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    生まれてはじめて書く人のための、小学生向け小説執筆マニュアル(手順書) 読書猿Classic: between / beyond readers 生まれてはじめて書く人のための、小学生向け小説執筆マニュアル(手順書) 読書猿Classic: between / beyond readers このエントリーをはてなブックマークに追加
    について、物語の作り方はわかった気がするけど、それをいざ小説にしようとすると言葉が出てこない、なんとかしろ、という意見がありました。
     
     実は、小説の文章についても少し書いていたのですが、あまりにも小学生向けでなかったので省きました。参考になる人がいるかもしれないので出してみます。



    1 小説の文章は何からできているか?

     小説は、文章を通して物語を伝えるものです。
     
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     小説の文章は、大きく3つに分けられます。
     《場面》、《説明》、《描写》です。
     

    (1)説明とは

     《説明》は、物語を大づかみに述べる文章です。細かいところを省略して伝えるので《要約》と呼ばれることもあります。

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     大づかみなので、少しの文章で、長い時間の物語を伝えることができます。
     わずか数行で何年、ときにも何百年もの時間を進めたりできます。
     物語をどんどん進めたいときに《説明》は便利です。
     《説明》は、物語を伝える、最も古いやり方です。神話から噂話まで《説明》は、物語を伝える中心でした。
     誰かに、読んだ小説や見た映画がどういうのだったか尋ねれば、大抵の場合、物語を大づかみに述べてくれるでしょう(セリフを口真似して演じたりせず)。おかげで、たとえば2時間の映画でも、その気になれば数分で語り終えることができます。
     これが《説明》です。


    (2)描写とは
     
     《描写》は逆に、物語の特定の部分を詳しく伝える文章です。
     詳しく伝えるために、たくさんの文章を使いますが、その間物語はまったく(ほとんど)進みません。

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     《描写》している間、物語はスローモーションかストップモーションになります。
     

    (3)場面とは

     《場面》は、物語が今まさに起こっているように伝える文章です。大抵は、登場人物の会話を主にして、それに人物のアクションを伝えるシンプルな言葉が加わって構成されます。
     会話が主になるので、文章の進行と物語の進行はシンクロします。

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     物語を大またにドンドン進める《説明》と、物語をほとんど進めない《描写》の、ちょうど中間の役目を《場面》はします。
     
     
    (4)場面、説明、描写のメリット/デメリット
     
     《説明》があまり続くと、物語はさっさと進んで便利ですが、単調で退屈なものになりがちです。

     《描写》があまり続くと、物語はちっとも進みませんし、読み手に緊張を強いることにもなります。しかし複雑だったり分かりにくいことを伝えるのに必要な場合があるかもしれません。
     また他のメディア(映画や演劇やマンガ……)にできない小説だけの表現は、《描写》でこそ生まれるといってもいいでしょう。
     
     《場面》は、現代の小説のメインです。
     現代の読み手は、物語を《説明》されるよりも、臨場感ある形で体験したい、観客のように観たい、と思っています。
     そんな訳で、現代の多くの小説(エンターテイメント系ならほぼ全部)は《場面》を中心にして書かれています。
     《場面》で書かれたものは、物語の時間の流れ方が似ているので、映画や演劇やマンガにしやすいということもあります。

     《場面》《説明》《描写》を使い分けることで、物語が進む速度を速くしたり遅くしたりすることができます。
     表面の言葉のレベルだけでない、物語のレベルも含めた小説の緩急・リズムは、この使い分けから生まれます。
     
     しかしこの記事は初めて小説を書く人のためのものですから、いっぺんにすべてをやれ、というのは不親切です。
     ひとつずつ、まずは《場面》を書くことから始めましょう。



    2 《場面》を書こう


    「飲みものは何がある?」とアルがたずねた。
    「シルヴァー・ビアー、ビーブォー、ジンジャー・エール〔どれも清涼飲料〕」とジョージが言った。
    「〈飲む〉ものはあるかってきいてるんだぜ」
    「いま言ったものだけです」
    「てえした町だな」ともう一人の男が言った。「なんてえ町だ?」
    「サミットです」
    「きいたことあるか?」とアルは相棒にたずねた。
    「ねえな」と相棒が言った。
    「ここじゃ、夜は何をするんだ?」とアルがたずねた。
    「夕食《ディナー》を食うのさ」と相棒が言った。「みんなここへ来て、豪勢な夕食を食うのさ」
    「そのとおりです」とジョージが言った。
    「そのとおりだと思ってるんだな?」とアルがジョージにきいた。
    「さようで」とジョージが言った。
    「なかなか賢いな、おめえは」
    「さようで」とジョージが言った。
    「ところが、そうじゃねえ」ともう一人の小柄の男が言った。「なあ、アル?」
    「間抜けだよ、こいつ」とアルが言った。彼はニックのほうを向いた。「おめえはなんてえ名だ?」
    「アダムズです」
    「賢いな、おめえも」とアルが言った。「こいつは賢いだろう、マックス?」
    「この町にゃ、賢いのがうようよしてるよ」とマックスが言った。

    (ヘミングウェイ著、高村勝治訳「殺し屋」)




     《場面》は、現代の小説ではメインとなる文章であり、他にもノンフィクション、ドキュメンタリーで主として使われます。また他の物語を伝える手段、演劇や映画やマンガとも陸続きの表現法です。
     初めて小説を書く場合、小説以外を含む広い物語体験からそうなるのか、まずシーンを思い浮かべてそれを文字に写しかえるやり方からはじめる人が、つまり自然と《場面》を書こうとする人が、多いようです。
     
     《場面》の文章は、小説の文章の中でも、身近でとっつきやすいものです。
     しかし、そのためにかえって難しい部分もあります。
     普段よく触れているものだけに、読み手にもアラが見えやすいのです。
     ぶっちゃけ《描写》が下手(いやほとんどできないと言ってよい)小説書きは大勢います。プロにもいます。何故これでやっていけるかといえば、そこそこ読める人でないと《描写》なんて、ちゃんと読んでいないからです。しかし《場面》のところは大抵みんなが読みます。
      
     《場面》の中でも、その軸となる会話の部分が一番の難物です。
     まず、物語に触れる場合、会話は読み手が一番意識している言葉です。マンガや映画でも、あまり注意深くない普通の読者や観客は、絵・映像ではなくセリフを追いかけストーリーを理解しています。あとで思い出すのもセリフ中心です。地の文の下手さはわりと見過ごすのに(世の中には相当下手な小説がありますが、それさえも物語にある程度惹きつけられれば次第に気にならなくなるものです)、会話慣れしているせいで、読み手は会話の上手い下手には敏感です。
     一方、不慣れな書き手には、私たちが普段話している言葉に近いと感じるせいか、会話は小説の文章のなかでも、身近でとっつきやすく、地の文よりはまだ書ける、と考える人が少なくありません。
     
     しかし実際は、普段話している言葉をそのまま小説に放り込んでも機能しません。
     普段の会話を文字に起こしてみると、方向性がなく反復や省略も多く、いろんな前提を共有しない第三者には、退屈である前に理解できないことも多いでしょう。
     対して、小説の中の会話は、つぎのような役目を要求されます。
    (1)登場人物同士のやりとりを通じて、彼らの間の関係を示す(語り手が説明するのでなく)
    (2)登場人物同士のやりとりを通じて、物語を進ませる(語り手が進めてしまうのでなく)
    (3)登場人物同士のやりとりを通じて、物語に緊張感を生み出し、高める
     一言で言えば、小説の会話は自然なものではありません。小説が機能するために、そのスタイルも構成も、作者が戦略的に仕込む必要があります。
     
     会話が他の部分より書きやすく感じるとしたら、それは実際の話し言葉に近いからではなく、むしろ小説だけでないさまざま物語に触れる機会に最も意識してきた部分だから、それなりのストックが書き手の中にも蓄積されているからです。
     この事実は教訓になるでしょう。つまり、小説の会話以外の部分を、もっと書けるようになりたいのならば、そうした部分に自覚的に意識を注いでストックとしていけばよいわけです。
     
     しかしもちろん書くことも重要です。
     最初のうちは、あまりハードルを上げずに、むしろとっつきやすさを(たとえ勘違いであっても)存分に利用して、とにかく書きやすい会話から、いろいろ書いてみることをおすすめします。
     たとえば書こうとしているプロットの中から一箇所を選び、状況設定と登場させる人物を確認して、まずは登場人物たちに自由に動くのに任せて、書きなぐりましょう。
     脱線もノープロブレム。
     むしろたくさん喋らせ、多くやりとりさせるのが、登場人物に生命を与え、彼らの根っこを把握し、本当に必要なことを自然な形で話してもらえるようになる近道です。
     会話なんですから、最適な副詞が見つからないと何日も悩んだりせず、とにかく書いて書いて、一度頭を冷やしてから読み返しましょう。
     
     真夜中に書いたラブレターを明るいところで読み返しているような心持ちになるでしょう。
     
     しかしこれは物書きがどんなにうまく書けるようになっても、常に感じる感情です。摩擦があればこそ、地面をけって前に進めるのです。
     むしろ悪感情の常として、回避すると余計に悪化します。
     
     
     登場人物の会話に、いくらかスタイルを与え深みを持つようにするには、基本ですが、登場人物が考えているままには/感じているとおりには話させないことです。
     登場人物が何をどのように話すかだけでなく、何をどのように話さないかを書けるようになると、随分変わってきます。
     最初はツンデレ・コラムといわれる、下にあるような二列できた表を使うのもよいかもしれません。
     
    場面人物本音実際の発言
        
        

           
    使い方は、その場面での人物の実際の考え/感じ方を一旦書き捨てておいて、それとは違った発言を考えます。
     
     もう一つ、会話を書くときのコツとして、必要最低限だけ残して後は削る、というのがあります。
     実際の会話を録音して聞いてみると(文字に書き起こすともっとはっきりするでしょう)、「あー」とか「えーと」とか、言葉として直接意味を伝えないものがとても多いことに気付きます。実際の会話では、それらは会話の順番や話の切れ目を、会話に参加する同士、お互いに知らせ合うシグナルになっている(のでムダではない)のですが、第3者に聞かせる/読ませるとなると、無い方がずっと分かりやすいです。
     もちろん削り過ぎるとニュアンスや会話が示すお互いの関係が分かりにくくなりますが、削ったり戻したりしているうちに、ぎりぎりのところがわかってきます。会話の「贅肉」を落として、読んでいて気持ちのいい、テンポの良い会話を目指しましょう。


     会話の部分が書けたら、必要最低限の動作や状況などを書き加えて、《場面》を完成させましょう。
     最初は、極端に言って、誰が何を言っているか分かる程度で十分です。
     むしろ、誰が何をやっているか詳しく掘り下げ語り出すと《描写》になります。つまり物語が進むスピードがぐっと落ちてしまいます。それでもいいのか、そうしてまでスピードを殺す必要性があるおか、そしてその覚悟とそれを生かす戦略があるのか、を考えましょう。
     
     最初は、説明不足を恐れるより、無自覚に物語の流れを悪くすることの方を心配する方を優先すべきです。
     物語のスピードの変化を感知し、自分でコントロールできるようになれば、短い《描写》で読者の意識を一瞬止めて、それをほとんど感知させないまま深い印象を与えつつ、物語のスピードを元通りに戻したり……なんてこともできるようになります。
     
     これも基本ですが、《場面》では、分析や解説といった語り手の存在が前に出てくるものは避け、今まさに生じつつある出来事を示すことに専念した方がよいでしょう。
     物語を理解するための情報は、一度に読者に与える必要はありません。むしろ一度に多くを与えると個々の印象は弱まります。
     やり取りや行為の背景や意味を与えるのは、《場面》の前後に置いた《説明》で行った方がよい場合があります。
     つまり《説明》や《描写》が自覚的にできるようになれば、そちらでやるべき仕事を任せることができます。《場面》が苦手なことは他に任せるようになれば、《場面》はより研ぎ澄まされたものになるでしょう。
     
     《場面》は不可欠かつ効果的なアプローチですが、万能ではありません。

     《場面》とは別の文章に挑戦するべきときが来たようです。
     
     
     

    3 《説明》を磨こう


    むかし、まだなんでも願いごとがかなえられたころ、ひとりの王さまが住んでいました。王さまには三人のお姫さまがいて、どのお姫さまもみなきれいでしたが、いちばん末《すえ》のお姫さまはとくべつきれいでした。ずいぶんといろいろなものを見てきたお陽《ひ》さまでさえ、そのお姫さまの顔を照らしてみるたびに、とてもきれいなのでびっくりするのでした。

    (グリム兄弟編/塚越敏訳「蛙の王さま」『グリム童話』)



     オブロンスキイ家では、何もかもが乱脈をきわめていた。妻は、夫が以前彼らの家にいたフランス女の家庭教師と関係のあったのを知り、夫に向かって、このうえ同棲をつづけることはできないと言いだした。こうした状態がもう三日ごしつづいたので、当の夫妻はもとより、家族召使いのすえにいたるまでひどく不愉快な思いをしていた。

    (トルストイ著 中村白葉訳「アンナ・カレーニナ」)




     《場面》だけで一篇の小説を書き上げることは可能ですが、それには高い技術が必要です。
     物語が長期に渡るものだったり、複数の出来事が複雑に絡み合う物語の場合には、それぞれを《場面》で示せたとしても、それらを結びつけるための言葉が必要です。
     最も古くから、そして最も広く物語を述べるのに用いられてきた《説明》は、《場面》の弱点を補うことも得意です。
     
     実はプロットも《説明》の文章で書かれていました。
     私たちが観たり読んだりした物語を誰かに伝えるときも、普通は《説明》の言葉で伝えます。
     しかしプロットは誰かに読ませるために書いたものではありません。人がつくった物語を伝える言葉のも、書評でもないかぎりインフォーマルでざっくばらんな《説明》でしょう。
     そんなものを小説の中にそのまま使うのは、ト書きを役者にそのまま読ませるようなもの、舞台裏の張りぼてを観客に無理やり見せるようなものです。
     少しよそゆきの、読ませるための《説明》を書くことを考えましょう。
     
     
     《説明》は、物語を大づかみに、細かいところを省略して伝える文章です。
     触れたくないところに触れずに、省略したいところは省いて、どんどん物語を進めることができます。
     
     概略を伝えることだけに徹すると、この節の冒頭にあげた「蛙の王さま」の引用は、

    ・昔々ある王さまがいた
    ・王さまには3人の美しい姫
    ・末姫が最も美しかった

    といった箇条書きになります。
     読み手を誘うべき物語で、これはあんまりです。
     しかしこの物語の語り手は、姫の美しさを描写して情報を追加するかわりに、ちょっとしたレトリックで膨らみと彩りを加えます。

    ・「むかし」→いつ頃なんだ、それは?→(それには答えず)「まだなんでも願いごとがかなえられたころ

    ・「末《すえ》のお姫さまはとくべつきれい」→どういう風にきれいなんだ?→(それには答えず)「ずいぶんといろいろなものを見てきたお陽さまでさえ、そのお姫さまの顔を照らしてみるたびに、とてもきれいなのでびっくりするのでした。

     これらの文の綾は、物語の舞台となった時代や姫の容姿について、何の情報も付け加えません。語り手の「とにかくきれいだと思ってくれないと先が続かないよ」という願いは伝わりますが、お姫さまの顔はといえば、さっぱり想像がつきません。
     この物語には必要がなく、またその方がよいからです。
     
     《説明》は行動の模写というより注釈です。それは語り手によって作られたものであり、事件そのものではありません。
     《説明》は、臨場感とは反対の効果を持つ表現、いわば言葉によるロングショットです。
     出来事がいま生起しているすぐ傍らにいるかのように示す《場面》と異なり、《説明》は対象との間に距離を置いて表現します。
     距離をおくために、複数の事柄を同時に捉えて、その間の関係を述べることもできます。この役目は、それぞれの事柄に接するように示す《場面》と補完し合います。

     また距離をおくために、対象の詳細や(時には)個性に注意が注がれず、たとえばグリム童話の王さまの名前や容姿や支配する国名は語られず、「とある王さま」として扱われることになります。対象を抽象的に扱いたい場合、その一般的な意味づけや価値判断を行いたい場合になど使えます。

     詳しく語れば情報過多になるような多くの出来事を、あっさり済ませて先に進むのにも《説明》は向いています。
     先に引用した「アンナ・カレーニナ」の冒頭部分で、「こうした状態がもう三日ごしつづいた」ということで、語り手はこの間の興味の惹かれないあれこれについて詳しく述べることなく物語を進めます。
     また距離をおいたため、登場人物の声は《場面》のように直接には聞こえなくなります。たとえば「アンナ・カレーニナ」の冒頭部分で、妻の発言は直接の言葉でなく、語り手を通じて伝えられ、物語に入り混じっています。
     
     ロングショットの長回しが単調な映像を送り続けるように、《説明》ばかりを続けることは単調な印象を読み手に与える危険があります。
     もちろん小説は常に込み合って賑やかな印象ばかりでできている訳ではありません。《説明》によって、あえて詳しく語らないことで、読み手に想像力を発揮する余地を与えることができます。
     また後続の緊迫するシーンが連続する前に、あえて距離を置いた冷静な《説明》を挟むことは効果的かもしれません。
     裏を返せば《説明》は葛藤を語るには向かず、むしろ葛藤が解消されるような視点から語るのに向いています。
     
     確かに説明には弱点がありますが、説明抜きには(とくに大規模な)物語は成り立ちません。複数の互いに隔たった場面を結びつけ、あるいは引き合わせるのは、《説明》の、離れたところから対象を扱うアプローチが有効です。《説明》は、物語に大きな継続性と統一性を与える役割があります。《説明》よって、語り手はまた、ある場面から別の場面へ自由に移動する能力を得ます。


     基本的に《説明》だけで組み立てられている昔話などのジャンルでは、退屈すぎないために(今では大げさに思える)修飾が加えられていました。
     またヴィクトリア朝時代の作家たちは、今ではずうずうしくとられるだろう大胆さで、物語の途中で何度も登場し、外から物語について語り、読者にいろいろ要求さえして、物語を再開させました。
     ロシア文学の大規模な物語を扱う小説でも、複雑な出来事を結び合わせたり、それらを理解するための背景を説明するのに、《説明》がかなり前面に出てきます。

     しかし今日では、あまり《説明》に派手な振る舞いをさせることは好まれません。《場面》の比重が大きくなり、《説明》はなるべく目立たぬように使われるようになりました。
     したがって《説明》以外の表現が使える小説では、《説明》の単調さを補完するために、無理に《説明》を飾り付ける必要はないでしょう。むしろ《場面》や《描写》とともに、それぞれの長所を出しあい、役割を分担しあう方がよいでしょう。
     
     あまり出来事の生じない《場面》は、一本調子で物語を進めすぎる《説明》と同様に、退屈です。
     《場面》を使い過ぎる前に《説明》を、《説明》を使いすぎる前に《場面》を、使うことを心がけるだけでも、小説全体にリズムが出てきます。
     最初のうちは、プロットから《場面》で扱う部分と《説明》で扱う部分を先に決めておくのもよいかもしれません。
     
     
     


    4 《描写》を克服しよう


     史伝は説明なり。小説は描写なり。

    (永井荷風「小説作法」)



     《説明》が物語を足早に進ませるものだったのと反対に、《描写》は物語の中にスローモーションや時にはストップモーションを持ち込みます。
     《描写》が言葉を尽くして詳しい様子を伝えようとする間、物語(で語られているもの)は動きをゆるめ、その地点で足踏みして、時にはピンで止められた昆虫標本のように、動きを止めます。
     小説の文体は、《場面》の臨場感と《説明》の俯瞰、《説明》のロングショット/コマ落としと《描写》のクローズアップ/ストップモーションなど、を使いこなすことでリズムをもち、一本調子で退屈な語りから離脱します。
     
     
     さらに《描写》は、(まともな)小説にはなくてはならない役目を果たします
     


    女は白足袋のまま砂だらけの椽側へ上がった。歩くと細い足のあとができる。袂から白い前だれを出して帯の上から締めた。その前だれの縁がレースのようにかがってある。掃除をするにはもったいないほどきれいな色である。女は箒を取った。
    「いったんはき出しましょう」と言いながら、袖そでの裏から右の手を出して、ぶらつく袂を肩の上へかついだ。きれいな手が二の腕まで出た。かついだ袂の端はじからは美しい襦袢の袖が見える。茫然として立っていた三四郎は、突然バケツを鳴らして勝手口へ回った。

    (夏目漱石「三四郎」)


     
     「茫然として立っていた三四郎は」とあるので、ここまでがスローモーションだよ、と分かりやすい箇所です。
     三四郎はただ「茫然として立っていた」訳ではなくて、ここに《描写》されている女の人を「呆然と見ていた」のです。正確にいうと、ここに《描写》されているように、この女性を見ていたのです。つまり《描写》されているのは、女性の姿や動きではなく、三四郎の女性に向けるまなざしの方です。このすけべ。
     
     現代では、映画だとかマンガだとか、映像で物語を楽しむことが多いので、《描写》というと無自覚に〈映像の代わり〉扱いされることが少なくありません。
     作者の頭のなかにあるイメージをどう言葉に写しかえたらいいか、みたいなことを悩む人までいます。ああ、もっと表現力を、そしてボキャブラリーを、というのですが、映像と言葉は、それぞれが得意なことをさせた方がよいのです。
     例えば「見ること」そのものを見ることはできませんので、「まなざし」のようなものは直接に映像化できません(だからこそ、どんな絡め手でそれを見せるかが映像作家の腕の見せ所なのですが)。言葉の力で成り立つ漱石作品を原作とする映画が、ほとんど失敗に終わっているのがその例証です。

     逆に、映像を言葉に写しかえるだけだと、引用したような表現になりません。
     掃除しなきゃならないほど、歩くと足のあとが残るほど汚れた縁側に、よく分からない模様の着物を着てぼけっと座っている、このふしぎちゃんの女性が、これまた汚れることに無頓着に白足袋のまま掃除をはじめても「(レースのようにかがられた前だれの縁が(細かい!))掃除をするにはもったいないほどきれいな色である」なんて、言ってやる必要もない、というか、本当にどうでもいいのですが、こうした細部の積み重ねが、ヒロインが一向に魅力的に見えないのに(普通はヒロインを読者にとって魅力的にすることで主人公が夢中になるのも無理ないという方向に持っていくのに)、三四郎が自分でも何だかよく分からんままに惹かれていってしまうことには納得させられてしまうのです。
     そして、ここのところが納得させられないと、『三四郎』という小説は小説として成り立ちません。
     グリム童話が「ずいぶんといろいろなものを見てきたお陽さまでさえ、そのお姫さまの顔を照らしてみるたびに、とてもきれいなのでびっくりするのでした。」といって済ませることができたこととの違いです。
     
     まとめましょう。
     《描写》は、作者のイメージを読者のアタマに写しかえるために書かれるのでありません。
     説明(要約)が物語を進めるために書かれるのに対して、《描写》は物語に説得力を持たせるために、いえもっと強く、物語を成り立たたせるために、書かれます。
     むしろこれを小説の定義としてもいいくらいです。
     
     なぜ小説に《描写》が不可欠なのかといえば、小説とは、《描写》をフィクションの根拠とする文学であるからです。

     物語全体がその上に成立するような最大の謎(なぜwhy)に対して、別の理屈やデータを外部から持ってくるのでなく、作品内の《描写》(どのようであるかhow)で応じるもの、と言い換えることもできます。
     
     小説はもちろんウソ話(フィクション)です。
     しかしウソなら何でもよいのかといえば、そうではありません。
     小説書きがミューズに問われているのは、次のような問いです。

     「汝、この偽りごとを何を持って贖(あがな)うや?」

     小説書きは答えます。

     「描写によって! 見ることができぬものさえ描く描写によって!」


     そんなすごいこと初心者には無理?
     大丈夫、描写が下手な物書きはいっぱいいます。ほとんど説明と会話だけで済ませる人もいます(世の中には「街行く人の10人に1人は振り返って確認してしまうほど美しい女性」というのを描写だと思っている人もいるのです。これは説明です。しかも下手です)。プロでもいます。
     ミューズは、債務超過になっても、ペンやワープロを差し押さえるほど度量が狭くありません。




    5 小説の文章を身につけるには?

     会話について触れたところで、「会話が他の部分より書きやすく感じるとしたら……小説だけでないさまざま物語に触れる際に最も意識してきた部分だから、それなりのストックが書き手の中にも蓄積されているから」と書きました。
     同じことが《場面》《説明》《描写》のすべてについて言えます。
     《場面》《説明》《描写》を、書けるようになりたいのならば、そうした部分に自覚的に意識を注いでストックとしていくべきです。
     
     つまり少々大げさすぎるくらいに、自分が書くときはもちろん、他人が書いたものを読むときも《場面》《説明》《描写》を意識してみましょう。
     といっても、普段の読書生活に支障をきたすかもしれませんから、特別にそうした機会を持つとよいと思います。
     よくできた短篇を選んで、最初から、ここは《場面》か?《説明》か?それとも《描写》か?印をつけたりマーカーを使ったりしながら、ひとつの作品を〈腑分け〉してみましょう。
     やっていくと、この3つの区別だけでなく、普段意識していなかったスムーズで自在な切り替や、それ以外にも小説が使っている様々な細かな工夫や技にも気づくようになっていきます。
     細部を読み取ることができるようになるのが、細部まで書き手の意思の行き渡った文章を書く唯一の道です。
     
     才能は、技術に御せられた狂気です。
     狂気を学ぶことはできませんが、技術は学ぶことができ、また自分で高めることができます。
     
     
     
    (参考文献)
    言葉と小説―ヌーヴォー・ロマンの諸問題 (1969年) (現代文芸評論叢書)言葉と小説―ヌーヴォー・ロマンの諸問題 (1969年) (現代文芸評論叢書)
    J.リカルドゥー,野村 英夫

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    小説の技法―視点・物語・文体小説の技法―視点・物語・文体
    レオン・サーメリアン,西前 孝

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    サーメリアンは、《場面》《説明》《描写》を学ぶ/実例として研究に値する作品として、それぞれつぎの作品をあげています。

    ・《場面》の実例として研究に値する作品

    ヘミングウェイ短篇集 (ちくま文庫)ヘミングウェイ短篇集 (ちくま文庫)
    ヘミングウェイ,西崎 憲

    筑摩書房
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    「ヘミングウェイは研究に値する「場面の作家」である。行動の再創造を支えているのはその文体である。主題の選択という点ではむしろ狭い作家であるが、技法の面ではヘミングウェイは常に興味ある作家である。彼は、集中的で切り詰めた文章を必要とする短編小説において抜きん出ている。」(p.24-25)




    ・《説明》の実例として研究に値する作品

    ポールの場合ポールの場合
    柿沼 瑛子,鳴原 あきら(Narihara Akira),鈴木 薫,鳴原 あきら,純原 悠漓

    密林社
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    「ウィラ・キャザーの「ポールの場合」は、殆ど全てが《要約》あり、がっちりとした段落が連続していて、直接的な対話で途切れることはない。我々はポールが何気なく数語話すのをただ一度聞くだけで、二度と彼の言葉を聞くことはない。また、物語の中で他の登場人物が話すのを聞くこともない。それでいて感動的な物語であり、劇的な主題が非劇的な形式で扱われた一つの典型になっている。」(p.31)



    ・《描写》の実例として研究に値する作品

    ボヴァリー夫人 (河出文庫)ボヴァリー夫人 (河出文庫)
    ギュスターヴ・フローベール,山田 ジャク

    河出書房新社
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    「『ボヴァリー夫人』は注意深く無駄を省いて書かれているけれども、厳密な意味で言う劇的な物語が構築されるよりももっと雄大な叙事詩的規模で構築されており、その基本的な方法は場面と描写の組み合わせである。フローベルの場合、要約は殆ど同時に描写的である。この長編小説の魅力と迫力は言葉による絵画的描写にあり、我々の記憶に残るのは、登場人物が演じる場面よりもむしろその素晴らしい描写の方である」(p.58)
    「『ボヴァリー夫人』における行動は、描写の段落によってたえず中断される。そして特に第一部について言えることであるが、対話によって展開される場面が相対的に少ない。しかしそれにも拘らず、この書物を読むとき、我々は「直接性」を感じる。描写的要約の方が場面よりもずっと生き生きしているのである。鮮やかに具象化され、綿密に観察された細部が全ての事柄に現実味を与えている。」(p.58-59)



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    (おまけ)


     2000年前のローマのお友達オウィディウス君から、こんなプロットが届きました。
     
    1 はじまり(BEGINNING)
    ・主人公は女性不信の男で彫刻家

    2 後戻りできない出来事(EXCITING EVENT)
    ・男は理想の女性の像をつくる

    3 上昇する展開(RISING ACTION)
    ・男は自分がつくった像に恋をする
    ・男はとことん像に愛情をそそぐ
    ・とうとう「この像は俺の嫁」と神頼み

    4 クライマックス(CLIMAX)
    ・像に命が宿り、人間になる
    (ここで物語の向きが反転)

    5 下降する展開(FALLING ACTION)
    ・像と結婚

    6 おしまい(ENDING)
    ・めでたしめでたし


     どこかで聞いたようなプロットですが、そこは目をつぶっておきましょう。
     このプロットの前にどんなことを考えてたかのメモをついていました。

    もし~だったら常識ひねり
    もし人工物に恋したらいくら愛しても応えてはくれない。バッドエンド人工物が人間になり、しかも相思相愛。


    宝物理想の女性
    動機女性不信
    障害所詮は物。いくら愛しても応えてはくれない
     

     このプロットを、いくらか物語りっぽく、しかし《説明》だけで書き直すとこんな感じになります。
     

     ピグマリオンは彫刻家で女性不信でした。
     そこでピグマリオンは理想の女性を彫刻しました。
     するとピグマリオンはその像を恋してしまいました。
     来る日も来る日もピグマリオンは像に愛情をそそぎました。
     ある日、ピグマリオンは美の女神ヴィヌスに「この像を妻にしたい」と願いました。
     女神はピグマリオンの願いを聞き届けました。
     生命が宿り、像は生身の女性になりました。
     ピグマリオンは彼女と結婚し、末永く幸せに暮らしました。
     めでたしめでたし。


     ちょっと待って。
     ツッコミどころはたくさんありますが、まず短すぎ。5万ワードははるかに届きません。
     しかし、それより致命的なのは、多くの謎が回収されないまま放置されていることです。
     思ったことを口にせずにはいられない子どもなら、黙っていられず、いろんな疑問をぶつけてくるでしょう。


    ・女性不信ってなんで?どうして女性不信なの?
    ・理想の女性ってどんなの?
    ・どんな像?
    ・なんで像なんかに恋するの?三次元ヲタ?
    ・愛情をそそぐって何するの?
    ・なんでこんな奴の願い、叶えちゃうの?
    ・なんで像が人間になるの?
    ・「末永く」って、ピグマリオンが歳とっても、像の人そのままじゃ辛くない?

     これが対面で物語ったのなら「そういうものなの!」と疑問を発するその子を怖くにらみつけて終わりになるかもしれませんが、文字だけの勝負となる小説の場合は、そうもいきません。あらかじめ何か手を打っておきたいところです。
     
     物語の中で生まれる謎は、すべてが回収され解決される訳ではありませんが(解決しない方がよい場合もあります)、それでもこれだけは放置したままでは済まされない謎というものが存在します。
     上の女性不信の彫刻家の話で言えば、この物語のキモは、普通いくら愛しても応えてはくれない人工物が、なんと人間と化して愛に応えてしまうところです。
     したがって少なくとも「なんでこんな奴の願い、叶えちゃうの?」や「なんで像が人間になるの?」という疑問に何らかの形で応じておかないと物語としてぐらぐらになります。
     元々が現実にはありえないメチャクチャな話ですが、このメチャクチャなところを読者に飲み込ませることができれば、この物語は成立します。



    フィクションを支える根拠

     先ほど出た複数の疑問は互いに連関しています。

    Q1.なんで像が人間になるの?

    の答え、つまりこの物語で一番キモである「人工物に生命が宿る」理由ですが、これは

    A1.ピグマリオンがこの像を普通じゃないくらい、ものすごく好きになったから

    以外にはありません。「人工物に生命が宿る」という尋常でない事態の説明は、「人工物を人間以上に愛する」という尋常でない事態しかありません。
     しかし、これにも疑問が生じていました。

    Q2.なんで像なんかに恋するの?

    これも異常な事態なのですから、疑問が生じるのはむしろ当然です。そして、この疑問への答えは、ピグマリオンが生身の女性を好きになれないこともありますが、

    A2.像が普通じゃないくらい、ものすごく魅力的だったから

    ことも外せません。世の中に女性不信の男はたくさんいても像を好きになるとは限りません。この像の魅力が尋常でないレベルでないと、尋常でないこの物語が成り立たないのです。
     しかしこれだけでは足りません。読み手を納得させるには、この像の魅力が、どれくらい尋常でないのかを示す必要があるのです。
     
    Q3.この像は、どれくらい尋常でなく魅力的なのか?

     つまり、現実にはありえないメチャクチャな話の肝心の部分が、この一つの問いに集約します。
     このメチャクチャなところを読者に飲み込ませることができてはじめて、この物語は成り立つのだと言えるでしょう。

     言葉で「その像には尋常でない魅力があった」とだけ言っておけばいいなら簡単です。自らの想像力でもって補ってくれる親切な読者だっているかもしれません。しかし、それを期待するのは小説書きではありません。そして物語の肝心な部分を読者に丸投げしたものは、小説ではありません。

     小説書きは、「Q3.この像は、どれくらい尋常でなく魅力的なのか?」という問いに、像の魅力を描写することで「応え」ようとするのです(「答え」にまではならないとしても)。

     

    《説明》から《描写》へ

     《描写》は、たとえば作者が頭の中で固めたイメージを読者の意識に流し込むために書かれるのではありません。
     あるいは現実の写し絵をつくり、物語にほんとうらしさを付け加えるためでもありません。
     言葉にはそこまでの性能はないし、言葉ができることはもっと他にあります。

     
     今の、女性不信の彫刻家の物語でいえば、「人工物である像が生きた人間になる」というメチャクチャなウソ話を、神学的なリクツ付けや空想科学的な後付け設定で支えるのでなく、言葉の力によって、尋常でない像の魅力を作り出す(でっち上げる)ことによって支えるのが小説であり、これが描写が小説に必要な理由なのです。

     これも一般的に説明するだけでは分かりにくい話なので、実例を示しましょう。
     以下に示す言葉を著したオウィディウスは詩人であり、次に示すものは元はラテン語で書かれた叙事詩なのですが、訳者はこれを散文として訳しました。
     ギリシア神話の片隅にある一エピソードとして知られるものですが、先に説明したとおり、その物語としての成立(フィクションの根拠)を、まさしく描写によって支えています。
     

    プロットをほとんどそのまま「説明(要約)」に移し替えた

     そこでピグマリオンは理想の女性を彫刻しました。
     するとピグマリオンはその像を恋してしまいました。


    に対応する箇所は、描写をまじえて次のように語られます。



     かれは、おどろくべき神技をふるって、雪のように白い象牙で自然がうみだしたいかなる女もおよぶまいとおもわれるような美しい女体を彫刻した。
     そして、みずからつくりだしたこの女像にふかい恋ごころをおぼえた。
     それは、まるで血のかよった乙女そっくりで、とても拵えものの人形とは見えず、女ごころのはにかみに妨げられなければ、いまにも動きだすかとおもえるほどであった。
     人工の技とはおもえないほどの、それは名技であった。
     ピュグマリオンは、すっかり有頂天になって、この見せかけの女体に胸をこがした。
     そして、それが肉でできているのか、それとも象牙でできているのかをたしかめるために、しばしばおのが作品に手をふれてみるのだった。
     それでもなお、象牙でできているとは信じられなかった。
     かれは、人形に接吻をした。すると、接吻をかえしてくるようにおもわれた。
     また、話しかけ、抱きしめてみた。すると、指におされて肉がへこむような気がした。
     かれは、つよくおさえたところに蒼い痣がのこりはしまいかとおそれた。

    (オウィディウス著/田中秀央・前田敬作訳「転身物語」)



     前半では直喩(「雪のように」「まるで血のかよった乙女そっくり」)や否定形(「自然がうみだしたいかなる女もおよぶまい<」)にまじって---比喩も否定形も、言葉で直接表現できないものを表現する技法です---表現上の伏線ともいうべき仕掛けが置かれています。
     まずオウィディウスは、像に対して普通人間に対してしか使わない修飾(「血のかよった」「動きだす」)を使っておいて、それを比喩扱いしたり(「まるで(血のかよった)」)、主観扱いしたりして(「とおもえるほど」)、その表現を引っ込めることを繰り返します。
     また「血の通った」という表現は、この段階ではまだ視覚的な様子を形容しているだけですが、この後続くピグマリオンの行動(像に触れること)の伏線とも考えられます。そして、こう捉えるなら、「白い象牙」についた「雪のように」という直喩も、象牙の像が触れれば冷たいことを暗示しつつ、「血の通った」触れれば暖かい(生身)というイメージを覆いかぶせる意図があるのでは、と深読みしたくなります。
     とりわけ悪質な、もとい、すばらしい表現は、

    女ごころのはにかみに妨げられなければ

    という下りです。この譲歩表現は「AでなければB」という形ですが、AとB、そのどちらを選んでも、この像は生きていることを認めることになる表現のトラップとなっています。まず「A:女ごころのはにかみに妨げられる」が肯定されるのであれば、像は「はにかむ」訳ですから生きていることになります。しかし像なのですから、はにかむことはあり得ない。と否定すると、今度は「にかみによって妨げられな」いのですから、像は「B:いまにも動きだす」と、こちらを選択してもやはり像は生きていることになってしまいます。
     この複雑でトリッキーな表現は、どこかにある像のイメージを言葉で写しとり伝達するために組み立てられたものではありません。そもそも言葉の外にある何かを指し示すためでなく、言葉自体の迷路でもって読み手をからめとるために組織されている、と考えざるを得ません。
     繰り返し「拵えものの人形」「見せかけの女体」と言挙げし、読み手を「人工物である像」の方へ引き止めにかかると見せながら、しかし一方では像が生きていることを前提した表現を織り混ぜ、人工物と生身の間を往復させつつ、象牙の像から生きた女体へとグラデーションで結ぶ橋が渡されていきます。
     
     さて、読み手が人工物と生身の間を往復させられている間にも、主人公であるピグマリオンは、

    すっかり有頂天になって、この見せかけの女体に胸をこがした。

    どうやら読み手より先にこの橋を渡りつつあります。なにしろ、象牙からその像をつくった張本人であるにも関わらず、「それが肉でできているのか、それとも象牙でできているのかをたしかめるため」に、像に触れようというのですから。ここでもオウィディウスは、触れてみる対象をあえて「おのが作品」と呼び、「人工物である像」へ引き戻すふりをするのですが、ピグマリオンの方はもう「しばしば・・・ふれてみる」、1度の確認ではもはや足りず何度でも触れる…恋人の愛撫のように…ようになっています。
     こうして、すでに「確認」の域は越えていることを間接的に示した後で、「それでもなお、象牙でできているとは信じられなかった」というのですが、既にピグマリオンは「象牙であると信じられない」どころの段階ではありません。敢えて言えば「生身でないとは信じられない」ところまで行っています。先ほどまで、「像を生身と誤認する」橋頭堡であった「象牙であると信じられない」(だから確認する)というレベルが、この時点ではむしろ「人工物である像」の方へ引き止めに見えるほど、ピグマリオンの状態は悪化しているといわざるを得ません。ここまで引っ張っておくから、次の

    かれは、人形に接吻をした。

    が唐突ではなく、もはや必然に近く感じられるのです。が、ここが勝負どころと心得るオウィディウスはこの山場でさらに仕掛けます。

    すると、接吻をかえしてくるようにおもわれた。

    誰が? 像以外にありません。「…ようにおもわれた」と急いで主観扱いしていますが、視覚から触覚にステージを移したことで主客が互いに接することでその境が薄れ、ピグマリオンは像からの最初の〈応答〉を得ます。だからこそ、まるで返事を期待するかのごとくピグマリオンは像に「話しかけ」てから、「抱きしめ」ます。まず聴覚と言語(話しかけるとは相手を対等と認めることの暗喩です)に舞台を移し、しかしまたすぐに触覚に戻ります。

    すると、指におされて肉がへこむような気がした。

    とふたたび触覚を主観扱いするのですが、それに続くのは

    かれは、つよくおさえたところに蒼い痣がのこりはしまいかとおそれた。

    〈白い肌(象牙であることはもう忘れられています)に残る蒼い痣〉という鮮烈な視覚イメージを示し、しかしオウィディウスはそれを「見た」とか「残った」とか「信じた」というのでなく、「…しまいかとおそれた」と受けて感情のステージで扱い、もはや比喩で中和せず、事実かどうかを問うこともやめてしまいます。何故なら、傷つけることを恐れるようなピグマリオンの(恋愛)感情こそがこれ以後の主役であり、像が現実にどのようであるかはもはや背景に退くからです。



     オウィディウスの語りはなおも続きますが、情勢はもはや決したと見て(女神の介入を待つまでもなく、ピグマリオンにとっては像はすでに生身に等しくなっています)、このあたりで中断しましょう。
     
     今の話をカメラで撮影すれば、映像として写るのは、ラブドール(しかも自家製)を相手に妄想膨らませて勝手に盛り上がってる変態性欲者のままごとに過ぎません。像は外見的に全く変化しません。このくだりを映像化するのであれば、ほとんどピグマリオン役の俳優の図抜けた演技にのみ頼るしかないでしょう。
     しかしオウィディウスは、ピグマリオンの表情のことなど何一つも語っていません。像に触れたとか接吻したと言いますが、どのように触れたかについては何も述べません。《描写》を巧みに挟み込みながら(そのおかげでピグマリオンの細かい変化が手にとるようにわかります)、実はオウィディウスは《場面》の手法を使わず、あくまで《説明》を主にして処理しています(だからピグマリオンのセリフなども出てきません)。
     おかげでオウィディウスは実に短い記述で(話全体でも文庫本2頁です)、かなり大きなピグマリオンの変化を扱うことに成功し、後世におびただしい数の「愛情を注がれて人間に変わる人工物」の物語を生み出します。


     しかもこれは、人類が2000年も前に通過した地点なのです。


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