くを〈忘却〉して、あるいは〈軽蔑〉して、やりすごしている。

     
     けれども、そうした処理(キャンセル)を繰り返しても、逃げられないものがある。
     逃れようとすればするほどいよいよ強く引き寄せられる。
     目を逸らすことができない欠落や不足、振りほどいても離れない劣等感や、繰り返し打ち寄せてくる無力感が、ずっと消えない。

     弱点は、そういう処理(キャンセル)ができないからこそ、弱点であり続け、我々を苦しめるのだ。

     
     「ねえ君、良く考えてみたまえ。万事につけて我々の本当の意見というものは、我々が決して動揺しなかった意見ではなく、しょっちゅう立ち返っていった意見なのだ」(ディドロ)
     

     諦め切れないからこそ、目を逸らすことができないからこそ、それは弱点であり続ける。

     打ちのめされた人は、希望を手放したのではない。
     希望し続けているからこそ、先に進みたいと願うからこそ、此彼の隔たりを痛感し、自身の不足に打ちのめされる。絶望もする。

     今いるのとは違う場所を目指し、今以上を求める限り、〈できない〉ことはなくならない。
     

     続ける人と、途中でやめた人の差はわずかしかない。
     例えば、途中でやめた人は8回やり直したが9回挫折した。
     続ける人も9回挫折したが、しかし9回やり直した。
     続ける人は途中でやめた人よりも、ただ一度だけ多くやり直したに過ぎない。


     そして継続することが何かを成すことの要件なのだとしたら、繰り返し絶望したものは、その都度立ち返らせるものは、その資源となる。


     自分の場合はきっと、それは〈本を読むことができない〉という弱点だった。


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