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     フィヒテのこの論考には、1800年前後に発表されたものが集められている。

     あの、ぱっとしないドイツ観念論が哲学の分野で一時世界を席巻したのは、
    ドイツの大学システムが世界的に採用されたからである。それくらい当時のド
    イツではじまった大学システムは「優れて」おり、哲学はこの大学システム改
    革に関わることで、まんまと「万学の女王」たる地位をかすめとった。

     哲学はそれまで、1000年以上も長い間、ガキ(初学者)が学ぶものだっ
    た。医学や法学といった、まっとうな学問をこの先学ぼうとする者が、基礎を
    身につけるために習うもの(といえば聞こえはまだいいが)、読み方や綴り方
    みたいなものだった。当然、哲学教師の地位は、てんで低かった。

     ヨーロッパで啓蒙主義の知識人たちが華やかなサロンで活躍していた時代、
    プロイセンやその周辺で小さな「異変」が起こった。それは西洋の知識世界を
    大転換する端緒だった。はじめて無料の義務教育の小学校が設立されたのであ
    る。義務教育制度は、当然ながら、大量の教師の供給を必要とした。これが大
    学の教養課程(哲学課程)の重要性をよみがえらす圧力となった。これまで大
    学の専門課程に学生を供給するだけだったセクションが、公立学校へ教師を供
    給するという知的市場で一番の成長分野を担うことになったのである(ドイツ
    では中等教育と大学は分離しておらず、教職ポストはどちらも連続していた。
    多くの大学教授がギムナジウムの教師からそのキャリアを開始した)。しかも
    人材を作る人材をつくるという、このプロセスは拡大再生産となった。知的分
    野のテイク・オフが始まったのである。

     こうして、教養課程がこれまでの従属した地位を逃れ、活動自体の独自性を
    主張する機会が生まれた。しかも、専門分化した神学部(神学者)や法学部
    (法律家)とことなり、教師が持つべき知識には内在的な制限はない。専門的
    な教員養成機関としての独立性と、知的分野・研究分野の非制限性とが、この
    古くて新しい教養課程に独自の地位を占めさせることになった。ここでカント
    が、フィヒテが、シェリングが、全く新しい形態の哲学を提案した。もはや基
    礎課程でも、ひとつの科学でもなく、「万学の女王」であるような哲学を。
    1810年、ようやく哲学部は大学院を持つようになり、教養学の学位(すな
    わちPh.D)が公立学校の教職のために授けられるようになった。

     先にふれた知的人材の拡大再生産によって、大学生が増え大学教師の数もま
    た増えると同時に、激しい競争が生まれた。教師たちは学識ばかりか独自性を
    も競い合い(競争の結果、生き残れる場所=ニッチを探し求めて専門分化が進
    んだ)、その結果、哲学と人文科学、同様にして数学などの、純粋科学が誕生
    した。つまるところ、知識人共同体の歴史上、かつてないほどの内部分裂が生
    じた。

     アカデミーを抱えるヨーロッパ諸国では、知識人は著作を著し歓談し文通し
    たが、ドイツの大学の教師たちが経験したような激しい専門分化の波にも知的
    競争にもさらされることはなかった。ヨーロッパの知識人はこのころ、よい意
    味でも悪い意味でもアマチュアだった。

     ドイツでは自由なサロンが官僚制的な大学に置き換えられ、組織に見合った
    専門化を進めていった。この中で失ったものも少なくなかったが、専門分化と
    競争圧力によって生まれた高い学問生産性に、やがてヨーロッパの他国は後塵
    を拝するようになる。19世紀には、ヨーロッパ中から学生・学者がドイツに
    留学し、そのシステムの一端でも持ち帰ろうとした。

     万能の知識人は消滅し、大学が知的世界の独占者になろうとしていた。

    フィヒテ全集 (第22巻)フィヒテ全集 (第22巻)
    (1999/02)
    フィヒテ

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